とある魔術の禁書目録5 鎌池和馬 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)薔薇のように見目|麗《うるわ》しい姫さま [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから○字下げ] ------------------------------------------------------- [#改ページ] 底本データ 一頁17行 一行42文字 段組1段 [#改ページ] とある魔術の禁書目録5  8月31日。  |一方通行《アクセラレータ》はその日、路地裏で不思議な少女と出会った。そいつは、どこかで見た顔で——。  御坂美琴はその日、学生寮の前で男子生徒からデートに誘われた。そいつは超さわやかなヤツで——。  上条当麻はその日、自宅で不幸な一日の始まりを感じた。なぜなら、夏休みの宿題を全くっていないことに気づいて——。  8月31日。学園都市の夏休み最終日。  それぞれの物語が幕を開けた——!  鎌地×灰村コンビが放つ大人気学園アクション第五弾登場! [#改ページ] 鎌池和馬 人間の脳には、人の顔を見分ける細胞があるそうです。 ここが誤作動を起こすと壁の染みが人の顔に見える、ということが起きるそうで。著者近影をご参照あれ。……えっと、誤作動起こしてます? イラスト:|灰村《はいむら》キヨタカ 1973年生まれ。独り暮らしを始めて以来、右肩上がりで食事を外で済ませてしまう確立が急上昇中。エンゲル係数も絶賛急上昇中です……。 [#改ページ]   とある魔術の禁書目録5 [#改ページ]    c o n t e n t s      序 章 始まりの夜 Good_Bye_Yesterday.    第一章 とある科学の一方通行 Last_Order.    第二章 とあるお嬢の超電磁砲 Doubt_Lovers.    第三章 とある御坂の最終信号 Tender_orSugary.    第四章 とある居候の禁書目録 Arrow_Made_of_AZUSA.    終 章 終わりの夜 Welcome_to_Tomorrow. [#改ページ]    序 章 始まりの夜 Good_Bye_Yesterday.      1(Aug31_AM00:00)  鼻血が出た、  深夜。|上条当麻《かみじようとうま》は、ユニットバスのお湯を抜いて水気を|綺麗《きれい》に|拭《ふ》き取ったバスタブの中で丸まりながら、自分の鼻を己の手で押さえていた。原因は|柿《かき》の種に含まれるピーナッツを食べ過ぎた事らしい。とりあえず、彼はいじっていた携帯電話をバスタブの縁に|避難《ひなん》させる。  ユニットバスは上条当麻の私室であり寝室でもある。彼は|学生寮《がくせいりよう》に住んでいる訳だが、そこには彼の|他《ほか》にもう一人、インデックスと名乗る少女が寝泊りしている。  この『寝泊り』こそが健全なる男子高校生・上条当麻の目下最大の悩みである。完全|完璧《かんぺき》無防備状態で『寝泊り』している少女を前に間違いを犯さないように、上条は夜が更けるとユニットバスに|鍵《かぎ》をかけて閉じこもる生活を送っている。 (ちなみに、何で彼女と同居するようになったのか、その理巾は上条には分からない。彼は|記憶《きおく》喪失なのだ。気がついたらすでに|一緒《いつしよ》にいた、というのが彼の感想である)  普通は鍵のかかる部屋を使うのは女の子の方……とは思うのだが、インデックスの場合は寝ぼけると自ら鍵を開けて上条の元までやってきてしまうので、それでは意味がないのだった。 (うう、ティッシュティッシュ)  鼻を押さえながら上条はユニットバスの鍵を開けた。もうインデックスは眠りに就いているのだろう、|灯《あか》りは完全に消えている。月明かりも弱く、物の輸郭がわずかに判断できるぐらいの明るさしかない。  どこか遠く———諮そらく寮の外から、ケンカをするような物音が聞こえたが、ここからでは良く分からない。上条は|一瞬《いつしゆん》だけ窓の外へ意識を向け、それから部屋の中へ戻す。  雑多な部屋だった。読みかけの雑誌やマンガが床の上に散らばり、本棚の本は巻数がバラバラに差し込んである。テレビに|繋《つな》がる何台ものゲーム機が拡張コネクタ経幽で複数同時に接続されていて、ガラステーブルに置かれたノートパソコンの上には飲みかけのジュースのペットボトルが横倒しのまま|鎮座《ちんざ》している  |壁際《かベサわ》にはベッドがあり、ティッシュの箱はその近くの床に置いてあったはずだ……と上条は|暗闇《くらやみ》の中で一っ一つ思い出しながら、部屋の中を歩くと、ベッドの近くまで来た時に、上条の足が何かをグシャリと踏み|潰《つぶ》した。紙箱のような感触だった。拾って良く観察すると、それはぺったんこになったティッシュの箱だった。 「……、不幸指数二〇。まあ、ティッシュとして機能するなら」  自分の足の裏が踏んづけたモノを鼻に詰めるというのに少し抵抗を覚える|上条《かみじよう》だったが、かと言つて|他《ほか》にティッシュはない。上条はため息をつくと、|潰《つぶ》れた箱からティッシュを引き抜いて丸め、自分の鼻に詰め込んでみる。  と、不意に窓から|灯《あか》りが|射《さ》し込んだ。  上条のいる|学生寮《がくせいりよう》と|隣《となり》の学生寮の間隔は二メートル前後しかない。よって、真正面の建物で灯りが|点《つ》くとその光が上条の部屋の中まで思いっきり入ってくるのだ  遮光力ーテンによって向かいの窓は閉ざされていたが、それも|完璧《かんぺき》ではない。  カーテンから漏れた人工の光が、|薄《うす》く上条の部屋全体を照らし出す。今まで物の輪郭しか見えなかったのが、色や質感の違いまで分かる程度の|薄暗闇《うすくらやみ》へと|変貌《へんぼう》していく。  う、と上条は目の前に飛び込んできた光察に、少し息を詰まらせた。  スゥスゥという、小さな吐息。  その音を|辿《たど》ると、ベッドの上で眠る一人の少女に行き当たる。  |歳《とし》は一四、五歳ぐらいの、長い銀髪を持つ白い肌の少女。背は低く体重も軽いが体温は平均より少し温かいかもしれない。特に何かをつけている訳でもないのに肌からわずかに甘い|匂《にお》いがするのも一つの特徴である。  ぶかぶかのワイシャツ一枚で眠っている少女の名前はインデックス。  彼女は暑いのが苦手なのか、タオルケットはベッドの下へ|叩《たた》き落とされていた。ごろんと横向きになって手足を丸める彼女は、母親のお|腹《なか》の中で眠っている子供のようにも見える。  決して広くはないベッドだが、彼女は|何故《なぜ》かベッドの端で眠っていた。  まるで、もう一人分の居場所を用意しているような、そんな奇妙な空間がある。 (うっ……|誰《だれ》の居場所かなんてのは、聞くだけ|野暮《やぼ》ってもんだよな)  |上条《かみじよう》は|薄暗闇《うすくらやみ》の中でわずかに顔を赤くしながら、しかし首を横に振った。インデックスが見せる一連の無防備さは、あくまで上条に対する|信頼《しんらい》であって、好意とは少し違うような気がする。印象がどこまでも子供っぽく素直なのだ。大人のような何かを含んだ感じはしない。  しかもその信頼は、今ここにいる上条に向けられたものではない。  上条|当麻《とうま》は|記憶《きおく》喪失だ。そして、インデックスは上条が記憶喪失である事を知らない。つまり、彼女が信頼を寄せているのは『記憶を失う前の』上条当麻であって、『今ここにいる』上条当麻ではないのだ。  だからこそ、勘違いしてはいけない。彼女が無防備に眠っているのも、上条と|一緒《いつしよ》にベッドを使おうとしているのも、スゥスゥと小さな寝息が聞こえるたびに細かく動く唇も、吐息と共に上下する小さな胸元も、ぶかぶかのワイシャツから飛び出している|際《きわ》どい|太股《ふともも》の白色も、 (……、ま、何ですか、その、あの、えーっと、あれです、はい)  上条が微妙に汗だくになりながら固まっていると、インデックスの規則的な寝息が止まった。 もぞもぞとベッドの上で身じろぎすると、呼吸が意識的なものになる。それから、彼女は閉じていたまぶたをパッチリと開いた。 「う、ん……とうま?」  ごしごしと片手で目を|擦《こす》りながら、インデックスは話しかけてくる。 「あ、悪い。起こしちまったか」 「というより、なんか|眩《まぶ》しくて目が覚めたのかも。む、お向かいさんが|灯《あか》りを|点《つ》けているんだね。まったく、こんな時間だっていうのに非常識なん——」  言いかけて、インデックスの口がピタリと止まった。  どうしたんだろ、と上条が思っていると、何やらインデックスは自分の体のあちこちを見回して衣服の乱れをチェックし始めた。それが終わると今度は己の肩を抱きながら思い切りジト目になって彼の事をベッドの上から|睨《にら》み付ける。 「えっと、とうま。念のために聞くけど、何するためにこんな所まで来たの?」 「何しにって、あのな。単に|俺《おれ》は鼻血———」  そこまで言って、ふと上条は状況を理解した。  唾眠中のインデックス、ワイシャツ一枚、大胆に|覗《のぞ》いている太股、その顔を覗き込むように———いや見ようによっては|覆《おお》い|被《かぶ》さるような格好の上条当麻、ついでに鼻にはティッシュ、つまりは鼻血の|痕跡《こんせき》。 Q1、この状況はベッドから目覚めたばかりの女の子視点ではどう映りますか?  |上条《かみじよう》の両手から不自然な汗がぶわっと噴き出した。壮絶に嫌な予感がする。その予感を裏付けるように、ベッド上にいる少女の目がどんどんお怒りモードになりつつある。そう、勘違いしてはいけない。彼女が無防備なのは上条|当麻《とうま》を|信頼《しんらい》しているからで、決して上条に|全《すべ》てを許している訳ではない。寝ぼけている時に|布団《ふとん》に潜り込んでくるのと、意志を持って|誰《だれ》かを迎え人れるのは金く別次元のお話なのだ。 「お、おいおいインデックスさん勘違いしてもらっちゃ困るなそんな鼻血=|興奮《こうふん》なんて王道的マンガ展開じゃねーんだから実際にそんな事が起こってたまるかあんなの記号ですよ記号」 「とうま」  ピシャリと遮られた。  泣くんだか怒るんだか良く分からない、つまり一番危険な表情のままに、彼女は問う。 「天にまします我らの父に誓って言える? 本当に私の寝顔を見ても何も感じなかったって」  うっと、かなり|真《ま》っ|直《す》ぐな|瞳《ひとみ》でインデックスは言った。  うっ、と上条は心の中でわずかに身じろぎする。  本当は、本当の本当はインデックスの寝姿を見た時に、ちょっとぐらっときた。少なくともその寝顔を児て|可愛《かわい》いなとは思ったし、よくよく思い出してみれば白い|太股《ふともも》を見た時に|生唾《なまつば》でも飲み込んだ気もする。  だが、そんな事は目の前の爆発寸前少女には断じて告白できない。  彼女の|悪癖《あくへき》の一つに|噛《か》み|癖《ぐせ》というものがある。機嫌が良いと二の腕に甘噛みしてくるし、機嫌が悪くなると本気で頭にかじりついてくる。もっとも、上条以外の人間にこれをやっている所を見た事はないのだが、とにかく上条はこの噛み癖に参っていた。服はもう何着かが|傷《いた》み始めているし、この|歳《とし》で真剣に頭皮のダメージの心配とかはしたくない。 「それで、とうまは誓える?」  インデックスはもう一度、確認を取るように繰り返した。  噛み癖反対派の上条は見た目平然なふりを装いつつ、 「はっ、ナニ言ってんだかこのお|嬢《じよう》さんは。お前の寝顔なんか見たって何にも感じな——」  言い終わる前に上条はインデックスに|蹴倒《けたお》されて馬乗りされて頭をガブガブと連続で噛み付かれた。例えば|格闘《かくとう》ゲームなら三ゲージぐらい使いそうな具合に 「何にも? 何にも感じないってどういう事! 私はこれでも一応女の子なのであって少しはそういった感情も抱いてくれなければショックを受けてしまうというのに!!」  半分涙目の怒り顔で彼女は言う。しゃべりながら噛むから余計に痛い。 「ああそっちか、読み間違えた! すいませんインデックスさん、実を言うとワタクシ上条当麻はあなたの寝顔を見て不覚にもトキメイてしまいました!」 「今さらそんな|覆《くつがえ》された発言を信じうっていうのが無理なんだよ!」 「っつーかどっちを選んでも|噛《か》み付かれるのか! ちくしょう、|超電磁砲《レールガン》の|美琴《みこと》だってこんなに凶暴じゃねーぞ!?"」  と、インデックスの|眉《まゆ》が片方ピクリと動く。 「……、とうま。レールガンノミコトって、|誰《だれ》?」 「あー」嫌な予感がさらに|膨《ふく》らむ。「イザナギノミコトの親戚とか。和風っぽく」 「|嘘《うそ》! それ絶対に嘘! レールガンってどんなものか知らないけど明らかに横文字だし!」 「いやこっちは逆にイザナギってどんなのかうろ覚えなんだけど。いーんじゃね」のレールガンぶっ放す日本神話があったって———って痛い痛い!」  |猛獣《もうじゆう》少女の馬乗り状態から一刻も早く抜け出したい|上条《かみじよう》だが、重心をピンポイントで押さえつけられて脱出できない。その右手に宿る力『|幻想殺し《イマジンプレイカー》』は、いかなる異能の力も触れただけで打ち消す事ができるが、こんな状況では何の役にも立たない|無能力《レベル0》だ。上条が唯一動く首をブンブンと振り回すと、鼻に詰め込んでいたティッシュが抜け落ちてしまった。  だー、と鼻から流れてくる赤い液体。 『血』というものを見たせいか、ここにきてようやくインデックスの表情に冷静さが戻って来た。インデックスの眉が困ったように八の字に寄せられていく。 「と、とうま。何か本気で血が出てるんだけど、どうしてこんな事になってるの?」 「あ? いや別に、|柿《かき》の種ん中のピーナッツの食べ過ぎだと思うけど」 「……、私は。ピーナッツに負けちゃったんだね」  馬乗りになったまま、がっくりとうな垂れる銀髪|碧眼《へきがん》のシスター少女。冷静になるとワイシャツ一枚で男の上に馬乗りというのはとてつもない非日常だし、現に今もとんでもなく柔らかい感触が上条の腹の辺りに当たっている訳だが、そんな事にも気がつかないほどの落ち込みっぷりだった。 「うう、とうまがピーナッツに|興奮《こうふん》して鼻血を出すような人だったなんて。でも|大丈夫《だいじようぶ》、私はきっとそんなとうまを受け人れてまた一っ大きくなってみせるから」 「おい、話が面白いぐらい変な方向に|歪曲《わいきよく》してねーか?」上条はため息をついて、「とにかく鼻血を止めたいからそこどけ。もしくは新しいティッシュをおくれ 一度使ったどろどろティッシュをもう一度詰めるのもちょっとキツイし」 「ティッシュティッシュ……って、とうま。どこにあるの?⊥  インデックスは辺りをキョロキョロと見たが、すぐそこにあるはずのティッシュの箱を見落としたらしい。馬乗りのまま首をひねっていた彼女は、やがて何か|閃《ひらめ》いたように、 「とうま、とうま。紙ならここにもあるよ」 「ふざけんな。そんなガサガサコピー用紙なんぞ詰め込んだら鼻の粘膜が傷だらけになっちまうわ。ったく、ほらどけよインデックス。自分でティッシュ取るから——」  と、言いかけた|上条《かみじよう》の口が、途中で止まった。  彼はインデックスが差し出した紙切れに書かれた文字を、|驚愕《きようがく》の表情で|凝視《ぎようし》している。 「あ、れ? おいちょっと待て、これなんて書いてある?」 「え? うーんと……『夏休みの宿題・数学計算問題集』とかって書かれているけど。とうま、ひょっとして漢字読むのが苦手な人?」  上条の思考が完全に凍結した。  そう、宿題。夏休みの宿題。上条はこの夏休みをかなりドラマチックかつファンタジックかつアクロバティックに過ごしてきた訳だが、そういえば、『夏休みの宿題』なんていう最大の|足枷《あしかせ》に手をつけている揚面は、なかった、ような、気が、す、る。  こてん、と。上条は馬乗りされたまま、首を横に傾けた。横倒しになった視界の先に、壁にかけられた時計とカレンダーが見える。今日の日付と今の時刻が分かる。  八月三一日、午前〇時一五分。  夏休みの終わりまで、残り時開はおおよそ二四時間。 「……、うふふ。不幸だー、とか言うと思っただろ? でも人間ね、本当の本当に不幸な時ってそんな事を言ってる余裕もないの。うふふ、うふふふふふふ」 「とうま、なんか口調が違うし|誰《だれ》に向かって説明してるか分からないんだよ」 [#改ページ]    第一章 とある科学の一方通行 Last_Order.      1(Aug.31_AM00:00)  ———深夜の路地裏には、怒号と絶叫と悲嶋と何かが|壊《こわ》れる音が|炸裂《さくれつ》していた。  コンクリートとコンクリートに|阻《はば》まれた、細長い直線のような場所だった。おそらく両サイドを阻んでいるのは|学生寮《がくせいワよう》だろう。そこで七人ぐらいの少年が息を巻いている。さらに視線を下に向ければ、地面には三人ほどの人間が血を流して倒れていた  七人の少年|達《たち》の乎にはジャックナイフや警棒、催涙スプレーなどが握られている。|破壊力《にかいりよく》は抜群だが使い慣れている感はなく、ビニール包装を解いたばかりの新品ですという印象は|拭《ぬぐ》えないが、それが殺人にも使える|得物《えもの》である事に聞違いはない。いや、むしろ|素人《しろうと》が威力も分からずに振り回すというのも、それはそれで別種の危険を|孕《はら》んでいると言っても良い。  七人の少年達はたった一人の人間を取り囲んでいた。  彼らの目は皆、血走っていた。  それでも、取り囲まれているたった一人の人間は、動じない。  むしろ、自分を取り囲んでいる凶器持ちの七人の事が視界に入っていないかのように、細く切り取られた夜空を見上げながら何かを思案しているようにも見える。コンビニに行った帰りなのか、店名の入ったビニール袋をブラブラと揺らしている。中身はどうやら缶コーヒーらしく、一〇本以上の缶が袋を内側から押していた。  彼は白く、白く、自く、白い印象を持つ少年で。  それ以上に、学園都市最強の|超能力者《レベル5》というイメージを見る者へ凶悪に|叩《たた》きつける。  ふと思う。あの|無能力者《レベル0》との一戦には果たしてどれほどの意味があったのか。  |一方通行《アクセラレータ》と呼ばれる人間は、ぼんやりと思考する。  おォあ! という背後からの絶叫。  |一方通行《アクセラレータ》を取り囲む凶人達の一人が、ナイフを手に彼の背中へ突っ込む。だが、|一方通行《アクセラレータ》は振り向きもしない。視線すら向けない。その無防備で|華倉《きやしや》にすら見える背中に、凶人は体ごと突っ込むような形で全体重を乗せたナイフの先端を突き人れる。  二万人の|妹達《シスターズ》を使用した|絶対能力《レベル6》への進化『実験』、その末路  彼の敗北は、世界に対してどのような変化を与えたのか。  ボギン、と骨の折れる音が|一方通行《アクセラレータ》の背中から|響《ひび》いた。  もちろん、それは|一方通行《アクセラレータ》の体が|壊《こわ》れた音ではない。彼の背中をナイフで刺そうとした凶人の手首が折れたのだ。ナイフにかかる全体重を乗せた力の「|向き《ベクトル》』を反射された事で、ナイフを握る細い手首の方が強度的に耐えられなかったために  ぎやああ!! という凶人の新たな絶叫。  乎首を押さえてゴロゴロと汚い地面を転がる光景は、|滑稽《こつけい》だった。  少年はあの時から、『学園都市最強』…ではなくなったらしい。  彼が学園都市で七人しかいない|超能力者《レベル5》である事も、その『|皮膚《ひふ》上に触れた運動量・熱量・電気量その他あらゆる力のベクトルを自在に変更できる』能力にも何ら変化はないのに。  仲間の絶叫に|誘爆《ゆうばく》するように、残り六人の少年|達《たち》が一斉に|襲《おそ》いかかる。  しかし、真の意味で『勝てる』と思って戦っている者は、何人いるのか  彼らの目は、確かに血走っていた。  だが、それは度を越した|緊張《きんちよう》や不安、恐怖や|焦燥《しようそう》によるもののようにも見えた。  あの一戦を境に、彼は昼夜を問わず多くの者に|襲撃《しゆうげき》されるようになった。 『学園都市最強』という壁が取り払われた。そんな事を、本気で信じてしまった者達によって。  次々と|雄叫《おたけ》びを上げて振るわれるナイフや警棒に、しかし|一方通行《アクセラレータ》は視線も向けない。だらりと両乎は下げたままだ、彼は何もしなくても、自滅を待つだけで良い。凶人達は自らが振るった攻撃の全ベクトルを、複雑でもろい手首の骨へと集中的に「反射』される  だが、そういった者達はたったの一人の例外もなく、即座に気づく。  初撃を放ち、それが失敗した時点で学園都市最強は、健在である事に。  凶人逮の骨の砕ける音が連続して響く。絶叫してのた打ち回る彼らを、やはり|一方通行《アクセラレータ》は無視した、体術に訴えるのは危険と感じたのか、それまではなけなしの良心でもあったのか。今さらになって『能力』を使おうとする者が現れる。  それでも襲撃は終わらない。  何度|潰《つぶ》しても何度|叩《たた》いても何度証明しても、バカどもが|貼《は》ったレッテルは|剥《は》がれない。  それが何の能力者であるか、|一方通行《アクセラレータ》には良く分からなかった何だか良く分からない力が発せられて、何だか良く分からない力が『反射』しただけ。ポカンとした能力者の男は、直後に自分が放った自信満々の|一撃《いちげき》をその身に受けて地面に転がった。死ななかった所を見ると、せいぜい|異能力《レベル2》止まりといった所だろう。  さて、と彼は思案する。  |妹達《シスターズ》、|超電磁砲《レールガン》が|関《かか》わったあの一戦を境に、|一方通行《アクセラレータ》の何が変わったと言うのだろう?  |一方通行《アクセラレータ》は弱くなったのか、強くなったのか。  それとも、あの名も知れぬ|無能力者《レベル0》が強くなったのか、弱くなったのか。 「あン?」  ふと自分を収り囲む|喧騒《けんそう》が|沈黙《ちんもく》している事に気づき、|一方通行《アクセラレータ》はようやく路地に切り取られた夜空から周囲に目をやった。 |一方通行《アクセラレータ》を勝手に取り囲んだ凶人|達《たち》は、これまた勝乎に自滅して汚い地面の上にのびていた。のびていた、と|穏便《おんびん》な言葉で表現するには辺りに血が飛び散り過ぎていたが、少なくとも死者はない  |一方通行《アクセラレータ》と正面から渡り合ったのだ。呼吸できるだけでも奇跡と呼んで差し支えない  後ろを振り返れば一〇人ほどの凶人|達《たち》が倒れていたが、しかし|一方通行《アクセラレータ》が何かをした訳でもないし、彼はこれを『|戦闘《せんとう》』とすら感じ取っていなかった。深夜にコンビニへ行き、缶コーヒーを買って帰る途中だった———彼にとっては、その程度の認識しかない。  路上に倒れる者達にトドメを刺そうとも思わなかった。今日殺せる者は明日殺せるし、明日殺せる者は一年後にだって殺せる。ムキになるのが|馬鹿《ばか》らしかった、あの『実験』と違い、|躍起《やつき》になった所でゴールもない。ゴールのない遠泳など|溺《おぼ》れているのと同じだ。 「あー、違うよなァ。|牙剥《きばむ》いた馬鹿を見逃すなンて|俺《おれ》の|人格《ソフト》じゃねェよ。やっぱ何かが変わったンだ。でも何が変わったンだァ? 何なンだこりゃ、なーンなーンでーすかー?」  |一方通行《アクセラレータ》は首をひねった。勝ち負けの混在する勝負を知ったせいで一方的な圧勝に満足できなくなった———という意見は|些《いささ》か美化し過ぎだろう。というより、自分が痛めつけられる場面を笑って思い出す人間がいたら、そいつは本物のマゾだ。  うーン、と|一方通行《アクセラレータ》は腕を組んだ。袋の中の缶コーヒーが揺れる。缶は全部で一〇本以上あり、しかも|全《すべ》て同じ銘柄だった。彼は気に入った商品を見つけると毎日連続で飲み続け、 一週間もしない内に飽きて新たなコーヒーを探す、というサイクルを送っていた。 (ったく、何なンだっつのォ。このやる気のなさは)  彼はもう一度切り取られた夜空を見上げると、はるか頭上———七階か八階辺りから少女らしき声が聞こえてきた。 「何にも? 何にも感じ……いう事! 私はこれ————女の子なので……はそういった感情も抱いて———ければショックを受けて……うというのに!!」  深夜だからか、その声は妙に路地へ|響《ひび》いた。  なンだ|痴話喧嘩《ちわげんか》か、と|一方通行《アクセラレータ》は自分の元へ降りかかる|無駄《むだ》な『声』——空気の振動を『反射』した。その行為があと数秒遅れていれば、彼の良く知る|無能力者《レベル0》の絶叫も聞こえたはずだった 『反射』は無意識の内に行う、敢も簡単な演算によって成り立っている。まず必要最低限の力(重力、気圧、光量、酸素、熱量、音声波長など)を算出し、『それ以外の全ての力の向き』を『反射』するよう計算式を組み上げる。本当にあらゆる意味で『全てを反射』してしまうと、彼は重力に反発して大気圏外まで飛んでいってしまうのだ。  |一方通行《アクセラレータ》は自分に降りかかる『音』を新たに反射設定に加えると、路地を抜けて大通りへ出た。何となく夜空を見上げながら歩く。前は見ていないが、障害物を気に留める必要はない。 『反射』があれば彼の体が傷つく事はない。  しかし、だからこそ|一方通行《アクセラレータ》は気づくのが遅れた。  何者かが|一方通行《アクセラレータ》のすぐ後ろにぴったりと張り付きながら、|喉《のど》をぜェぜェ鳴らして必死に何かを叫んでいる事に、 「あァ?」  |一方通行《アクセラレータ》は歩きながら肩越しに背後を見る。  奇妙な人間だった。まず、格好がおかしい。頭から汚い毛布を|被《かぶ》っているだけである。どこぞの秘密結社のマントのように明るい空也の毛布で顔も体もすっぽりと隠していて、その人物の性別すらも判別できない。その下にどんな服を着ているのかも分からない。  その上、身長が極端に低かった。決して大柄ではない|一方通行《アクセラレータ》の腹ぐらいの高さしかない。一〇歳前後の少年か少女だろう、おそらく。平均的なホームレスに比べて、明らかに幼すぎる。もっとも、この学園都市の住人の八割は学生なのだから、全く例がないという訳でもないが。  その怪人チビ毛布は|一方通行《アクセラレータ》に向かって何かを叫んでいる、 「——————ッ! ……、———。……………ッ!?」  が、音を『反射』しているので|一方通行《アクセラレータ》の耳まで届かない、|一方通行《アクセラレータ》はのんびりと頭上を見上げてから、試しに音の『反射』を切ってみた。  |一方通行《アクセラレータ》の耳に、甲高い、しかしどこか平淡な少女の声が飛んでくる、 「———いやーなんというかここまで完金|完璧《かんぺき》無反応だとむしろ|清々《すがすが》しいというかでも悪意を持って無視しているにしては歩いているぺースとか普通っぽいしこれはもしかして究極の天然さんなのかなーってミサカはミサカは首を|傾《かし》げてみたり」  その少女は|一方通行《アクセラレータ》からほんの一〇センチの距離に立っていた。彼を知る者がその光景を見れば、引きずってでも|一方通行《アクセラレータ》から離そうとするだろう。あるいはもう手遅れだと|諦《あさら》めるかもしれない。  その少年は、指先一本触れただけで人を殺す事ができる。わずか一〇センチの距離に立つ少女は、ニュアンス的には大あくびをするライオンの口を|覗《のぞ》き込んでいるようなものなのだ。  しかし、いつまで|経《た》っても血の惨劇は起きない。  少女はのんびりとそこに立っている。  |一方通行《アクセラレータ》はわずかに顔をしかめた。彼の能力は『あらゆる向きを変換する』モノであって、つまりどれだけ近くに寄っても、直接突っかからない限りはダメージを与えない。 『反射』はあくまで『反射』であって、それは害意持つ者にしか|牙《きば》を|剥《む》かない。  最初から害意のない者だけは、決して傷つけない。 「……、くっだらねェ」 「ブツクサ言ってる間にどんどん距離が開いていくんだけどミサカの事は見えてないの妖精さん扱いなのほらミサカはここにいるよー、ってミサカはミサカは自己の存在を激しくアピールしているのに存在企否定?」  |一方通行《アクセラレータ》は首をゴキゴキ鳴らしながら帰り道を行く。と、置いてきぼりをくらった少女は少し慌てたように、 「おーい、だからミサカはミサカはここにいるんだって———あれ、ひょっとしてなかった事にされてる? ってミサカはミサカはミサカの首をミサカらしく|傾《かし》げて……む? 今、何回ミサカって言ったっけ、ってミサカはミサカは思考の泥沼にはまってみる」 「待て。……、ミサカだと?」  |一方通行《アクセラレータ》の足がピタリと止まる。何が|嬉《うれ》しいのか、それだけで毛布少女は小走りになって追い着いてきた。実は顔が見えないので正確な所は良く分からないのだが。 「おおっ、ようやくミサカの存在が認められたよわーい、ってミサカはミサカは自画自賛してみたり。我思う|故《ゆえ》に我ありなんて言葉は|嘘《うそ》っぱちだねやっぱり主観だけでなく客観で何者かに存在を認めてもらわない限り自己なんてありえないね、ってミサカはミサカは間違った知ったかぶり知識でコギト=エルゴ=スムを全否定してみる」 「ちょっと待てコラ今すぐ|黙《だま》れ。オマエその頭から|被《かぶ》ってる毛布取っ払って顔見せてみろ」 「って、え? えと、えっと、えーっと、まさかこんな往来で女性に衣服を脱げというのは|些《いささ》か大胆が過ぎるというか要求として|無茶《むちや》があるというか———って、あのー、ミサカはミサカは尋ねてみるけど。ほんき?」 「……、」 「わあ黙った。本気と書いてマジと読む目だよこの入ってやめて毛布を引っ張らないで。この下はちょっと色々まずいんだからってミサカはミサカは言ってるのにぎゃああー!?」  最後だけ平淡な口調ではなくなったが、それでどうにかなる訳でもない。彼女の頭の上に被さっていた毛布は下へ下へと落ちていく。  ———まず始めに見えたのが顔。  |一方通行《アクセラレータ》の良く知る|量産型電撃使い《レデイオノイズ》『|妹達《シスターズ》』と全く同じモノ。ただし、『|妹達《シスターズ》』の年齢設定が一四歳であったのに対し、目の前の少女の顔つきは一〇歳前後でしかない。何かびっくりしていたように大きく目を開いていた。ここらへんも、やはり|妹達《シスターズ》らしくない。  ———次に見えたのが肩。  素肌が|露出《ろしゆつ》するデザインの衣服を着ているのか、やはり体つきは一〇歳前後のものらしく、浮き出た|鎖骨《さこつ》などは触れただけで折れそうな|繊細《せんさい》さを|垣間見《かいまみ》せている。  ———さらに見えたのが裸の胸。  ———そして見えたのが裸の腹。  ———最後に見えたのが裸の足。 「あァ? 何だこりゃあ、———ってか何だァそりゃあ?」  毛布を|掴《つか》んだままの|一方通行《アクセラレータ》の顔が思わず引きつった。彼の人となりを知る人物がこの光景を見ていたら、|悪寒《おかん》と共に笑い転げていたかもしれない。  結論だけ言えば、その少女は毛布の下には何も身につけていなかった。  事態に心がついていけないのか、彼女はリアクションを忘れて|呆然《ぼうぜん》と突っ立っていた。  詰まる所、完全無欠に素っ裸の少女が目の前にいた。      2(Aug.31_AM00:25)  毛布を毛布を返して返してと涙目で言う少女の頭に|一方通行《アクセラレータ》は汚れた布の塊を投げつけた。 少女はそれを受け取るとモソモソと自分の全身を包み込み、|誰《だれ》も求めていないのに勝手に説明を始め出した。 「ミサカの|検体番号《シリアルナンパー》は二〇〇〇一号で、『|妹達《シスターズ》』の最終ロットとして製造されたんだけど、ってミサカはミサカは事情の説明を始めるけど。コードもまんま『|打ち止め《ラストオーダー》』で本来は『実験』に使用されるはずだったんだけど、ってミサカはミサカは愚痴ってみたり」  あァそうかい、と|一方通行《アクセラレータ》は気にせず大通りを歩いていく。  |打ち止め《ラストオーダー》は慌てて彼の背中を追い掛けながら、 「ところがどっこい見ての通り『実験』が途中で終わっちゃったからミサカはまだ体の調整が終わってないのね、ってミサカはミサカはさらに説明を続けたり。製造途中で培養器から放り出されちゃって何だかチンマリしちゃってるの、ってミサカはミサカは……聞いてる?」  それで|俺《おれ》にどォしろってンだ、と|一方通行《アクセラレータ》は歩きながら言う。  確かに『実験』の後、残った|妹達《シスターズ》は皆『別の組織』に保護されたと聞くが、何せ数は一万弱。その|全《すべ》てを把握できていない可能性だって考えられるだろう。となると、彼女は管理から漏れたせいで保護もされずに街の中をさまよっていたのだろうか。  と、そんな見た目一〇歳前後の家ナシ少女は毛布を引きずりながら、 「アナタは『実験』のカナメであるはずなので研究者さんとの|繋《つな》がりもあると思うから、できうる事なら研究者さんとコンタクトを取ってもらいたいかな、ってミサカはミサカは考えてる訳。今のミサカは|肉体《ハ ド》も|人格《ソフト》も製造途中の不安定な状態なので、希望を言うならもう一回培養器に人れてもらって『完成』させて欲しい訳なの、ってミサカはミサカは両手を合わせて小首を|傾《かし》げて|可愛《かわい》らしくお願いしてみるんだけど」 「|他《ほか》ァ当たれ」 「いえーい即答速攻大否定、ってミサカはミサカはヤケクソ気味に叫んでみたり。でも他に行くアテもないのでミサカはミサカは|諦《あらら》められないんだから」 「……、」  何なンだコイツは、と|一方通行《アクセラレータ》はため息をついた。  彼は虐殺者だ。|御坂美琴《みさかみこと》の体細胞クローンである『|妹達《シスターズ》』を一万人以上殺してきた人間だ。 脳波リンクによって「|妹達《シスターズ》』は|記憶《きおく》を共有させているので、この|打ち止め《ラストオーダー》もその事は知っているはずなのだが。  それとも、製造途中だった|打ち止め《ラストオーダー》にはまだ脳波リンクの機能がなかったんだろうか? |学習装置《テスタメント》によって人力されたはずの人格データも、普通の|妹達《シスターズ》とは違う気がする。この場合、どちらが人格として『未完成」なのかはいまいち判断が難しいが  やけに|馴《な》れ|馴《な》れしい目の前の少女に|僻易《へきえき》しながら、しかし思い出してみれば『実験』中の|妹達《シスターズ》も危機感のなさはこんなものだったかもしれない、と|一方通行《アクセラレータ》は考えた。      3(Aug.31_AM00:51)  大通りから|脇道《わきみち》に|逸《そ》れて、さらに細い路地を何本か通り抜けると、五階建ての|学生寮《がくせいりよう》が現れた。周りにあるビルが全て一〇階以上の高さを誇るので、そこだけ湿った|闇《やみ》に包まれているような|錯覚《さつかく》がする。コンクリートの|芯《しん》まで湿気が|染《し》み込んでいるような、そんな感じの建物だ「うおあーステキな所にお住まいだったのねー、ってミサカはミサカは感心してみたり」 「一体何の皮肉だァそりゃあ?」 「自分の部屋、自分だけの空間があるって索晴らしいもの、ってミサカはミサカは|瞠《ひとみ》をキラキラさせながら補足説明してみたり」  |未《いよ》だに|一方通行《アクセコフレ タ》の後をペタペタと|裸足《はだレ》でついてくる|打ち止め《ラストオーダー》の顔には、一切の邪気はない|一方通行《アクセラレータ》は特に気にせず建物の中に入り、打ち放しのコンクリートの階段を上がっていった。  と、彼の背後から、まだ毛布を引きずる音がついてくる。  |一方通行《アクセラレータ》は振り返らず、階段を上がりながら声をかける。 「オイ、オマエどこまでつい————」 「お世話になります、ってミサカはミサカの先手必勝」 「……」 「ご|馳走《ちそう》になります、ってミサカはミサカへ三食昼寝オヤツ付きを希望」  ようは『実験』を行っていた研究者と連絡がつくまで衣食住を確保して欲しい、という事なんだろうやれやれ、と|一方通行《アクセラレータ》は小さく首を振りながらため息をついて、 「オマエ。階段を引き返すか手すりから空飛ぶかどっちか選べ」 「いやっほう|一瞬《いつしゆん》でも場が|利《なご》んだと思ったミサカが|馬鹿《ばか》だった、ってミサカはミサカの頭にコツンとゲンコツをぶつけてみたり。でもここで別れたら連絡つかなくなりそうだし何より女の子の路上生活は危険がいっぱいなので引き下がれないし、ってミサカはミサカは明確なる意思表示をしてみる」  |一方通行《アクセラレータ》が三階まで上がって階段から通路に出ると、|打ち止め《ラストオーダー》は|皿方通行《アクセラレータ》を追い抜いた。彼の国の前でくるりと振り返って向かい合うと、両手を広げて立ち|塞《ふさ》がるような格好になる。 「アナタの部屋ってどこ? ってミサカはミサカは質問してみたり」 「無視無視」 「何号室? なーんごーうしーつ、ってミサカはミサカは人の話を聞かないコミュニケーション能力ゼロのアナタにさらに繰り返してお届けしてみたり」 「……、こりゃァ死ななきゃ|黙《だな》らねェクチのバカか?」  |一方通行《アクセラレータ》は減らず口を|叩《たた》いたが、|打ち止め《ラストオーダー》からの返事がない、単に言菓が詰まったのではなく、意図的に黙る事で『間』を作るような、妙な静寂と|沈黙《ちんもく》の幕が下りる。  やがて、|打ち止め《ラストオーダー》は言う。  静かに、ゆっくりと、その両目を細めつつ。 「電磁性ソナー起動、周波数三二〇〇メガヘルツにて発振、現状、当フロアの一室に不審物を手にした人影を五人確認、ってミサカはミサカは報告してみたり。これはひょっとするとアナタの部屋なのかも、ってミサカはミサカは助言してみる」 「……、なに?」  |一方通行《アクセラレータ》はわずかに口を細めた。どこぞの裏路地にあったように、ここ最近の彼はやたらと不良|達《たち》の|襲撃《しゆうげき》を受けている。待ち伏せ、という可能性もゼロではない  ほらほら教えてみれ、|貴方《あなた》の部屋って何号室? ってミサカはミサカは促してみたり」  ふむ、と彼は少しだけ考えて、 「三〇四号室」 「あっ、すぐそこっぽい、ってミサカはミサカはドアを指差してみたりどれどれ、お|邪魔《じやぷ》しまーす、ってミサカはミサカは一応|礼儀《れいぎ》なので言っておくべし」  |打ち止め《ラストオーダー》はそんな事を言いながら、三〇四号室のドアへ近づいた。侵人者についてどうこう言っている割には、何か警戒心が足りない。  彼女は手近なノブを|掴《つか》むとドアを開けた。どうもドアの電士ロックを能力で|開錠《かいじよう》したようだった。|打ち止め《ラストオーダー》は自分の|手際《てぎわ》の良さに満足すると、意気揚々と部屋の中に入っていった。 |一方通行《アクセラレータ》はそれをを横目で見ると、彼女を無視してスタスタと通路の奥にある『自分の部屋のドア』へと歩いていく。  直後、|一方通行《アクセラレータ》の背後のドアからは深夜テレビを|観《み》ていたらしい住人の怒号と、ごめんなさいーっ、というどこか平淡な|打ち止め《ラストオーダー》の声が飛んできた   ばーん! とドアが開く音が|一方通行《アクセラレータ》の背後で大きく聞こえ、それからズカズカと|打ち止め《ラストオーダー》の足音が追いかけてくる 「全然違う人の部屋だったっぽいんだけどアレ、ってミサカはミサカは|憤慨《ふんがい》してみたり。こんなお茶目なイタズラする性格だったかしらアナタ、ってミサカはミサカはやや涙目になって抗議してるんだけどこの人ハナから聞いてないし」 「その口を閉じて|黙《だま》れ。つまンねェハッタリなンかかましやがって。大体何だよ三二〇〇メガへルツって。そりゃマイクロ波じゃねェか」 「ぐう、マイクロ波はレーダーや超多重通信にも使われるのでそのツッコミは無意味だったり、ってミサカはミサカは意地になって反論してみる」  ハッタリである事は否定しないらしい|一方通行《アクセラレータ》はつまらなそうに舌打ちして、 「っつか三〇四号室なンてありえねェだろ。ドアの表札見た時点で気づかねェのかオマエは」 「アナタの本名なんて分からないし、ってミサカはミサカは反論してみたり」 「オマエの本名も分かンねェけどな」 「あっ、奇跡的に会話が成立してる? ってミサカはミサカはチャンスをグッと掴んでみたりよ、よし今度こそ、アナタのお部屋は何号室? ってミサカはミサカは聞いてみる」 「三〇七号室」  よっしゃー、とどこか平淡な声で勢い込んでドアを開けた|打ち止め《ラストオーダー》は一〇秒後、やっぱり他人の部屋に間違って入ってしまって思い切りうな垂れながら|一方通行《アクセラレータ》の後ろを歩いていた。 「うう、何でこんなひどい事をするの、ってミサカはミサカは肩を落としながら尋ねてみたりお部屋が散らかっていてもミサカは気にしないってミサカはミサカは提案してみる」  |一方通行《アクセラレータ》は完全無視を決め込むと自分の部屋・三一一号室の前まで歩いて、その足がピタリと止まった。  ちょっと、何かがおかしい。 「おいおい、何だァこりゃあ」  まずドアがない。  ぽっかりと開いた人口の向こうには、道具や持ち物と呼べる物が何もない  床には複数の土足の足跡だけが残されていて、その他|全《すべ》てはメチャクチャに|破壊《はかい》されていた。 壁紙も床板も引き|剥《は》がされ、靴箱も|壊《こわ》され、台所には火を|点《つ》けたらしき|痕跡《こんせき》が残っていて、テレビは真っ二つになり、ベッドはひっくり返され、ソファは中の綿が飛び出している。  おそらく|一方通行《アクセラレータ》がコンビニに出かけている問に、本当に|襲撃《しゆうげき》されていたんだろう。この惨状は標的がいないと知った襲撃者|達《たち》の腹いせに違いない。 「うわ、何か本当に大変な事になってる、ってミサカはミサカは絶句してみたり」  微妙にズレた事を言う|打ち止め《ラストオーダー》に、|一方通行《アクセラレータ》は口の端を|歪《ゆが》めて笑う、 「案外、的を射てたンだなァ。オマエのハッタリ」  |一方通行《アクセラレータ》はほんの|一瞬《いつしゅん》、わずかに一瞬だけその光景の前に、息を止めた。  結局は、これが彼の本質。  その力は彼自身を|徹底《てつてい》して守り抜くが、逆に霞えば彼以外のものは何一つ守れない。 「……、くっだらねェ」  |一方通行《アクセラレータ》は土足のままで、自分の家へと踏み込んだ。靴底が、何かの破片らしきプラスチックをパキリと踏み|潰《つぶ》す。徹底的に破壌された己の居場所を見ても特に|感慨《かんがい》は浮かばず、綿の飛び出したソファの上へそのまま寝転がった。 「えと、えっと、えーっと。あの、これって|警備員《アンチスキル》とか|風紀委員《ジヤツジメント》とかに通報しなくってもいいの、ってミサカはミサカはいらぬ世話を焼いてみるんだけど」 「通報して何になるンだよ?」  |一方通行《アクセラレータ》はため息をついた。これを起こした犯人は捕まるかもしれないが、それで|一方通行《アクセラレータ》に対する襲撃が終わる訳ではない明日は別の、明後日はそのまた別の人間が襲撃してくるだけだ。 「で、オマエどうすンだ? そこらに転がってるテレビとか冷蔵庫の|残骸《ざんがい》みてェになりてェンなら別に寝泊りしても構わねェけどよ、ハッキリ言ってスラムのど真ン中で大の字ンなって眠るのと同じぐれェヤバイと思うぜ」  彼は自分の居場所について淡々と評価を下す。 「それにガラスだの何だの、いろンなモンの残骸が散らばってっから|裸足《はだし》で上がンのは難しいンじゃねェの? はっ、むしろここで寝るより路上で寝泊りした方が安全かもなァ」 「うーん。それでもミサカはやっぱりお世話になりたいかな、ってミサカはミサカは|頼《たの》み込んでみたり」 「あン? 何でだよ」 「|誰《だれ》かと|一緒《いつしよ》にいたいから、ってミサカはミサカはビシッと即答してみたり」 「……、」  |一方通行《アクセラレータ》はソファの上で少し|黙《だま》り込んだ。  ぽんやりと|天井《てんじよう》を見る。 「それじゃお|邪魔《じやま》しまーすっと、あっ、この大っきなテーブルは奇跡的に無事っぽい、ってミサカはミサカは指差してみたりじゃあミサカはテーブルの上で寝てみる事に、って……む。 一応宣告しておくけど、寝込みを|襲《おそ》うのはNGなんだからってミサカはミサ」 「寝ろ」 「うおーい、安全性は保証されたけどミサカはミサカはちょっぴりやり切れなかったり」  |一方通行《アクセラレータ》は口を閉じた。|暗闇《くらやみ》の中、もそもそと|打ち止め《ラストオーダー》の動く音が聞こえる。|埃《ほこり》っぽい空気に慣れていないのか、こほんこほんという|咳《せき》のような音が聞こえた。  |一方通行《アクセラレータ》はやけに全身に疲労が|溜《た》まっているような気がした。  その理由を考えて、やがて一つの答えを導き出す、 (なンだよ————)  優しい闇のまどろみの中、|睡魔《すいま》に|囚《とら》われた幼い子供のようにぼんやりと、 (————考えてみりや、何年ぶりだ。邪気のねェ声をかけられるのなンざ)  思う?      4(Aug.31_AM11:35)  部屋の中に|射《さ》し込む日差しの強さで|一方通行《アクセラレータ》は目を覚ました  この|寮《りよう》は背の高い周辺の建物に取り囲まれているため、 一日の内でも日光が射し込む時間は限られている。もう昼近くか、とぼんやりと考える|一方通行《アクセラレータ》は、そこで|覆《おお》い|被《かぶ》さるように何者かが自分の顔を|覗《のぞ》き込んでいる事に気がついた、  好奇心|旺盛《おつせい》といった表情の|打ち止め《ラストオーダー》だ。 「おおっ、人の寝顔って索直な表情になるものなんどすえー、ってミサカはミサカはエセ京都弁を使ってみたり。うむ、|普段《ふだん》がアレな表情ばかりだからこそ子供のような寝顔はギャップが出ていてこれまた良し、ってミサカはミサカは————」 「……、」  |一方通行《アクセラレータ》は寝ぼけた顔のまま、自分に降りかかる|打ち止め《ラストオーダー》の『声』を全反射した。 「————にんまりしてみたりしてーっておわあー[#「みたりしてーっておわあー」に傍点]!? ミサカのミサカの声が大っきくなったぁ[#「ミサカのミサカの声が大っきくなったぁ」に傍点]!?」  耳元にメガホンを寄せて大声で怒鳴られたように|打ち止め《ラストオーダー》の体が大きく|仰《の》け反った。くわんくわん、と首を小さく左右に振る|打ち止め《ラストオーダー》は、それでも|臆《おく》する事なく|一方通行《アクセラレータ》に話かける。 「……、」  |一方通行《アクセラレータ》はゆっくりとした動きで目の下をゴシゴシと|拭《ぬぐ》った。動きが遅いというよりは、カが入っていないように見える。彼はしばらく自分の顔を覗き込む|打ち止め《ラストオーダー》をぼんやりと眺めると、 「毛布毛布」 「あれ、ひよっとして寝ぼけてる? ってミサカはミサカはぎゃああ!? やめて待って毛布は引っ張らないでこれはミサカの宝物なんだからって言っているのに————っ!」 「……ねむ」  彼は寝具を手に人れると、ミノムシみたいに毛布で体をくるみ、再び眠気に身を|委《ゆだ》ねた。      5(Aug.31_PM02:05)  |一方通行《アクセラレータ》は空腹で目が覚めた。  かろうじて壁に引っかかっている時計を見れば午後二時過ぎ、すでに昼食の時間を過ぎているとりあえず起きて何かを食べようと思った|一方通行《アクセラレータ》は、ふと自分が汚れた毛布を|被《かぶ》っている事に気づいた 「うわ、何だァこりゃ……ってオマエまだいたンかよ。……、それで。何テーブルクロス身につけてガックリうな垂れてンだ?」 「……、叫んでも|叩《たた》いても|一切合財《いつさいがつさい》反応ナシだしアナタにとって眠気は鬼門なのかも、ってミサカはミサカは己の無力感に打ちひしがれてみたり」  所々が破れたテーブルクロスで体を包んだ|打ち止め《ラストオーダー》は、まるで全財産を使って宝くじを買った挙げ句、一つ残らずハズレだった時のように床にへたり込んでいた、  |一方通行《アクセラレータ》の『反射』は睡眠中にも適応される。さらに安眠用に音なども『反射』の対象に人れてしまえば、外部刺激によって|一方通行《アクセラレータ》を起こす事は絶対に不可能となってしまう。 「うう、ぐすっ。毛布を毛布を返して返してってミサカはミサカは要求してみたり。その青色毛布は苦楽を共にしたミサカの旅の友達なので代わりは|利《き》かないんだから、ってミサカはミサカは涙を|誘《さそ》うハッタリを使ってみる」  |一方通行《アクセラレータ》としてもこんな汚いポロ布は必要ない床の上に座り込んでいる|打ち止め《ラストオーダー》の頭に毛布を投げつけると、ぼんやりとした阿つきで台所のある方を見た  元々、彼は料埋などしない。それでも、冷蔵庫の中には買い置きの冷凍食品があるはずだった。しかし、ソファの上から台所の人口を眺めた|一方通行《アクセラレータ》は、ふてくされたように再びバタンとソファのヒに寝転んだ冷蔵庫は横倒しにされ、飛び出した冷凍食品はビニール包装が破れて床に飛び散っている。  と、テーブルクロスから毛布へと装備品を取り替えた|打ち止め《ラストオーダー》は元気を取り戻したように、「おはよーございますってかもうこんにちはの時聞なんだけど、ってミサカはミサカはペコリと頭を下げてみたり。お|腹《なか》がすいたのでなんかご飯をご飯を作ってくれたりするとミサカはミサカは幸せ指数が三〇ほどアップしてみたり———」 「寝ろ」 「うわーいサービス精神カロリー摂取量ともに|完璧《かんぺき》なるゼロ、ってミサカはミサカはバンザイしてみたり。ちなみにこれは|嬉《うれ》しいのではなく降参のジェスチャーと受け取って欲しい、ってミサカはミサカは|懇切丁寧《こんせつていねい》な補足説明をしてみる。というか朝だよー、あさあさあさーっ」 「……、クソったれが午後二時で朝かよ」  寝起き最悪な|一方通行《アクセラレータ》はそれでも日を開けた。確かに空腹を感じるが、それ以上に安眠妨得しているのは|打《 ブストげ》ち|止《ーダー》めだった。別に『声』を反射すれば良いだけの謡だが、例えば!!隠しをしたからと一冒って顔の近くを虫が飛び回っていたらいい気はしないだろうさっさとこのガキを捨ててこよう、と|一方通行《アクセラレータ》はソファから起き上がった。ついでに外でわずかな空腹を満たすか、と考えて彼は玄関に向かう。 「あれー? 台所はそっちじゃないと思うんだけど、ってミサカはミサカは正しい台所方向へ指を差してみたり」 「何で俺がメシ作らなきゃなンねェンだ。ってか俺がそンな事をする人間に見えンのかよ」 一えー、そこで意外性を出すためにエプロン装備の家庭的|一方通行《アクセラレータ》に期待してたのに、ってミサカはミサカはぶーたれてみたり。って、あれ? 待って待って、もはや一言すらツッコミなくデフォルトで無視かミサカはー、ってミサカはミサカはしくしくと泣きべそかいてもやっぱり無視かよ」  |一方通行《アクセラレータ》は無言で玄関を出る。|打ち止め《ラストオーダー》はブソブツ言いながらその背中を追い掛ける。      6(Aug.31_PM02:35)  八月三一日の表通りには人気がなかった。  街の住人の八割が学生なので、夏休みの宿題を終わらせるために今日は人口の大半が|寮《りよう》にこもっているらしい。もっとも、|一方通行《アクセラレータ》や|打ち止め《ラストオーダー》には縁のない事だが。  彼は幼い少女を連れて、ほぼ無人に近い街を歩く、  彼女は青い毛布を引きずりながら、白い少年の|隣《となり》に並ぶように歩いていた。 「アナタの髪って天然さん? ってミサカはミサカは尋ねてみたり」  大手外食店系列のファミレスの近くで、|打ち止め《ラストオーダー》はそんな事を|一方通行《アクセラレータ》に聞いてみた。 「あン?」 「だからその髪、ってミサカはミサカは指差してみたり。真っ白けの髪って普通じゃないと思うんだけど、ってミサカはミサカは指摘してみる。ついでに赤い目ってのも生物学的にどうなのよ、ってミサカはミサカは小首を|傾《かし》げてみたり」  無視しても良かったが、そうすると|打ち止め《ラストオーダー》がまた|騒《さわ》ぎそうなので適当に答える事にした、遅い昼食を採ったらこの少女は研究員に預けるなり道端に捨てるなりすればいいのだ。これが最後と思えば多少面倒臭くても我慢する事ができた。 「こりゃ天然じゃなくてチカラの|弊害《へいがい》じゃねェのか。|俺《おれ》も詳しい事は分っかンねェけどよ。|皮膚《ひふ》でも髪でも眼球でも、体の『色素』ってなァ紫外線から身を守るためのモンだろォが、となると俺は余計な紫外線を全部『反射』してる訳だから体が色素を必要としねェって訳だ」  が、思いの|外《ほか》、|一方通行《アクセラレータ》の口は|饒舌《じようぜつ》になった。『実験』中もさんざん減らず口を|叩《たた》いていたし、彼は自分で思っているより会話が好きなのかもしれない。 「あ、それって理屈とかあったのね、ってミサカはミサカはびっくりしてみたり。なんかもう|一方通行《アクセラレータ》だから何でもありなのかしらー、ってミサカはミサカは|諦《あきら》めてたんだけど」 「何だァその諦めるってのはっつかよォ、チカラが強すぎるってのも考えモンだよなァ。外部刺激が少ねェモンだからホルモンバランスも狂っちまってるみてェだしおかげで女か男か分かンねェ体型になっちまうしよォ」 「ていうか、どっちなの? ってミサカはミサカは白黒ハッキリさせてみる」 「見て分かンねェのかオマエ」  |一方通行《アクセラレータ》は言いながらも、己の言動に首を|傾《かし》げた  やはり、一連の会話は通常の自分の思考回路からズレているような気がする。彼も人間社会に生きる者であり、目に付いた人間は一人残さず皆殺し……といった事はないが、それでも量産型の『|妹達《シスターズ》』とまともに会話が成立するなんて事は、これまで一度もなかった。  あの『実験』の中で交わされた会話は——— 『はい、ミサカの|検体番号《シリアルナンバー》は一〇〇三二号です、とミサカは返答します。ですが、その前に実験関係者かどうか、念のために|符丁《パス》を確かめるのが妥当では? とミサカは助言します』 『何か、という|曖昧《あいまい》な表現では分かりかねます、とミサカは返答します。「実験」開始まで後三分二〇秒ですが、準備は整っているのですか、とミサカは確認を取ります』  ———とてもではないが、人間同士の会話には感じられなかった。問題に対して解答するだけの、中身のない機械のようなやり取りでしかない。|一方通行《アクセラレータ》の方にしたって、 「ったく、一万回も繰り返してっとイイ加減に飽きが回ってくるンで、ちったア暇でも|潰《つぶ》してみようと考えたンだが、こりゃダメだなァ。やっぱオマエとは会話になンねェわ』  最初から、会話が成立するなど考えていなかったし、最後まで会話は成立しなかった。  なのに。  やはりあの一戦で、自分は変わったんだろうか、と|一方通行《アクセラレータ》は考える  変わったとしたら、『何が』変わったんだろうか。  一体、『何が』原因で。  全体、『何が』変わってしまったのか。 「もしもし? もしもしもしもしもしもし、ってミサカはミサカは確認を取ってみたり。ぼんやりして何か考え事? ってミサカはミサカはアナタの顔を|覗《のぞ》き込んでみる」 「あン? あァ、オマエその毛布一枚のカッコで店ン中人れンのかヨって考えてただけだ」 「……、ぁうぁ。もしかして、それでミサカだけお店側に拒否られた場合はどうするのか、ってミサカはミサカは恐る恐る聞いてみたり」 「寝ろ」 「いやっほう、もはや|口癖《くちぐせ》になってる、ってミサカはミサカはヤケクソになってみたり」  無表情で両手をブンブン振り回す|打ち止め《ラストオーダー》から目を離して、|一方通行《アクセラレータ》は午後の空を眺めた。  会話は、成立していた  見えない『何か』が、変わりつつあるようだった。      7(Aug.31_PM03:15) 「いらっしゃいませー。二名様でよろしいですか?」  結論から言うと、そのウェイトレスは毛布一枚の少女を笑顔で迎え人れた。ただし、その顔は|若干《じやつかん》引きつっている。どうやらアルバイトらしいので、接客マニュアル以外のアクシデントに対応するだけの力がないのかもしれない。  |一方通行《アクセラレータ》と|打ち止め《ラストオーダー》は|窓際《まどぎわ》の席に座る。住人の八割が学生という学園都市では、八月三一日は 般的に『残った宿題を片付けるため引きこもる日』となっているらしい。食事時ならそれでも人が出てくるだろうが、今は時間帯から外れている。  |一方通行《アクセラレータ》がぼんやりと窓の外へ目を向けると、背を丸めて通りを歩いている白衣の男が見えた。 「あ?」  こちらの視線に気づくと、電気が走ったように|脅《おび》えて駐車場に|停《と》めてあるスポーツカーの中へと飛び込んで行く。 「アイツ……|天井亜雄《あまいあお》?」  |一方通行《アクセラレータ》が|呟《つぶや》くと、はえ? という顔で|打ち止め《ラストオーダー》がメニューから顔を上げる、  |天井亜雄《あまいあお》。二〇代後半の研究員で、|絶対能力《レベル6》進化実験を最後まで推し進めていた人間だ、スーパーコンピュータの予測演算によって計画された『実験』は、その演算結果が狂っていると判断され、現在では半永久的に凍結されている。『実験』推進派は今も|膨大《ぼうだい》なデータの山に隠れたバグを探すために連日|格闘《かくとう》しているはずだが……。 「あのヤロウ……こンなトコでナニやってやがンだ……?」 「ナニ見てナニ考えてナニ言ってるの? ってミサカはミサカは聞いてみたり」 「うるっせエな。オマエの今一番の目的ってのをちっとは思い出してみろ」 「え、ご飯食べる事だけど、ってミサカはミサカは即答してみたりあ、これはもしゃ今日はナニを|頼《たの》んでもイイんだよキミって展開かも、ってミサカはミサカは期待してみる」 「あァ、なンかもォどォでもイイか別に」  研究員とコンタクトを取りたいといった最初の目的はどこへ行った? と|一方通行《アクセラレータ》が|呆《あき》れている内に|天井《あまい》の乗ったスポーツカーは表通りへ消えていってしまう。|打ち止め《ラストオーダー》はその事に気づかず、目の下をごしごしと|擦《こす》っていた。その体が左右にふらふらと揺れている。 「ううむ。ここ最近寝ても寝ても疲れが取れない、ってミサカはミサカは首をひねってみる」 「あっそォかよ」  水を運んできたウェイトレスに向かって|一方通行《アクセラレータ》は適当に注文をすると、ふと正面に座っている|打ち止め《ラストオーダー》の奇妙な視線に気づいた。 「あーっと、ってミサカはミサカは言葉を選んでみたりなんていうか、その、普通に注文取ったりお金払ったりするのね、ってミサカはミサカは感心してみたり」 「あァ?」 「うむ、アナタの場合は店のドアをいきなり|蹴破《けやぶ》って食べる物を食べたらそのまま窓を破って悠々と食い逃げしそうなイメージがあったので、ってミサカはミサカはブルブル震えながら正直に言ってみたり」  ああそれか、と|一方通行《アクセラレータ》はつまらなそうに|頷《うなず》いた。 「っつーかそれでも良いンだけどよォ。今は『実験』も凍結しちまってバックについてる組織がねェからな。あンま派手に動くと色々厄介だっつー話なンだわ」 「そこがもうおかしいというか、ってミサカはミサカは割り込んでみたり。|警備員《アンチスキル》だろうが|風紀委員《ジヤツジメント》だろうがアナタに逆らう事なんてできないと思うけど、ってミサカはミサカは率直な感想を述べてみる。それを言うなら、そもそも『実験』の研究員|達《たち》に従っていたのももう不思議なんだけど、ってミサカはミサカは首を|傾《かし》げてみたり」  だっからよォ、と|一方通行《アクセラレータ》はため息をついて、 「ンなの考えるまでもねェだろ。そォだな、例えばこの店で|俺《おれ》がトラブルを起こす。じゃあ食い逃げでイイや。そしたらまず|誰《ゼれ》が俺に|楯突《たてつ》いてくる?」 「えっと、店員さんかな、ってミサカはミサカは答えてみる」 「そォだな。で、俺はコイツを|瞬殺《しゆんさつ》する。まさしく『瞬』だ。そしたら次は誰が出る? 店長か? コイツも『瞬』だな。次は|警備員《アンチスキル》? |風紀委員《ジヤツジメント》? こっちの方がやりやすいわな。敵の装備が強ければ強いほど『反射』の切れ味は増すンだからよォその次は……何だろォな学園都市の中で収拾が付かなくなっちまったら『外』が|絡《から》ンでくるかァ? でも、それが何だ。警官隊機動隊白衛隊、日本を飛び出りゃ軍隊に特殊部隊に暗殺集団それでもダメなら|爆撃《ぼくげき》かァ? 最終的には核ミサイルの雨かもな」  けれど、それが何になる———|一方通行《アクセラレータ》はそう宣言した。  仮に核ミサイルが飛び交うような世界規模のケンカに勝利した所で、地球全人類が滅んだ後に残るのは、原始人のような洞穴の生活だけだ人間として最低限の営みを送っていくためには、やはり集団の中で生きなければならないのである。  それは実際に『滅ぼす力を持つ』者のみが|囚《とら》われる問題だろう。核ミサイルの発射コードを握る大統領の気持ちもこんなものだろうか、と|一方通行《アクセラレータ》は漠然と考える。 「ううー……、いつもいつもそんなぶっ飛んだ調子でしゃべってるの? ってミサカはミサカは尋ねてみたり」 「オマエにだきゃ言われたかねェ質問だなそりゃ」 「ううむ、頭に|強制人力《インストール》された情報によると世間には学校ってのがあるはずなのに、ってミサカはミサカは首をひねってみたり。そのコミュニケーション能力ゼロでクラスに溶け込めるのかとミサカはミサカは何度尋ねてみる」 「ああ。そンなら問題ねェわ。クラスメイトなンていねェから」 「?」 「特別クラスなンだとさ。良い意味か悪い意味かは分っかンねェがな」  |一方通行《アクセラレータ》は何の気なしにそう言った。  |時間割《カリキユラム》りによって『力』に目覚めて以後、彼には特別クラスが用意された。生徒は一人きりで、|他《ほか》にクラスメイトなどいない。運動会にも文化祭にも参加しない。生徒数二〇〇〇人に届く学校の中にいながら、狭い教室には机がポツンと一つ置いてあるだけ。  別にそれに不満を持った覚えはない。  けれど、ずっと昔に研究員から、それはオマエが最強の|超能力者《レベル5》だからと言われて、|絶対能力《レベル6》に進化するための特別クラスだと言われた時に。じゃあ、『最強』じゃなくなったらどうなるのか、その先の『無敵』に進化したら何かが変わるのか、と思った事はある。 「寂しいの? ってミサカはミサカは尋ねてみる」 「あン?」 「強さゆえの孤独、その感覚はきっとミサカには理解できないし他の|誰《だれ》にも分かってもらえないと思う、ってミサカはミサカは予測してみたり。だから————」 「意味が分かンねェ質問だなオイ。ハイっつったら頭でも|撫《な》でて|慰《なぐさ》めてくれンのか?」  |一方通行《アクセラレータ》が低い声で言うと、後には冷たい静寂しか残らなかった。  誰がなんと言った所で、|一方通行《アクセラレータ》は一万人以上の人間を殺した虐殺者だ。今さら自分の中に誰にも理解されない孤独や|闇《やみ》があって今からそれを慰めてやるなどという話をされたところで、本当にあらゆる意味でどうしようもない。大体、彼を『実験』に駆り立てたのだって、単にストレス解消の八つ当たりだっただけかもしれないのに。 「—————」  そうか?  本当にそうなのか、と|一方通行《アクセラレータ》は|眉《まゆ》をひそめた。  それだと何かが|噛《か》み合わない、と|一方通行《アクセラレータ》は漠然と考える。そう、何かがおかしい。だが、何が引っかかるのかが理解できない。|一方通行《アクセラレータ》はあの『実験』の事をもう一度思い出して……違和感の正体に気づいた。 『ったく、一万回も繰り返してっとイイ加減に飽きが回ってくるンで、ちったア暇でも|潰《つぶ》してみようと考えたンだが、こりゃダメだなァ。やっぱオマエとは会話になンねェわ』  そう、そこがおかしい。  本当にただ『八つ当たり』のためだったら、ヌイグルミの腹を|殴《なぐ》るように『|妹達《シスターズ》』を殺していただけなら、そもそも|何故《なぜ》会話をしてみようと考えたのだろう?  あの『実験』の最中、イレギュラーな行動を取っていたのは|一方通行《アクセラレータ》だけだった。  会話は成立しなかった、とはいうが、|妹達《シスターズ》が予測不能な言動を取っていた訳ではない。あくまで|妹達《シスターズ》はスーパーコンピュータ上で予測・演算・立案・計画された『実験』に対して事務的に従っていただけだ。  あくまであの『実験』というひとくくりの中だけの話なら、わざわざルールに反して|妹達《シスターズ》に話しかけた|一方通行《アクセラレータ》の方がイレギュラーなのだ。事実、|妹達《シスターズ》も、研究者|達《たち》も『実験』の最中に|誰《だれ》かに声をかける事はなかったのだから。  ならば何故、|一方通行《アクセラレータ》はイレギュラーな行動に出たのか?  ここがおかしいのだ。『ただ殺すために』『八つ当たりのために』|妹達《シスターズ》と接していたのなら『会話をしよう』という心理に結びつかない。  誰かと『会話がしたい』という理由は、一般的には『誰かと仲良くなりたい』といったものだろう。しかし、それもそれで|納得《なつとく》できない、と|一方通行《アクセラレータ》は思う。あの『実験』の中、|妹達《シスターズ》を|罵《ののし》り傷つけ殺したのは紛れもなく彼自身なのだから。 「あっ、きたきたやっときた、ってミサカはウェイトレスさんを指差してみたり。わーい、ミサカがミサカが一番乗り」  ウェイトレスが|打ち止め《ラストオーダー》の前に料理を並べていく。どうやら|一方通行《アクセラレータ》の注文した方は時問がかかるらしい。 「お諮、あったかいご飯ってこれが初めてだったり、ってミサカはミサカははしゃいでみたり。 すごいお皿からほこほこ湯気とか出てる、ってミサカはミサカは|凝視《ぎようし》してみる」 『実験』が中止になってから、結構日が|経《た》っている。『実験』中止直後に|打ち止め《ラストオーダー》が研究所から追い出されたのだとしたら、その間の生活というのは……。 「……、くっだらねェ」  |一方通行《アクセラレータ》は小さく吐き捨てるように言った。  視線を正面の|打ち止め《ラストオーダー》から横の窓へと移す。が、いつまで経っても彼女が何かを食べる音が聞こえない。ふと疑問に思って|一方通行《アクセラレータ》が視線を戻すと、|打ち止め《ラストオーダー》は湯気が出ている料理の前で、|行儀《ぎょうぎ》良く座ったまま|一方通行《アクセラレータ》の顔を見ていた。料理に手を出す様子もない。ただし、平静を装っているのは表面上だけで、今にも料理に飛び掛らんとウズウズしているのが|傍目《はため》にも分かるのだが。 「? ナニやってンだオマエ。湯気出てるメシはこれが初めてなンだろォが」 「でも、|誰《だれ》かとご飯を食べるのも初めてだったり、ってミサカはミサカは答えてみたり。いただきまーす、っていうの聞いた事ある、ってミサカはミサカは思い出してみる。あれやってみたい、ってミサカはミサカはにこにこ希望を言ってみたり」 「……、」  |一方通行《アクセラレータ》の前に料理が運ばれてきたのは、それから一五分も|経《た》ってからだった。  |打ち止め《ラストオーダー》の前に置かれた料理からは、すっかり湯気が消えてしまっていた。  それでも少女は笑っていた。  嬉《うれ》しそうに。      8(Aug.31_PM03:43)  レストランに入って随分と時間が経過してから、ようやく|一方通行《アクセラレータ》と|打ち止め《ラストオーダー》は食事を始める事ができた。  |打ち止め《ラストオーダー》はナイフやフォークはおろかスプーンやハシすら使い慣れていないらしい。|何故《なぜ》か白いご飯の上にフォ!クを突き刺して首をひねっている。  |一方通行《アクセラレータ》は肉料理を食べていたが、肉が硬いのと、皿に使われている木枠と小さな鉄板のサイズが合わないらしくグラグラ揺れるせいで、思ったように肉を切り分けられない。|一方通行《アクセラレータ》は一秒だけピタリと動きを止めると、左手で焼けた鉄板をがっちりと|掴《つか》んで固定した。近くを歩いていたウエイトレスがびっくりした顔をしたが、そもそも|一方通行《アクセラレータ》は必要量以外の熱は|全《すべ》て反射してしまうので|火傷《やけど》など負うはずもない。  |傍目《はため》から見ると、とてつもなく目立つ食事風景だった。 「|美味《おい》しい美味しい、ってミサカはミサカは評価してみたり」 「っつか冷凍レトルトフリーズドライのオンパレードじやねェか。食材なンざ何週間前から倉庫に放り込ンであるかも分かンねェっつの」 「けど美味しいものは美味しいし、ってミサカはミサカは満足してみたり。それに誰かと食べるご飯っていうのは感覚が違うもの、ってミサカはミサカは精神論を述べてみる」 「……、あのなァ」|一方通行《アクセラレータ》は熱した鉄板から手を離し、「ホントなら昨日の時点で|訊《き》いておくべきだったと思うけどよォ、オマエどオいう神経してンだよ。|俺《おれ》がオマエ|達《たち》にナニやったか覚えてねェのか? 痛かったし苦しかったし|辛《つら》かったし悔しかったンじゃねェのかよ」 『実験』終了|間際《まぎわ》、操車場に|無能力者《レペルむ》が乗り込んできた後の『|妹達《シスターズ》』(あの|無能力者《レベル0》は|御坂《みさか》妹などと呼んでいたが)は、彼を敵意ある|瞳《ひとみ》で|睨《にら》んでいたような気がする。  あの時、『|妹達《シスターズ》』は人間らしい『まともな神経』を手に人れたのではなかったのか。それとも、あれは個体『御坂妹』だけの事だったのか。 「うーん、ミサカはミサカは九九六九人|全《すべ》てのミサカと脳波リンクで精神的に接続した状態なんだけど」 「あァ? それが何だってンだ」 「その脳波リンクが作る精神ネットワークってものがあ。るの、ってミサカはミサカは説明してみる」 「人間でいう集合的無意識とかってエヤツか?」 「うーむちょっと違う、ってミサカはミサカは否定してみたり。脳波リンクと個体『ミサカ』の関係はシナプスと脳細胞みたいなものなの、ってミサカはミサカは例を述べてみる。『ミサカネットワーク』という一つの巨大な脳があるというのが正解で、それが全『ミサカ』を操っているというのが正しい見方、ってミサカはミサカは言ってみる」  |一方通行《アクセラレータ》は少し|黙《だま》った。  |打ち止め《ラストオーダー》はその開にも、説明を続けていく。 「『ミサカ』単体が死亡した所でミサカネットワークそのものが消滅する事はない、ってミサカはミサカは説明してみる。人間の脳に例えるなら『ミサカ』は脳細胞で、脳波リンクは各脳細胞の情報を伝達するシナプスのようなもの。脳細胞が消滅すると経験値としての『|思い出《おもいで》』か消えるのでもちろん痛い、けどミサカネットワークそのものが完全に消滅する事はありえない、『ミサカ』が、最後の一人まで消滅するまでは————、」  |一方通行《アクセラレータ》は、巨大な|蜘蛛《くも》に|睨《にら》まれたような|嫌悪感《けんおかん》に|襲《おそ》われた。 別に目の前の人間が恐ろしいと思った訳ではない。今この|瞬間《しゆんかん》でも、|一方通行《アクセラレータ》は|打ち止め《ラストオーダー》を瞬殺する事ができる。たかが一万程度、時間をかければ全ての『|妹達《シスターズ》』を|騨《ほうむ》る事もできる。 だが、そんな事ではない。  もっと根源的に、目の前で食器皿の上の料理と|格闘《かくとう》しているこの少女が、人間とは全く異なる構造をした宇宙人のようなものに見えてしまって……。 「———ってミサカはミサカは考えていたんだけど、気が変わったみたい」 「?」 「ミサカは教えてもらった、ミサカはミサカの価値を教えてもらったって断言してみる。『ミサカ』全体ではなく、『ミサカ』単体の命にも価値があるんだって、この『ミサカ』が、|他《ほか》の|誰《たれ》でもないこの『ミサカ』が死ぬ事で涙を流す人もいるんだって事を教えてもらったから、ってミサカはミサカは胸を張って宣言する。だからもうミサカは死なない、これ以上は一人だって死んでやる事はできない、ってミサカはミサカは考えてる」  少女は、そう言った。  人間のように、人間のような、人間の|瞳《ひとみ》で|真《ま》っ|直《ず》ぐに|一方通行《アクセラレータ》の顔を見て。  それは、一つの宣言。  |一方通行《アクセラレータ》の行ってきた事を決して許さないという、  |打ち止め《ラストオーダー》は一生あの時の事を忘れないという、恨みの宣告。 「はっ……」  |一方通行《アクセラレータ》は、思わず席の背もたれに深く沈み込んだ。そのまま|天井《てんじよう》を見上げて、息を吐く。 知らなかった。 今まで、そういった感情を抱かれている事には気づいていても。目の前で、面と向かって本人の口から糾弾された事がなかったから。だからこそ、|一方通行《アクセラレータ》はその痛みを知らなかった。 そして、今まで人形のように扱ってきた『|妹達《シスターズ》』が、そういった痛みを与えてくる人間だったなんて事に、|全《すべ》てが終わるまで気づく事ができなかった。 「————————、」  |一方通行《アクセラレータ》は口を開けて、口を動かすが、言葉は出ない。  言葉は、出ない。 「でも、ミサカはァナタに感謝してる、ってミサカはミサカは言ってみたり、アナタがいなければ『実験』は立案されず、傾きかけていた|量産型能力者《レデイオノイズ》計画が再び拾い上げられる事もなかったはずだから、ってミサカはミサカは説明してみる。アナタは救い手にして殺し手、エロスにしてタナトス、生にして死———命なきミサカに|魂《たましい》を注ぎ込んだのは間違いなくアナタのおかげだったんだから、ってミサカはミサカは感謝してみる」  |打ち止め《ラストオーダー》はそう言った。  まるで、|一方通行《アクセラレータ》を迎え人れるような柔らかい声で。  彼は、それがイライラする。  |何故《なぜ》だか、とても、イライラする。 「何だよそりゃア?」|一方通行《アクセラレータ》は、低い声で、「全っ然、論理的じゃねェだろ。人を産んで人を殺して、ってそれじゃあプラスマイナスぜロじゃねェか。どオいう神経したらそれで|納得《なつとく》できんだよ、どっちにしたって|俺《おれ》がオマエ|達《たち》を楽しんで喜んで望み願って殺しまくった事に変わりねェだろォが」 「それは|嘘《うそ》、ってミサカはミサカは断じてみたり。アナタは本当は『実験』なんてしたくなかったと思う、ってミサカはミサカは推測してみる」  その言葉に、|一方通行《アクセラレータ》の頭はますます混乱した。  ここで涙混じりで両手を振り回して|罵《ののし》ってくるならまだ分かる。だが、当の|打ち止め《ラストオーダー》が|一方通行《アクセラレータ》を|擁護《ようご》する理由はないはずだ。  理解できない状態に、|一方通行《アクセラレータ》の心がささくれ立ってくる。 「ちよっと待てよ。オマエ自分の|記憶《きおく》を都合が良いよォに改ざンしてンのか。一体どこをどう美化すりゃあそンな|台詞《せりふ》が出てくンだよ? っつか俺がアレを嫌々やらされてる風に兄えたのか。俺が『実験』を続けていた以上、俺はオマエ達の命なンて何とも思ってなかった。たったそれだけの事だろォが」  |一方通行《アクセラレータ》はむしろ|諭《さと》すような一調でそう言った。  何で自分で自分を|貶《おとし》める方向を望んでいるんだろうと心の中で首を|傾《かし》げながら。 「そんな事はない、ってミサカはミサカは反論してみたり。だったら、何で『実験』の中でミサカに話しかけてきたの? ってミサカはミサカは尋ねてみる」  しかし、|打ち止め《ラストオーダー》は慌てず|騒《さわ》がず、流れるように言葉を|紡《つむ》ぐ。  まるで、優しい姉が語りかけるように。 「あの時の事を思い出して、あの時の事を回想して、ってミサカはミサカはお願いしてみる。 アナタはミサカに何度か話しかけている、ではその目的は何? ってミサカはミサカは分かりきった質問をしてみる」  |一方通行《アクセラレータ》は少しだけ、|黙《だま》り込んだ。  彼が|妹達《シスターズ》に話しかけた理由。それは彼自身にも分からなかった事だ。 『はっはァ! ンだァその逃げ腰は。愉快にケツ振りやがって|誘《さそ》ってンのかァ!?」 『まア、|俺《おれ》が強くなるための「実験」に付き合わせてる身で言えた義理じゃねェンだけどさ、平然としてるよなァ。ちっとは何か考えたりしねェのか、この状況で』 『ったく、一万回も繰り返してっとイイ加減に飽きが回ってくるンで、ちったア暇でも|潰《つぶ》してみようと考えたンだが、こりゃダメだなァ。やっぱオマエとは会話になンねェわ』 『ハッ、何だァ無策にのこのこ歩いてきやがって。ンなに痛みが好きならたっぷり鳴かせてやるから今から|喉飴《のどあめ》でも|舐《な》めてろ!』 『さアって、 一つだけ質問だ。オマエは何回殺されてェンだっつのっ!』 「冷静に考えてみればどれもこれもおかしな言葉、ってミサカはミサカは分析してみる。『人に話しかけたい』というコミュニケーションの原理は『人を理解したい』『人に理解して欲しい』———つまり『人と結びつきたい』という理由のためで、ただ殺すため『実験』を成功させるためっていうなら会話をしたいとは思わないはず、ってミサカはミサカは論じてみる」 「……あァ? あの汚ねェ言葉のどこが『人と結びつきたい』に|繋《つな》がンだよ」 「そう、そこがおかしな所の二つ目、ってミサカはミサカは指を二本立ててみる。アナタの言葉はどれもこれもが|徹底《てつてい》してミサカを|罵倒《ばとう》する言葉ばかり、それだと『人と結びつきたい』という理由から遠く離れてしまう、ってミサカはミサカは先を続けてみる」  だけど、と|打ち止め《ラストオーダー》は言う。 「もしも仮に[#「もしも仮に」に傍点]、それらが否定して欲しくて言っていた言葉だとしたら[#「それらが否定して欲しくて言っていた言葉だとしたら」に傍点]?」  あ? と。|一方通行《アクセラレータ》の動きが止まった。 「アナタの言葉はいつだって、『実験』……|戦闘《せんとう》の前に告げられていた、ってミサカはミサカは思い出してみる。まるでミサカを|脅《おび》えさせるように、ミサカにもう戦うのは嫌だって言わせたいように[#「ミサカにもう戦うのは嫌だって言わせたいように」に傍点]、ってミサカはミサカは述べてみる」  は? と。|一方通行《アクセラレータ》の呼吸が止まった。 「ミサカ|達《たち》はアナタのサインに気づけなかった、たったの一度も気づいてあげる事ができなかった、ってミサカはミサカは後悔してみる。でも、もし、仮に。あの日、あの時、ミサカが戦いたくないって言ったら[#「ミサカが戦いたくないって言ったら」に傍点]? ってミサカはミサカは終わった選択肢にっいて語ってみる」  ……、と。|一方通行《アクセラレータ》の心臓が停止しようとしていた。 そう、仮に。  あの日、あの時、|妹達《シスターズ》がもう『実験』をしたくないと、死にたくないと告げていたら?|一方通行《アクセラレータ》には、何もできなかっただろうか?  もちろん、そんなはずはない。  そんなはずはないのだ。|何故《なぜ》なら、あの 『実験』は|一方通行《アクセラレータ》を|絶対能力《レベル6》に進化させるためのもので、その核となるのは|一方通行《アクセラレータ》自身。彼が『協力しない』と一言断じれば『実験』は止まってしまうし、|他《ほか》の能力者では代理は|利《き》かない。そして研究者達が無理矢理に|一方通行《アクセラレータ》を捕らえようと思っても、そんな事などできるはずもない。  何故なら、彼は学園都市最強の能力者なのだから。  それでこその、最強だろうが、  もしも。  もし仮に、『実験』が始まる最初の最初。  まだ|妹達《シスターズ》が一人も|犠牲《ぎせい》になっていない、本当に最初の最初のその時に。  二万人の|妹達《シスターズ》が、みんなそろってそんな事はしたくないと脅える日で|頼《たの》み込んでいたら。  彼は、どんな行動に出ていたんだろう?  きっと、彼はそれを望んでいた。  だからこそ、彼は問いを発した。何度も、何度も。それでも答えは返ってこないから、少しずつ問いはエスカレートしていって、いつしか目を|覆《おお》うほどの暴虐の|嵐《あらし》となってしまった。  自分を止めてくれる|誰《だれ》かが欲しかった、  立ち上がるための何かが欲しかった。  |一方通行《アクセラレータ》は、思う。あの『実験』を境に、操車場での『一戦』を境に、|無能力者《レベル0》との『勝負』の後に、一体何が変わったのか、という最初の問い。その答えも、きっとここにあった。  彼は思い出す。あの操車場での一戦を、何度でも何度でも立ち上がった|無能力者《レペルゆ》を。きっと、彼は自分の思い出を極端に美化している。それが分かっていても、なお思う。  最後の最後、何でもないただの|拳《こぶし》に打ち倒されるその|瞬間《しゆんかん》。  |一方通行《アクセラレータ》は、何かを考えていただろうか。  何を。 「……、ちくしょうが」  そうして、彼は目を閉じて、|天井《てんじよう》を見上げ、一言だけ言った。  口から出た言葉は、それだけだった。  ここまで|奇麗事《きれいごと》を並べた所で彼は決して善人などではない。操車場での事を思い返してみればいい。あの|無能力者《レベル0》に助け出された|妹達《シスターズ》はもう『実験』のために死ぬ事を拒否していたはずだが、|一方通行《アクセラレータ》は構わず彼女を殺そうとした。それは否定できない。できるはずがない。  |打ち止め《ラストオーダー》からの声はない。彼女は今、どんな顔をしているだろうか、と|一方通行《アクセラレータ》は思う。彼はそれから目を閉じて、目を閉じて、日を閉じて……わずかな違和感を|捉《とら》えた。  いつまで|経《た》っても、|打ち止め《ラストオーダー》からの声がない。  |一方通行《アクセラレータ》が不審に思って目を開けた|瞬間《しゆんかん》、ごとん、という鈍い音が聞こえた。|打ち止め《ラストオーダー》が目の前のテーブルに突っ伏している。食器皿の上ではないが、テーブルと彼女の額の間にスプーンが挟まっていた。 眠いとか疲れたとか、そういう単純な理由でないのは一目で分かった。全身の力が、あまりに抜け過ぎている。押し殺したような呼吸の音が、それでも|野良犬《のらいぬ》の吐息のように|響《ひび》き渡っている。まるで熱病にでもうなされているような、そんな感じがした。 「オイ?」 「あ、はは」|打ち止め《ラストオーダー》は、疲れたような声で、「まあ、こうなる前に研究者さんとコンタクトを取りたかったんだけど、ってミサカはミサカはくらくらしながら苦笑してみたり」 「……、」 「ミサカの|検体番号《シリアルナンバ 》は二〇〇〇一、一番最後でね、ってミサカはミサカは説明してみたり。 ミサカはまだ肉体的に未完成な状態だから、本来なら培養器の中から出ちゃいけないはずだったんだけど、ってミサカはミサカはため息をついてみる」 「……、」 「それでも、なんだかんだで今まで|騙《だよ》し騙しやっていけたんだから|大丈夫《だいじようぶ》かなって、ミサカはミサカは考えていたんだけど。何でかなあ」  意識が途切れ途切れになるのか、|打ち止め《ラストオーダー》はやけにゆったりした口調で言った。  このまま意識が落ちたら、もう二度と目は開かないような、そんな気がした。 「おい」 「————————。ん、なになになんなの、ってミサカはミサカは尋ねてみたり」  反応が返ってくるまで、三秒以上も間が空いていた。  それでいて、少女は笑っていた。  熱病に浮かされたように大量の汗を噴き出し、それでも笑いかけてくれた。  |一方通行《アクセラレータ》の顔から、感情が欠落していくように表情が失われていく。  こんな場面に出くわしたって、彼に何ができる訳でもない。彼にあるのは学園都市最強のチカラだ。でも学園都市最強のチカラだけだ。こんなチカラでは誰も守れない。助けを求められたところで|惨《みじ》めったらしく一人|震《ふる》えて核シェルターに閉じこもるようなそんなチカラでしかないのだから。|誰《だれ》も守れない、誰も救えない、生き残るのはいつも自分一人、その他|全《すべ》てが|壊《こわ》れるのを|黙《だま》って見ている事しかできない。部屋の中がメチャクチャに|破壊《はかい》されていた時のように、一人の少女が口の前で倒れた今のように。 「……」  |一方通行《アクセラレータ》は黙って席を立った。|打ち止め《ラストオーダー》は倒れたまま、しかし視線だけを彼に向ける。 「あれ、どっか行っちゃうの、ってミサカはミサカは尋ねてみる。まだご飯余っているのに」 「あァ、食欲なくなっちまったわ」 「そっか……ごちそうさまっていうのも言ってみたかった、ってミサカはミサカはため息をついてみる」 「そォかよ。そりゃ残念だったな」  |一方通行《アクセラレータ》は冷めた表情のまま伝票を|掴《つか》んで、レジへ向かった。  その場に一人、|打ち止め《ラストオーダー》を残して。      9(Aug.31_PM04:11)  |一方通行《アクセラレータ》は一人で道を歩いていた。  レストランに残してきた|打ち止め《ラストオーダー》の顔が|一瞬《いつしゆん》脳裏に浮かんだが、かと言ってあそこで彼にできる事など何もなかった。彼は都合の良い正義のヒーローではない。推理小説の探偵でもない。問題が起きたその場でちょっと考えたぐらいで何でもかんでも解決できるような、そんな準備を整えて日々生活を送っている訳ではない。 できる事など何もない。  だから何もしないで立ち去った。  それだけだ。|一方通行《アクセラレータ》は道を歩きながらぼんやりと考える。大体、自分にそういった事は似合わないと思う。それは自分の住んでいる世界とは違う気がする。それこそ操車場で|一方通行《アクセラレータ》の前に立ち|塞《ふさ》がったあの|無能力者《レベル0》のような人間にこそ|相応《ふさわ》しい。 『おお、あったかいご飯ってこれが初めてだったり、ってミサカはミサカははしゃいでみたり。 すごいお皿からほこほこ湯気とか出てる、ってミサカはミサカは|凝視《ぎようし》してみる』  大体今さら彼に何ができるというのか。彼に何の資格があるというのか。|妹達《シスターズ》を『実験』に巻き込んだのは彼のせいだ。『実験』が中途|半端《はんぱ》で終わって|打ち止め《ラストオーダー》が製造途中で研究所から追い出されたのも彼のせいだ。どっちに転がってどう進んだって彼は|誰《だれ》かを傷つける。そんな人間が今さら誰かを助けたいだなんて考えそのものがすでにおかしいのだ。 『でも、誰かとご飯を食べるのも初めてだったり、ってミサカはミサカは箸えてみたり。いただきまーす、っていうの聞いた事ある、ってミサカはミサカは思い出してみる。あれやってみたい、ってミサカはミサカはにこにこ希望を言ってみたり』  彼は道路を歩き、横断歩道を渡り、コンビニを通り過ぎ、デパート近くの|脇道《わさみち》に入り、裏路地を進んで、|学生寮《がくせいりよう》の横を通って、歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、歩いて、 『そっか……ごちそうさまっていうのも言ってみたかった、ってミサカはミサカはため息をついてみる』  ふと、足を止めた。  |一方通行《アクセラレータ》は視線を上げる。 「ンで、何だって|俺《おれ》ァこンなトコまで来ちまったンだァ?」  その先にそびえ立つのは、一つの研究所。 『実験』を立案し、大量の『|妹達《シスターズ》』を製造した研究所。ここならば、まだ|量産能力者《レデイオノイズ》製造のための培養器は残っているだろうか。それを使えば、今からでも|打ち止め《ラストオーダー》の未完成の体を調整する事はできるだろうか。  あの場でできる事は何もないから、あの場から立ち去った。  何かできる事を探して、ここまでやってきた。  |一方通行《アクセラレータ》は研究所の敷地へ、一歩踏み出す。  こんな人間が、今さらそんな事を願うなど筋違いだと分かっていても。  それでも、たった一人の少女を助けるために。 [#地付き]Aug.31_PM05:15終了 [#改ページ]    第二章 とあるお嬢の超電磁砲 Doubt_Lovers.      1(Aug.31_AM08:00)  二三〇万人もの学生を抱える超能力開発機関『学園都市』の中でも、|常盤台《ときわだい》中学は五本の指に入ると言われる名門の女子学園である。生徒総数二〇〇人以下という少人数制を採用し、現在も|超能力者《レベル5》を二人、|大能力者《レベル4》を四七人も抱えている。ちなみに常盤台中学の在学条件の一つは『|強能力者《レベル3》以上』だ。  そんな常盤台中学|女子寮《じよしりよう》の朝は、夏休みでも生活リズムは変わらない。午前七時起床、以後三〇分以内に身だしなみを『見苦しくない程度』に整え、午前七時三〇分に食堂へ集合、点呼を取ってから午前八時までに食事を完了させる。  ちなみに食事終了が午前八時と遅いのは、常盤台中学は学バスの使用を推奨しているからだ。 遅刻の門限は午前八峙二〇分なので、バスを使わなければ街中を全力で走り回る事になる。  今日は八月三一日で、まだ夏休みなので午前八峙以降のスケジュールは夕食と門限と消灯を除けば自由となる。世間では宿題に追われてドタバタするのが定例らしいが、常盤台にはそういった慌しい空気は感じられなかった。  やたらだだっ広く|荘厳《そうごん》な食堂の座席で|超能力者《レペルら》の一人、|御坂美琴《みさかみこと》は両手を広げて大きく伸びをしていた。服装は夏休みでも制服だった。常盤台のルールでは、寮も学校の一部なので私服は禁止との事。美琴はその肩まである茶色い髪も、勝気が過ぎる|瞳《ひとみ》も、一度開けば二〇分はしやべり続ける一も、何もかもがお|嬢様《じようさホ》らしくない少女である。  と言っても、それは美琴だけではない。彼女の周りで食事が終わっても食堂で話し込んでいる女学生も大体似たような|雰囲気《ふんいき》を持っている。どんな環境にいようが、やっぱり彼女|達《たち》は日本の中学生なのだった。マンガや小説にあるような、|趣味《しゆみ》が乗馬で特技がピアノといった記号みたいなお嬢様は極めて珍しかったりする(逆に言えば、いるにはいるという事だが)。 (マンガ、マンガ……。あっ、そうだ今日は月曜じゃない)  美琴は何かに気づいて席から立った。毎週月曜日と水曜日はコンビニでマンガ雑誌を立ち読みする日である。ちなみに彼女のせいで、いつもいつも縁がボロボロになったマンガ雑誌を手にとってしまうとても不幸な高校生がいる事を彼女は知らない。 |普段《ふだん》なら立ち読みは放課後に行うが、今は夏休みなので朝から立ち読みができる。美琴としては密室ばかり出てくる推理マンガの犯人が気になって仕方がないので一刻も早く読みたかった。そんなこんなでコンビニへ出かけようとする美琴に、食器類を片付けていたメイド服姿の給仕の少女が勘付いた。彼女は他校の家政学校の生徒で、実習と称して|女子寮《じよしりよう》の中で働いている中学生だ。実習といっても色々あるらしいが、|常盤台《と わだい》の女子寮までやってくるのは、ほんの一握りのエリートだけらしい。 「みさかみさかー、これからコンビニか本屋にでも出かけるのかー?」 「今日は十日じゃないし月曜だからコンビニよ。あと|土御門《つちみかど》、一応アンタはメイドさん見習いなんだからタメ口はまずいでしょ?」 「みさかみさかー、コンビニ行くならいかがわしいマンガを買ってきてほしー。あれだよあれー、少女向けで一八禁ではないものの妙になまめかしいヤツー  「ああ、アンタってばボーイズラブとか好きな人だっけ? あと土御門、一応アンタはメイドさん見習いなんだからお客さんにお使いとか|頼《たの》まないの」 「みさかみさかー、野郎|趣味《しゆみ》は私じゃなくて料理長の|源蔵《げんぞう》さんだなー。私はあれだよあれー、兄と妹でドロドロになるヤツが好きー」 「それって少女向けより青年向けの方が得意じゃないの? あと土御門、一応アンタはメイドさん見習いなんだからお客さんの前で兄が好きとか言わないの」  ため息をつきながら食堂を出た|美琴《みこと》は、やけに長い廊下を歩いて玄関へ向かう。途中で|誰《だれ》かとすれ違う事はなかった。多くの生徒|達《たち》は食後も食堂に|留《とど》まって話し込むからだ。  美琴は玄関ホールに|辿《たど》り着くと、そのまま玄関の大きな扉を開け放った。  どこかの古い洋館みたいな|雰囲気《ふんいき》を持っ学生寮の中から 転、外はどこまでも近未来的な街の風景が広がっていた。電柱の代わりにあちこちに突き立つ風力発電のプロペラ、歩道を自律走行するドラム缶型の警備ロボット、空には|大画面《エキシビジヨン》をお|腹《かか》にくっつけた飛行船———普通の街とは少し違う、しかしそこに住んでいる者には違いが分からないほど日常に|馴染《なじ》みきった『街』の景色がそこにあった。  石造りの洋館みたいな学生寮のすぐ正面に、二四時間當業のコンビニがある。美琴はそのギャップに小さく笑って、歩道へ一歩踏み出した所で……ふと横合いから男に声をかけられた。 「あっ、何だ|御坂《みさか》さんじゃないですか。おはようございます。これからどちらへ? あれ、部活とかって入ってましたっけ。自分もよろしければ途中までご|一緒《いつしよ》しても購いませんか?」  うっ、と美琴は|一瞬《いつしゆん》硬直してから、何かものすごく苦手なものを前にした顔を必死に押し殺しつつ声の飛んできた方を振り返る。  美琴より一つ年上の、背の高い男が立っていた。線は細いがスポーツマンのような体型で、サラサラした髪に日本人離れした白い肌、スポーツを理論で攻略するタイプの人間で、つまりテニスのラケットを握ってもノートパソコンのキーボードを|叩《たた》いていてもサマになるという反則的な容姿の持ち主。汗が散っただけでキラキラ光を反射しそうなイメージがあり、いつでもどこでもにこにこと温和に笑っている……そんな人間だ。  |海原光貴《うなばらみつき》。  |美琴《みこと》が苦手とする人間の一人だった。彼は|常盤台《ときわだい》中学の理事長の孫だったりする。『超能力開発』を主目的とする学園都市の中では、それは大財閥の総帥一家に匹敵する権力を有していると言える。常盤台は女子校なので|海原光貴《うなばらみつき》が校内や|寮内《りようない》まで足を運んでくる事はないが、逆に言えばそれ以外の場所では|遠慮《えんりよ》がない。  もっとも美琴が海原を苦手としているのは、彼が権力を振りかざす人闇……だからではない。 「うん、部活に入っていないのなら|趣味《しゆみ》に没頭するのも良いですよね。|御坂《みさか》さんはスポーツとかやりますか? テニスに乗馬にスカッシュにゴルフ、この辺りなら自分でも教えられますから興味があれば言ってくださいね……って、あれ? どうしたんですか、気分でも優れませんか?」 「あー、いや、何でもないわ」  本気で人を心配するような海原の目調に、美琴は小さく息を吐く。  海原光貴は向分の権力がどれだけ絶大な効果を発揮するか知っていながら、決してそれを振るおうとはしない。彼はいつも意図的に美琴の高さに目線を合わせてから、対等な立場で話しかけてくる。美琴からするとその冷静に距離を測る『大人』な部分がかえって肌に合わないのだが、かと言って相手が『大人』として接してきている以上、彼をどこぞの高校生に接するようにビリビリで対処するのは、自分がひどく子供のように見えてしまってためらわれる。  美琴が海原に何となく苦手意識を抱いているのは、四六時中気を遣わなければならないからだ。友達と接しているというより、部活の先輩の機嫌を取っているような気分になるのだ。 (おっかしいわねー、それにしても。 一週間ぐらい前ならこんなに付きまとわれる事もなかったのに。|近頃《ちかごろ》は毎日毎日……。むむ、夏が男を変えたのか……やな変わり方よね)  思えば、それまでは街で会ったら話し掛けてくるぐらいのものだった。立ち話はするけど互いのスケジュールには干渉しなかった。だが、今は違う。美琴の行動に追従しようとするような、より積極的な意味合いが受け取れ 「御坂さん?」  うわっ、と話しかけられた美琴は思わず|仰《の》け反った。考え事をしている内に海原が急接近していて、あまつさえ下から顔を|覗《のぞ》き込まれた。 「あの、考え事していないで。これからどこかへ行くんでしよう?」 「え、えーっと……(正直に言うと私は立ち読みだろうが何だろうがマンガを読めば容赦なく笑い出してしまう人間なのでできれば立ち読みの時に|隣《となり》に知り合いが立っているのは勘弁願いたいというか|白井黒子《しらいくろこ》とかあのバカなら特に問題ないんだけど)」 「はい?」 「いや別に! 何でもない何でもない! 心の声とか口から出てないわよ!」 「??? 特に急ぎの用事ではないんですか? ああ、それならどうでしょう。近所に魚料理が|美味《おい》しいお店があるのですが、お暇でしたら是非」  朝食の直後に食事に|誘《さそ》うんかいコイツは、と美琴は思ったが顔には出さない。 「あー、けど、でも、|誘《さそ》ってくれるのは|嬉《うれ》しいんだけど私にも用事があるというか……」 「では早く行きませんか? ご|一緒《いつしよ》しますよ」 「うー、あー、確かに用事はあるのだけどなんというか……」 「……?」|海原《うなばら》はわずかに|眉《なゆ》をひそめ、「もしかして、自分と一緒では行きづらい場所ですか」 「そ、そうよそれ!」|美琴《みこと》はポンと手を打ち、「い、今から(えーっと)そう、ちょこっとデパートの下着売り場まで出かけようかと思って。ほら、男の子には|辛《つら》い場所でしょ?」 「ご一緒しますよ」  寸分の狂いもなく、キラキラ光る笑顔で海原は即答。  素で突破されたーっ!? と美琴は心の中で頭を抱えた。 (うう、どうしようどうしよう。あ、そうだ|他《ほか》の男と待ち合わせしている事にしよう。|流石《さすが》にそれならご一緒できまい。よし、ベタな手段だけどテキトーな男にくっついて『ごめーん待ったー?』とか何とかアドリブで演技してみるべし! 巻き込んだヤツには迷惑かけそうだけどジュースの一本ぐらい|奢《おご》ってやるわよ!)  美琴は『恋人役』となるべき男性を探すべく視線を左右へ走らせた。が、今日は八月三一日。 住人の八割が学生である学園都市にとって今日一日は『家に引きこもって残った宿題と|格闘《かくとう》する日』である。  つまり、見渡す限り|誰《だれ》もいない。  うわもーこれ絶望的だわー、と美琴が心の中で頭を抱えたその|瞬間《しゆんかん》、まるで神様からの贈り物のように通りの角から三人の少年が現れた。      2(Aug.31_AM08:25)  |土御門元春《つちみかどもとはる》、青髪ピアス。  早朝の街で出会った彼らは、共に|上条当麻《かみじようとうま》のクラスメイトらしい。らしい、というのは上条は|記憶《まおく》喪失であり、授業風景というものを見た事がない状態だからだ。  本来、今の上条には表通りを歩いている余裕などない。彼は八月三一日まで全く夏休みの宿題に手をつけず、今は時間に追われる身なのだ。  宿題に煮詰まった上条は、これは|徹夜《てつや》の長期戦になると踏んでコンビニへ缶コーヒーを買いに行ったのだが、いつも飲んでいる銘柄だけがぽっかりと穴が空いたように売り切れ状態だった。誰だプレゼント用の応募シールを独占しているヤツは、と上条が首を|傾《かし》げた所で、青髪ピアス|達《たち》に捕まった。宿題をとっくに終わらせているクラスメイト達は夏休み最後の日を存分に満喫して何かしらの良い思い出を作りたいらしい。というより、 「う&あー、もう夏休みも今日で最後ですよカミやん。あー結局今年も空から女の子が降ってきたり雨の日のダンボールの中に猫ミミ少女が収まってたり玄関開けたらいつの間に決まっとったのかも分からへん|可愛《かわい》い|許婚《いいなずけ》が待っとったりとかせんかったなー。っていうか何やねんこのイベント数の少ない夏休みは、小説やったら『その高校生は夏休みを過ごした。』の一行で全部スルーやないかい」  この後ろ向きなエセ関西弁が青髪ピアスの言葉で、 「あーラブコメしたいぜいラブコメしたいぜい。共学の学園生活だっつってんのに|何故《なぜ》だか先蘇後輩先生クラスメイトに委員長幼なじみから|寮《りよう》の管理人までその|悉《ことごと》くが女性で全員男性経験皆無のような、そんな仁義なきラブコメ新学期が待ってないかにゃー?」  この前向きな不思議口調が|土御門元春《つちみかどもとはる》の|台詞《せりふ》。  どちらにしたって現実性ゼロな二人の意見に、|上条《かみじよう》は思わず頭を抱えてみる。 「もしもし、野郎ども。キミタチはわたくし上条|当麻《とうま》が夏の宿題に追われてる事を知りながらこんな事をやってるのかい? っつか今日ぐらいは|邪魔《じやま》すんな! むしろ友情パワーで手伝ってくれるくらいの事をしてくださいな!」 「ええやんカミやん。宿題やってないなら後で|小萌《こもえ》先生と二人きりの個人授業が待ってますよ? あー、何でボクあ宿題やっちまったんだろうなあ。きっと小萌先生に|誉《ほ》めて欲しかったからなんやろうけど、ボクもカミやん見翌って色々打算働かせなあかんなあ」 「というか、カミやんの宿題手伝ったってラブコメに|繋《つな》がらないぜよ。数学の問題集に引き寄せられて空から女の子が降ってくるなら喜んでアシストするけどにゃー」  明らかに人の不幸を楽しんでいる二人に上条は暗い笑みを浮かべる。 「なんというか、本当に友達|甲斐《がい》のない人|達《たち》ですこと。ってか空から女の子が降ってくるって何だ1 お前達の好みのタイプは|空挺《くうてい》師団所属なのか?」  その絶叫に対し土御門がボソっとした声で、いやいや今は空から降ってきた女の子がベランダに引っかかってる時代だぜい? とか何とか言っていたが上条には良く分からなかった。  彼は|記憶《おおく》喪失である。  一方、青髪ピアスは青髪ピアスで、 「はっ、何を言うてんカミやんは。ボクあ落下型ヒロインのみならず、|義姉《ぎし》|義妹《ぎまい》|義母《ぎぼ》|義娘《ぎぎじよう》|双子《ふたご》|未亡人《みぼうじん》|先輩《せんぱい》|後輩《こうはい》|同級生《どうきゆうせい》|女教師《じよきようし》|幼《おさな》なじみお|嬢様《じようさま》|金髪《きんぱつ》|黒髪《くろかみ》|茶髪《ちやぱつ》|銀髪《ぎんぱつ》ロングヘアセミロングショートヘアボブ|縦《たて》ロールストレートツインテールポニーテールお|下《さ》げ|三《み》つ|編《あ》み|二《ふた》つ|縛《しば》りウェーブくせっ|毛《け》アホ|毛《げ》セーラーブレザー|体操服《たいそうふく》|柔道着《じゆうどうぎ》|弓道着《きゆうどうぎ》|保母《ほぽ》さん|看護婦《かんごふ》さんメイドさん|婦警《ふけい》さん|巫女《みこ》さんシスターさん|軍人《ぐんじん》さん|秘書《ひしよ》さんロリショタツンデレチアガールスチュワーデスウェイトレス|白《しろ》ゴス|黒《くろ》ゴスチャイナドレス|病弱《びようじやく》アルビノ|電波系《でんぽけい》妄想癖《もうそうへき》二重人格《にじゆうじんかく》女王様《じよおうさま》お|姫様《ひめさま》ニーソックスガーターベルト|男装《だんそう》の|麗人《れいじん》メガネ|目隠《めかく》し|眼帯《がんたい》|包帯《ほうたい》スクール|水着《みずぎ》ワンピース|水着《みずぎ》ビキニ|水着《みずぎ》スリングショット|水着《みずぎ》バカ|水着《みずぎ》|人外《じんがい》|幽霊《ゆうれい》|獣耳娘《けものみみむすめ》まであらゆる女性を迎え人れる包容力を持ってるんよ?」 「一個明らかに女性じゃねーのが混じってんだろ」  |上条《かみじよう》がぐったりしながら何とか答えると、|土御門《つちみかど》がニヤニヤと笑いながら、 「けっどー、カミやんはどんなのがストライクゾーンなんだにゃー?」 「……、|寮《りよう》の管理人のお姉さん。代理でも可」 「ウチ男子寮だし管理人もオッサンぜよ!?」 「うるせえな! 分かってんだよ現実的にありえない事ぐらい1 一入っ子が姉に|憧《あこが》れるようなものだっていうのに|何故《なぜ》そこをスルーしてくれない!?」 「む。しかし管理人の『お姉さん』ときたか。逆に妹キャラはピンと来ないのかにゃー? なんだかんだ言っても基本はやっぱりイイものだぜい」  と、リアル義妹のいる土御門は力強く|頷《うなず》いたが、逆に上条と青髪ピアスは|辛《つら》そうな視線を向けた。友人代表として上条は言う。 「あのな、これは友人としてお前ら義兄妹の関係を良好にするために|敢《あ》えて忠告するが」 「ど、どうしたっていうんだぜい?」 「お前の義妹はな、|誰《だれ》にでもお兄ちゃんと言う女だ」  何だとコラァ!! と土御門が両手を振り上げて激怒する。 「そ、そんなはずないぜよ! オレの妹がいつどこで誰にどういった理由でオレ以外の男にお兄ちゃんなどと呼んだというんだにゃーっ!」 「そやねー。一昨日駅前のデパ地下のレストランでご飯おごったらありがとうお兄ちゃんって言われたでー」 「っつーか咋日、そこの表通りで出会い頭にこんにちはお兄ちゃんって書われたぞ」  バギン、と。土御門の奥歯の辺りで何かを|噛《か》み|潰《つぶ》すような音が聞こえた。 「殺す。っつーか人の妹と勝手にコンタクト取ってんじゃねーぜよ!!」  かくして、怒りに満ちた兄の|拳《こぶし》が上条|達《たち》へ|襲《おそ》いかかる。      3(Aug.31_AM08:35)  |御坂美琴《みさかみこと》はその三人組を見るなり、たっぷり一〇分間も凍り付いてしまった。その間、彼らはハリウッド映画終了一五分前みたいな最後の戦いを繰り広げていた。|海原《うなばら》が時折、|遠慮《えんりよ》がちに彼女の顔の前で手をパタパタ振りながら『もしもし?』と言っていたが、美琴はそんな事にも気づかない。口の形を『ごめーん待ったー?』の『ご』の形にしたまま、|呆然《ぼうぜん》と彼らの姿を!!で追い駆ける。 (ちょっと待ってちょっと待ってあれが恋人役なの? 何にも知らない海原にはホントに私の恋人に見えちゃうんだけど……うわー素でリアル義理の妹の会話してるーっ!)  ようやく解凍された美琴は本気で頭を抱えた。『気分が優れないんですか?』という海原に慌てて作り笑いを浮かべつつ、美琴はもう一度辺りを見回した。ダメだ、あの三人以外に人気はない。しかもあの三人にしたってこうしている内にもどんどん離れて行ってしまう。ここで彼の出鼻をくじかないと、ズルズルと一日中このミスターサワヤカと|一緒《いつしよ》にいる羽口にもなりかねない。  やむをえない。何かあちらは|洒落《しやれ》や冗談ではなく本気で今日一番の|盛り上がり《バトルシーン》を見せているみたいだけど、あの三人の中から選ぼう、と|美琴《みこと》は決断する。  さて|誰《だれ》にしよう? (まず一人目。なんか青い髪にピアスの男———はダメだあ! マンガ大好き美琴センセーにも分かんないような専門用語を乱発してるし二次元思考を三次元女子に押し付けてきそうな気がするしー)  美琴は首をブンブンと横に振って、 (次に二人目。なんか金髪にサングラスの男———も無理でしょ! 話を聞いてると実寸大の妹に手を出してる危険な入っぽいし!)  美琴は首をブンブンと振りすぎて頭をくわんくわんさせながら、 (んで三人目。……って、アイツまさか。……。や、やだ! それだけは絶対にやだ! あ、でも、けど、アイツをスルーすると残るは青い髪かサングラスしかいないし、あの、えーっと、うわあああああああああああああ!!) 「あっ、ちょっと|御坂《みさか》さんどちらへ!?」  美琴は目を|瞑《つぶ》って走り出す。背後で|海原光貴《うなばらみつき》の声が聞こえたがもう気にしていられない。標的までの距離はおよそ二〇メートル強。ラストバトルに夢中の|格闘《かくとう》少年は|未《いま》だ|敵影《てきえい》に気づく様子はない。      4(Aug.31_AM08:40) 「ごめーん、待ったー?」  背後から聞こえてきた女の子の声に、クライマックスに突人しかけていた|上条達《かみじようたち》三人は水を差されたと言わんばかりに渋い顔をして|拳《こぶし》を止めた。当然ながら彼らは女の子と待ち合わせなんてしていなかったから、『あー近くにモテモテさんがいる訳ですか僕達には縁のない話ですねちくしょーっ!』と心の中で|歯軋《はぎし》りしていたのである。  しかし、冷静になると今日は八月三一日で、辺りに人がいるはずはないのだが……。 『?』と上条が首を|傾《かし》げた|瞬間《しゆんかん》、 「待ったー? って言ってんでしょうが無視すんなやこらーっ!!」  上条の背後、腰の辺りに女の子が思いっきりタックルしてきた。ドゴォ! という壮絶な音と共に上条と女の子は勢い余って歩道の上へ転がる。  上条は女の子に押し|潰《つぶ》されたまま、どうにか体をひねって自分の腰にまとわりつくその人物の正体を確かめようとして、 「く、くそ|誰《だれ》だこんな事しやがったのは……って、えーっ!? よりにもよって|御坂《みさか》かよ!」 「……(よりにもよってって何よ! あーいや、とにかくお願いお願い話合わせて!)」  |美琴《みこと》の|内緒話《ないしよぱなし》に|上条《かみじよう》は『は?』と目を点にする。一方、青髪ピアスと|上御門《つちみかど》は、 「はァあ!? カミっ、カミやんが|常盤台《ときわだい》の中学生に抱きつかれとる! |巫女《みこ》さんシスターさん|小萌《こもえ》センセーに続く新たなカミジョー伝説の幕開けかーっ!?」 「……というかカミやん、フラグの数は何ケタ単位だったっけ?」  二人の声に美琴の休がブルブルと怒りに|震《ふる》える。が、それだけだった。いつもの対応と違う、|普段《ふだん》の彼女は|超能力者《レベル5》の|電撃《でんげき》使いで、|悪癖《あくへき》として怒ると所構わず放電するというのに。 「あ、あの、御坂センセー? これは一体どういうつもりですか?」 「……(しっ! |黙《だま》って……うわー、まずい。こっからだと距離が遠すぎて会話が届いてないかー。てか、こいつらどんな勢いで|騒《さわ》いでたのよ? よーし……)」  美琴はどこか遠くを|睨《にら》みながら小さく|拳《こぶし》を握った。『?』と上条は美琴の視線を追う。少し離れた歩道に、さわやか系の男がポツンと突っ立っている。突然の美琴の奇行にどう対処して良いか分からず、凍り付いているようにも見える。  早くどけ、と上条が見た目イライラ、内心ややドキドキしていると、美琴は深呼吸するように大きく息を吸って、 「あっはっは! ごめーん遅れちゃってーっ! 待った待ったー? お|詫《わ》びになんか|奢《おご》ってあげるからそれで許してね?」 「……………………………………………………………………………………………、はい?」  |響《ひび》く大声。絶句する上条。本気で時間が止まる青髪ピアスと土御門。遠くで気まずそうに視線を|逸《そ》らすさわやか系の男。  そして唐突に、バン! と常盤台中学|女子寮《じよしりよう》にあるたくさんの窓が一斉に開け放たれる。 「あー……」  美琴の笑顔が凍りついた。|窓際《まどぎわ》に寄っている女子生徒|達《たち》がひそひそひそひそと何か小声で話し合っている。ツインテールの少女、|白井黒子《しらいくろこ》が何やらものすごい顔をして口をパクパクと動かしている。ややあって窓の一つに、最高責任者らしき大人の女性が出現した。  大人の女性は何かを言う。だが、小声だったのと距離が遠かったので声は届かない。にも|拘《かか》わらず、上条と美琴の脳内には確かに壮絶な言葉は|叩《たた》き込まれた。 『面白い。寮の眼前で|逢引《あいびき》とは良い度胸だ御坂』 「あ、あはは」美琴の顔の筋肉が不気味に引きつった。「あはははははーっ! うわーん!」  美琴はヤケクソ気味に笑いながら上条の手を|掴《つか》むと、そのままものすごい速度で走り出した。上条は訳も分からずに引きずられて行った。      5(Aug.31_AM09:45)  かくして|上条《かみじよう》と|美琴《みこと》は一時聞も街を走り回った。 「って待て! なんか時間の進み方がおかしい! 何で一時間もノンストップで走り続けてんだよ|俺達《おれたち》は!?」 「うるさい! |黙《だま》って! ちょっと黙って! お願いだから少し気持ちの整理をさせて!」 ううう、と美琴は美琴でさっきから頭をブンブンと横に振り続けている。  上条は周囲を見回した。ここはどこかの裏路地を入った辺りだろう。四方を背の高いビルに囲まれ、一つだけ背の低い|寮《りよう》のようなものがある。  美琴はすーはーと深呼吸をすると、ようやく落ち。着いてきたらしい。 「ふー。ごめん、ちょっと取り乱してたみたい。色々説明するからどっか座れる場所行きましょ」 「え、説明? オイこら、まだ何かややこしくなんのか?」 「あー、もうすぐ一〇時だからお店も動き始める時間よね。でもご飯食べたばっかだし、軽くホットドッグの屋台とかでいいかしら」 「待て待てそこスルーすんな! まだ何かややこしくなるのかって聞いてんの! こっちも宿題とかあるんだよ! ってかこんだけ人を巻き込んでおいて安っぽいホットドッグ一個で済ませようとすんな!」  んー? と美琴は自分の|顎《あご》に人差し指の先をつけて、 「じゃ、それにしよっか」 「は?」 「だから、世界で一番高いホットドッグにしよう。それなら文句ないでしょ?」 「いや、だから論点はそこではなく……ああダメだ、この人間いてねえ!」  上条は悩む間もなく、ずるずるずるずると美琴に引っ張られて路地を歩いていく。      6(Aug.31_AM10:15)  一個二〇〇〇円。  上条は値段表を見て絶句した。キャンピングカーを改造したような現代風の屋台に収まっている店員さんはそんな上条の顔を見て苦笑している。良くある反応なのだろう。 「ニセンエンって……どんな材料使ったらそんな値段になるんだよ?」 「それを教えちゃったら商売になんないでしょ。あ、ホットドッグ二つ」  そうこうしている内に美琴が勝手に注文をしてしまう。上条は店員さんの手の動きを目で追った。パンや具材の大きさが特別巨大という訳ではない。何か奇妙な食材が放り込まれる事もない。言っては悪いが|他《ほか》のお店のホットドッグと|一緒《いつしよ》に並べたら、どれがどれか分からなくなりそうなぐらい何の変哲もないように見える。その小さめのサイズから見て、食事というよりオヤツみたいな感じがする。  これに二〇〇〇円も払うのか、と|上条《かみじよう》がぐったりしていると、|美琴《みこと》はホットドッグを二つ受け取る代わりに二人分の料金を払ってしまった。 「お、おい。この金————」 「何うろたえてんのよ。ホットドッグだってピンキリなのよ? ロスの屋台なんて映画俳優がリムジンで乗りつけてきて注文するような店だってあんだから安い高いでカルチャーギャップとか受けてんじゃないわよ」 「いや違う、そうじゃなくて。自分の金ぐらい自分で払うっつーの」 「は? 別にいいわよこれぐらい。いちいち財布取り出すの面倒臭いでしょ?」 美琴に素で答えられて、貧乏学生上条は乾いた笑みを浮かべた。なんのかんの言った所で、|御坂《みさか》美琴はやっぱり|常盤台《ときわだい》中学に通う本物のお|嬢様《じようさま》なのだった。  ホットドッグの屋台は始めから『食べる場所』を|考慮《こうりよ》してお店を開けているのか、すぐ近くにベンチがあった。街路樹が屋根のように日光を遮っているので見た目は涼しそう……なのだが、実際にはやっぱり暑い。関東地方の猛暑は甘くない。おまけにどこかで建設工事でも始めたのか、けたたましい音が遠くから聞こえてくる。 「ほいホットドッグ」  美琴に手渡されたホットドッグを上条はじっと見る。それから食べる。悔しいが美味しかった。どこがどう他のホットドッグと違うのかが分からないのがさらに悔しかったが。  美琴は鼻にくっっこうとするマスタードと|格闘《かくとう》しながらホットドッグをかじりつつ、説明を始めた。|海原光貴《うなばらみつき》というさわやか男に付きまとわれている事、何となく断りづらい事情がある事、この一週間などは毎日毎日遊びに|誘《さそ》われて|辟易《へきえき》していた事、恋人役を使って海原を引き離そうとした事、目に付く範囲には上条しか対象がいなかった事などなど。  上条はちょっと周囲を見回した。当然ながら海原の姿はない。まあ、四六時中一定の距離を置いて街路樹の陰からじっと見ているはずはないと思うが……。 「けどよー。とりあえず海原ってのから離れる事はできたんだろ。だったらもう演技する必要もねーんじゃねーの? 大体、海原の見てない所で演技しても意味ねーだろ」  宿題の山が残っている上条としては、今日ばかりは自分を優先したい。 「うーん。その離れるってのは『とりあえず』なのよね。次に会ったらまた付きまとわれるのは確実だし。せっかくの機会だから二度と付きまとわれないようにしたいんだけど」 「……、おい」 「今日一日アンタと一緒に行動する。それをできるだけ多くの人に見てもらう。街中で海原と何度か遭遇できればより強く印象づけられるかも。それで|海原《うなばら》が距離を置いてくれれば万事オッケーと言ったトコ、なんだ、けど……ってどうしたの? 頭抱えて」  何でもありません、と|上条《かみじよう》は両手で頭を抱えてため息をついた。  つまり|美琴《みこと》は今日一日、自分の恋人に偽装してくれと上条に|頼《たの》んでいる訳だ。しかし、と上条は思う。仮にそれが大成功した場合、『中学生に手を出したスゴイ人』という既成事実が出来上がってしまう。インデックスと同居しておいて今さら何を言うかという感じだが、実は上条はインデックスの年齢を知らない。見た目十二歳の女教師がいる事からこの辺りは決して|侮《あなど》れないのだ。  それに何より夏休みの宿題もある事だし、当然ながら断りたかった上条だったが、ふと美琴の目が不機嫌になりつつある事に気づいた。まずい、と上条は思う。彼女を本気で怒らせたら宿題どころではない。二四時間耐久レースで|喧嘩《バトル》になりそうな気がする(とはいえ、|無駄《むだ》に長引くだけで|何故《なぜ》か負ける気はしないのだが)。  上条がいつまで|経《た》っても|黙《だま》りこくっている事に美琴は腹を立てたように、 「で、なんか質問とか感想とかってある?」 「感想ねえ。とりあえず鼻についてるマスタードは拭いとけよ」  んなっ!? と美琴の顔が真っ赤になった。食べかけのホットドッグを紙ナプキンで包んでベンチに置くと、上条から顔を背けつつハンカチを使い、慌てて鼻の先についた汚れを拭き取ろうとする。だが、 「ひっ! 〜〜〜〜ッ!?」  今度は鼻を押さえて、美琴は足をバタバタと振り回した。どうやら急いでマスタードを批き取ろうとして、誤って鼻の粘膜にマスタードがくっついたらしい。 「あー……|大丈夫《だいじようぶ》か?」  上条も美琴に|倣《なら》って紙ナプキンで自分のホットドッグを包んでベンチに概くと、空いた手でポケットを探ってティッシュやハンカチを探した。すると美琴は無理矢理な笑みを浮かべ、「だ、大丈夫よ。というか、別になんにも起きてないわよ」  どうやら彼女は、マスタードで無様に自爆した事そのものをなかった事にしたいらしい。再び上条に向けた美琴の顔は、何もなかったかのように平静を|装《よそお》っている。ただしそれは表面上の話で、よほどマスタードが昴に効いたらしく、|頬《ほお》は赤くなり、唇を引き結んで|囲尻《めじり》に涙が浮かびそうになるのを必死にこらえていた。その肩もブルブルと|震《ふる》えている。 「ほ、ほら。何か質問とか感想とかないの?」 「いやお前、本当に大丈夫なのか。それにしても、こんなくだらない理由で|瞳《ひとみ》を|潤《うる》ませて上日遣いになるっていうのも|御坂《みさか》らしいっつーか。お前、実は|涙腺《るいせん》が|緩《ゆる》いんじゃ———」 「うるさい! だからなんにも起きてないっつってんでしょ! ええい、神妙な顔してティッシュをこっちの鼻に近づけてくるんじゃないわよっ!」  |噛《か》み付くように言われて、|上条《かみじよう》は慌てて手を引っ込めた。 (ま、忘れて欲しいってんなら、見なかった事にしておくか)  上条はため息をついて、ベンチに置いたままのホットドッグへ手を伸ばそうとして、 「あれ?」  思わず声が出た。  紙ナプキンで|綺麗《きれい》に包まれたホットドッグが二つ、上条と|美琴《みこと》の間にある、わずかなスペースに置いてあった。言うまでもなく上条と美琴のホットドッグだが、どちらが上条が食べていたものか、見分けがつかない。  と、美琴もその事に気づいたのか、 「えっと……。アンタ、どっち食べてたか覚えてる?」 「さあ? でも多分、右の方だと思うそ」  大して深く考えずに、上条は右のホットドッグへ手を伸ばす。と、美琴が恐ろしい速度で上条の手首を|掴《つか》んで止めた。  上条はびっくりして美琴の顔を見る。 「ちょ、ちょっと待ちなさい。確かめさせて」 「は?」  美琴は上条の手からホットドッグを奪うと、二つのホットドッグを並べて見比べてみた。紙ナプキンを|剥《は》がして、食べかけの部分などを|凝視《ぜようし》している。  だが、|上条《かみじよう》から見れば違いなど分からなかった。二つとも、大体半分ぐらいまで食べてあるので大きさに差はないし、具も同じなので区別がつかない。  というか、同じ品なのでどっちでも構わなかった。 「で、分かったのか?」 「……、」 「分かったのか?」 「…………、」 「分かっ」 「ああもう! 分かんないわよ! じゃあいい。アンタの言う通り、アンタは右で私は左でいい! まったく、ちょっとは気にしなさいよこの|馬鹿《ばか》!」  ぎゃあぎゃあと良く分からない事を叫ぶ|美琴《みこと》から上条はホットドッグを受け取りながら首を|傾《かし》げた。 「はぁ、さっきから何|騒《さわ》いでんだか。別に注文したのって同じメニューなんだろ?」  言いながら、彼は何の気なしに一口かじった。当然だが、やはり何か変化がある訳でもない。  と、あれだけ騒がしかった美琴の口が、ピタリと|黙《だま》っていた。|何故《なぜ》だかその動きも凍りついたように止まっている。 「? どうかしたのか、お前」  何でもない、と美琴は答えた。  それから彼女は両手でホットドッグを|掴《つか》むと、しばらくそれを眺めてから、やがて小動物のように口へ含んだ。何かその顔が赤くなっている。 「……。で、話を本題に戻すけど。これからアンタには|海原《うなばら》を|騙《だま》すために『演技』してもらいたいんだけど、なんか質問とか感想とかってあるの?」 「あの、本当にどうしたんだお前。なんかいきなり借りてきたネコみたいになってるし。鼻にマスタードって、そんなに効くもんなの————」 「うるさい! そっちじゃない……って違う! 何でもいいから質問とか感想とかないのって聞いてんのよ!!…」  美琴は顔を真っ赤にすると身を乗り出して叫んだ。顔と顔がぶつかりそうになって、上条は慌てて身を引いた。 「うわあ!? えーっと、えーっと……。感想としてはふざけんな。質問としては恋人役って何すりゃいいんだよってトコか」 「え? 何すりゃって……」 「だからさ、一体何をやれば恋入っぽく見える訳?」 「……、」 「……、」  どうしよう? と|美琴《みこと》と|上条《かみじよう》の動きが止まる。  特に何かをしたから恋人というのではなく、恋人なら何をやっても恋人なんだという事に気づいていない、まだまだお若い二人だった。      7(Aug.31_AM10:45)  結局、上条と美琴はベンチに座って世間話をする事にした。  とはいえ、学生|達《たち》はみんな夏休みの宿題と|格闘《かくとう》しているせいか、街はガランとしていた。話を聞いているのはホットドッグを売っている店員さんぐらいのものだろう。多くの人に演技している姿を見てもらわなくてはならないというこの計画の問題点に、上条は早くも気づき始めていた、 「だからさー、結局『実験』の後に学園都市に残った|妹達《シスターズ》って一〇人もいないのよね。ほとんどは学園都市の『外』の機関に|頼《たよ》って体の調整をやってるみたい」 「あん? 『外』の機関って|大丈夫《だいじようぶ》なのか。能力者の体を調べたら|時間割《カリキユラム》りの仕紺みとかが『外』に流出しちまうんじゃねーの?」 「学園都市協力派の企業や研究機関もあるって事。学園都市だって単体じゃ存続できないでしよ。資源の調達・情報の制御・法律の整備……見えないだけで結構|繋《つな》がりがあるみたいよ」 「ふうん。そんじゃ連中もなんだかんだで元気にやってる訳か。良かった良かった」  そこまで言うと、美琴は少し|黙《だま》った。何か釈然としないような、どこか不機嫌そうな顔をしている。上条はその理山が分からなかったが、つられて少し黙ってしまった。 「っていうか、これってちょっと恋人同士の会話とは違わないかしら?」 「ん。まーな、機関とか学園都市協力派とか体の調整とか、そーゆーのは違うかもな」 「……(|他《ほか》の女の話題で盛り上がってるからでしようが)」 「は?」  上条の耳には良く聞こえなかったが、美琴は何でもないと一言しか答えなかった。  美琴は上条の横顔をこっそりと見たが、彼はそんな様子にも気づかず。スボンのポケットから何か折り畳んだ紙のようなものを取り出した。見ると、それは古文か何かのプリントの束らしい。上条はシャーペンを取り出すと問題に取りかかる。 「……ってか、アンタ。主旨理解してる? それのどこが恋人同士に見えるってのよ! 女を無視して勉強に没頭するって中世ヨーロッパ並の男尊女卑じゃない!」 「あ。ーあーはいはい、|擬人化《うざじんか》美琴たん|萌《も》えー」 「擬人化って元の私は人間扱いされてないじゃん!?」 「うわーんもう! ドキドキお勉強会イベント! 学園生活風物詩と受け取ってください!っつーかこっちは夏休みの宿題が一つも終わってなくてこの二四時問は|修羅場《しゆらば》になりそうなのであります軍曹殿!」 「??? 夏休みの宿題って何よ?」 「……、えーっと、|御坂美琴《みさかみこと》さん。あなたは夏休みの宿題が何であるか知らないのですか?」 「あーあー、そういえばなんか聞いた事ある。長期休暇で気が|緩《ゆる》んだり学力が低下しないようにするための課題ってヤツでしょ、確か。でも、別にこんなのやらなくても気は緩まないし学力も低下しないんじゃない?」  |上条《かみじよう》は絶句した。なんと|常盤台《ときわだい》中学には夏休みの宿題というものがないらしい。 「うう、ずるい。何で常盤台はそんなに自由奔放なんだよ?」  知らないわよそんなの、と美琴は=言で断じた。 「で、その宿題ってどんなのやってる訳?」 「は? まあ見せてやっても良いけど、高校生の問題だから中学生にゃ分かんねーだろ」 「とにかく見せなさいよ。どれどれ」  美琴は上条の手にあるプリントの束を|覗《のぞ》き込む。  上条は何気なく美琴の横顔を見ようとして———|驚《おどろ》いて上体を|退《ひ》いた。彼女が思い切り身を乗り出して上条の手の中のプリントを覗き込んでいるため、|頬《ほお》と頬がぶつかりそうなぐらい接近していたのだ。 「ふーん、古文の問題ねぇ。ってか、これ本当にただの復習でしかないのね」  美琴はその事を意識していないのか、上条の手からシャーペンを引ったくると、ほとんどしなだれかかるような体勢になってサラサラとプリントに答えを書き始める。目線を落とすと視界の|邪魔《じやま》になるのか、彼女は片手でサイドの髪をかき上げて耳に引っ掛ける。髪からトリートメントの淡く甘い|匂《にお》いがした。 (うわ……ッ! ま、まずい。なんか知らないけどこれは非常にまずい!)  体のどこを動かしても美琴の肌に接触しそうな状態である。上条はしばしガッチガチに固まっていたのだが———ふと、我に返った。 「……、あの、何で解けるの?」 「何でアンタは解けないのよ?」  嫌味でも何でもなく、素の表情で美琴に切り返された上条は思わず逃げ出しそうになってしまう。美琴は上条の両肩を押さえつけてなだめるように笑いかけた。 「ま、まーまー。誰にでも得意不得意はあるって事よ。あ、そうだ。|依頼《いらい》の料金としてこの間題の答え教えてあげよっか?」 「勉強の事で中学生に|諭《さと》される高校生って……」 「あ、あはは。うわー、本気で落ち込んでるっぽいわねアンタ。ちょっと気分転換にジュースとか飲む? 私買ってくるけど、それ飲んだら宿題ってのを片付けるわよ」 「は? いや買うなら|俺《おれ》が行くけど。気分転換なら俺が歩いた方が良いだろうし、二〇〇〇円分の借りもあるしな」 「私がやるって言ったら私がやるの。こういうのは断った方が気まずくなんのよ」  |美琴《みこと》は苦笑しながらベンチから立ち上がると、|上条《かみじよう》を置いてどこかへ行ってしまった。ちょっと見た感じでは、周囲に自動販売機はない。少し離れたコンビニにでも買いに行くつもりなのだろう。 (ていうか、飲んだり食ったりばっかりだ)  ベンチに残された上条はしばらく美琴の去った方を見ていたが、やがて古文の宿題のプリントの束へと目を落とした。はっきり言う、本当にこれは日本語なのか。英語のぺらペーらに通じるものを感じる。 「……、うだー」  上条は疲れたように首を振ってプリントから目を離した。  と、そんな上条の目の前を横切るように、小型犬が走り抜けた。首に散歩用の|手綱《リード》を引きずっている所を見ると、どうも飼い主の手から逃げてしまったらしい。  上条が少し|驚《おどろ》いて逃げる犬を見ていると、それを追い駆けるように今度はさわやかな男が上条の目の前を横切った。その顔には見覚えがある。確か|海原光貴《うなばらみつき》だ。彼はあっという間に小型犬に追い着くと、引きずられる|手綱《リード》を|掴《つか》み取った。  それから大分遅れて、小学生ぐらいの男子が海原の後を追っていた。どうやら飼い主はこちらの少年らしい。海原は木に引っかかった風船を手渡すような感じで、手にした|手綱《リード》を少年に返して二言三言何かを告げていた。 (なんというさわやか。なんというキラキラ。っつか、いるんだなあああいうヤツ。レア度で言えば夜の公園でブランコに座って涙ぐむ家出少女と同じレベルだぞ)  感心半分|呆《あき》れ半分でそんな事を思っていた上条だったが、実は彼にしたって路地裏で不良に|絡《から》まれる女の子を助ける|格闘《かくとう》少年並みにレアな人間だったりする。  と、上条は海原と目が合った。  海原も上条の顔を|記憶《きおく》しているのか、少し驚いた後に、小さく苦笑した。ただ、立ち去る様子はない。海原は頭の中で何かをあれこれ整理すると、ベンチに座っている上条の前までやってきた。 「初めまして。ええと、あなたの名は、何と呼べば良いのですか?」 「あん? 上条|当麻《とうま》だけど、そっちは海原光貴さんでいいんだっけか?」 「は、あれ? 自分は確かに海原光貴ですけど、どうして名前を知っているんですか?」  海原は不思議そうな顔をしたが、上条は美琴から話を聞いている。というより、この忙しい中で美琴にあちこち連れ回される原因を作った男とも言える。 「で、その海原光貴さんがこの上条当麻さんに何の用なんだ?」 「え、いえ、用というほどの事ではないんですが」|海原《うなばら》は少し面食らったように、「えっと、気を悪くしなければ教えていただきたいのですが、あなたは|御坂《みさか》さんのお友達なんですか?」 「気になんの?」 「……、ええ。自分の好きな人の|側《そば》にいる男性となれば、当然」  へえ、と|上条《かみじよう》は改めて海原の顔を見た。  この男がいっぺんに好きになりそうになる。ここまで|真《ま》っ|直《す》ぐに告げられるとは思っていなかった。上条はこういう|馬鹿《ばか》な人間が大好きだ。 (ふむ)  上条はちょっと考えた。|美琴《みこと》にはこの男を|諦《あきら》めさせるように演技するよう、|頼《たの》まれている。 「なあ、アンタはどつちの答えを望んでるんだ? 予想してる[#「予想してる」に傍点]答えか、予想外の[#「予想外の」に傍点]答えか」 「どちらにしても、自分の答えは変わりませんよ」  海原|光貴《みつき》は、一秒すら置かずにそう言い切った。 他人を|蹴落《けお》とす事で上位へ昇るのではなく、あくまで自分を高みへ上げる事で上位へ行こうという決意。見方によっては諦めの悪い|鬱陶《うつとう》しい人間にも見えるが、不思議とそういった陰湿な空気はなかった。上条を敵対視したり美琴に逆恨みをしたりしないからだろう。      8(Aug.31_AM11:02)  海原光貴は、話してみると結構良いヤツだった。  お金持ちで|常盤台《ときわだい》中学理事長の孫で……とかいうと、さぞ嫌味な上流階級の人間だろうとか思っていた上条の予想は大きく外された。 「だからね、御坂さんはもっと人に対して『好き』と『嫌い』をはっきり言うべきだと思うんですよ。あ、そこの問題の答えは㈫です。この『|火取《ひど》る』は『|煎《い》る』という意味で、ラ行変格活用ですから」 「㈫ね……㈫、っと。そっかあ? あの女、あれでかなり自分の感情に素直なヤツだぞ。名前を覚えてなかっただけでビリビリ飛ばしてくるし」 「その『素直』にした所で、照れや演技が入っていると自分は思いますけどね。正直、自分はあの人の本音というものを聞いた事があるという自信はありません。一度もですよ? えっと、そこの問題の答えは㈬です、㈪は引っ掛けだと思います」 「さんきゅー。ふうん、言われてみりゃそうかもな」 「そうですよまったく。そこのところをはっきりとしないから、自分みたいな人間がいつまでもいつまでもずるずると迫い駆ける羽目になります。こちらは本気でアタックしているのですから、あちらにも本気で答えて欲しいものですね。あ、そこは㈰です」 「あ、㈬じゃねーの? けどよ、お前もすげー覚悟だよな。それって何発弾が入ってるか分かんねえロシアンルーレットで迷わず引き金引くようなモンじゃねーか。答えは二つだが勝率が半々って訳じゃねーんだぜ」 「分かっていますよ。自分だって|恐《こわ》い。彼女の口から直接『否』と告げられたらこの心がどうなってしまうか、それは自分でも分からないぐらいですから。けどね、やっぱり———」 「やっぱり?」 「———無理ですよ。彼女が泣くと分かっていて、それでもなお彼女を奪おうと考えるだなんて。彼女が幸せにならなければ、きっと何の意味もないんですから」  チッ、と|上条《かみじよう》は心の中で舌打ちした。  何だか猛烈にこの男を応援したくなってきたが、答えはもう出てしまっている。 (だー、青春してるよなぁ)  上条はため息をついた。はっきり言ってこういう問題は専門外だし、何よりここまで|真面目《まじめ》に告げられると『演技』なんかではぐらかして良いのかという気もしてくる。  と、不意に横合いから足音が聞こえてきた。  上条がそちらを見ると、ジュースのペットボトルを二つ抱えた|美琴《みこと》が立っていた。何か|驚《おどろ》いたような顔でこちらを見ている。 「あん? どうしたんだお前————」  上条が疑問を口にする前に、美琴はズカズカとベンチに近づいてきて、|顎《あご》を動かして『立て』とジェスチャーで示した。まるで|海原《うなばら》から離れうと言わんばかりに。 「ちょっとこっち来なさい、アンタ」 「お、おい」  上条は海原の顔を見た。彼は何かショックを受けたような、それでも笑みを崩そうとしないような、そんな無理矢理な表情になっていた。  美琴は海原の顔を見て、言う。 「ごめんなさい。私、今日はこの人と外せない用事があるの」 「あ、そうですか」 「ええ、ごめんなさい。それじゃ」  美琴は笑みを浮かべてそう言ったが、彼女の事を多少でも知っている上条からすれば、逆に不自然で他人|行儀《ぎようが》な仕草だった。海原もそれに気づいているのか、食い下がろうとする気配はない。そうこうしている内に、美琴は一人で背を向けて歩いて行ってしまった。  上条はどうするべきか悩んでいると、海原が『行ってあげて下さい』と笑って言った。      9(Aug.31_AM11:20)  しばらく無言で歩いて裏路地のような所まで着くと、|美琴《みこと》はようやく立ち止まった。その後を歩いていた|上条《かみじよう》は、突然立ち止まった美琴の背中にぶつかりそうになる。  彼女は勢い良く振り返ると、心底|呆《あさ》れたように、 「ったく、アンタねえ! 私が何でアンタに演技なんか|頼《たの》んだと思ってんのよ。アンタが|海原《うなばら》と仲良くなっちゃ何の意味もないでしょうが!」 「……、」 「いい? アンタは今、私の……こ、『恋人役』なの。それは付きまとってくる海原|光貴《みつきあ》を|諦《きら》めさせるためのものなの! もう、この基本だけは忘れないでよ」 「……、」 「ちょっと、なに|黙《だま》ってんのよ」 「無理だよ」上条は、正直に言った。「だって、アイツすごく本気だった。本当にボロボロになるまで傷つくのを覚悟して、しかも傷ついた後にお前を逆恨みしないって決意までして、それでもお前が好きなんだって言えるようなヤツだぜ。|俺《おれ》は、そんな人間なんか|騙《だま》せない。騙したくない」 「なによ、それ……」  美琴は何か|驚《おどろ》いたような、びっくりしたような顔で上条の目を見た。  上条は、小刻みに|麗《ふる》える美琴の変化に気づけない。 「逆に濡うけどよ、お前は何で海原光貴を毛嫌いしてんだよ。アイツ、そんなに欠点みたいなものってあるか? ま、お前が好きでもないのに無理して付き合うってのも間違ってる気もするから別に良いんだけどさ。なんか理由とかあんのか?」 「……、」  美琴はものすごく何か言いたそうな顔で上条の事を|睨《にら》んでいた。口はぴったりと閉じられ、言葉どころか吐息さえ漏らさないように見えた。  上条も美琴も、黙る。  やがて、ポツリと彼女は言った。 「アンタは、……」 「?」 「……、そうよね。何でもないわ」  途中で打ち切るように、何かを言い直すように美琴はそう告げた。彼女は何でもないように笑っていたが、どこか寂しそうに|瞳《ひとみ》の色が揺らいでいるような、そんな気がした。      10(Aug.31_AM11:45)  裏路地には|美琴《みこと》と少年の二人しかいない。  少年の口から告げられたその言葉に、美琴は外面から見て取れる以上に揺らいでいた。彼女は自分の中心軸を揺さぶる『それ』の正体に気づいていなかった。しかしながら、無意識の内に『それ』は表に出さない方が良いという事だけは理解していた。いや、むしろ出してはいけないという強制力さえ持っていた。  逆に言えば『それ』は注意しなければ体の中から噴き出してしまうようなものだった。美琴は、外へ出ようと体内で暴れ回る蒸気のような『それ』を必死に押し|留《とど》めようとする。  不思議だった。  表に出してはいけないと思っているくせに、押さえ付ける事に苦痛を感じている。それはつまり、心の底では表に出したいと思っているのではないか。しかし、そうではないのだ。もし表に出てしまったら、と考えただけで顔が赤くなりそうになる。  肝心の『それ』の正体も分からないくせに。  美琴は訳が分からないまま、その|全《すべ》てを|喉元《のどもと》で押さえつける。  何となく、思い知った。  美琴は、少しは自分が特別な存在だと思っていた。少年との距離も、周りに比べて少しだけ縮まっているような、そんな風に思っていた。例えば千人の名前を書いた|名簿《めいぼ》があって、少年がそれを流し読みした時に『|御坂《みさか》』という名字を見つけた|瞬間《しゆんかん》、おや? と目を|留《と》めるぐらいの事はしてくれると思っていた。  けれど、そんな事はなかったのだ。  たったそれだけの事実に、美琴の心が大きく揺らぐ。どうしてそんな租度の事がそれほどのダメージになるのか理解できないのに、対処法なんて見つかるはずがない。できる事なら今すぐ走り去ってしまいたかった。その正体不明の痛みから、逃げてしまいたかった。  だけど、できない。  |何故《なぜ》だかこの少年の元からは、背を向けて立ち去りたくない。  それは、きっと痛い。  今のこの痛みよりも、絶対に。 (……あーあ、我ながら|馬鹿《ばか》だなあ私)  美琴は心の中でため息をついた。  少年はそんな美琴の事など何も気づいていないような顔で、不思議そうに言う。 「??? なに笑ってんだ、お前?」      11(Aug.31_PM00:00)  |上条《かみじよう》と|美琴《みこと》は裏路地から表通りへ歩きながら、今後の事について話し合う事にした。今後というのは、|海原《うなばら》についての事だ。 「で、結局この後どうすんだよ。まだ『演技』続けんのか。それとももうやめるのか」 「……、はあ。アンタはどうしたら良いと思う?」 「|俺《おれ》としちゃもうギブアップだな。続ける意味もない。それと海原って、お前が思ってるような人間じゃねーんじゃねえの? 断られたからって逆ギレするようなタイプにゃ見えないそ」 「それはそうなんだけど、なんか最近人が変わったみたいに積極的になってきたから怖い部分もあんのよね……にしてもアンタ、やけにアイツの肩持つわね。なんかあったの?」 「うんにゃ。宿題手伝ってもらったぐらいだよ」 『?』という顔をする美琴に、上条は古文の宿題のプリントの束を見せた。海原に教えてもらった正しい答えが書き込まれてある。  だが、それを見た美琴の顔が不審そうに|曇《くも》っていく。 「確かに……合ってる事には合ってるけど」 「けど? けどって何だよ」 「アイツ、勉強なんてできたっけ? 頭はそれほど良くない方だと思ってたのに」 「は? でも現に宿題解いてるじゃねーか」 「うーん。確かに学校の成績は首席クラスらしいんだけど……。アイツの能力って|大能力《レペル4》の|念動力《テレキネシス》でさ、これって見えない力で遠く離れたものを動かすチカラなの」 「それ、勉強の出来と関係あんのか?」 「あんのよ」美琴は腕を組む。「|白井黒子《しらいくろこ》が先走って調べちゃった事なんだけど、アイツのやってる事って結局カンニングなのよね。テスト問題を作るパソコンのモニタ表面に、ビニール膜みたいに|薄《うす》く弱い『チカラ』を|貼《は》り付けておいて、モニタが放っ光や熱が『チカラ』を押すのを確認する事で、モニタに映っている画像を逆算する———ま、一種の|盗聴器《とうちようき》みたいな仕組みなのかしらね。アイツの成績に、頭の良さは関係ないわよ?」  うえ……、と上条は絶句した。確かにモニタや通信コードが放っ磁場の細かい変化を計測する事で電気信号を逆算する特殊な機械の存在は知っている。だが、生身の人間が道具も使わずにそんな|真似《まね》をすると言われると、|流石《さすが》に上条も|驚《おどろ》いてしまう。 「ってか、何で|御坂《みさか》たんは驚かずに説明できんだ」 「御坂たんて言うな。何でって、珍しい事? 私だって|電撃《でんげき》使いだし、似たような事はできるわよ。クレジットカードの磁気テープから漏れる磁力を利用して情報を盗み見たり」  さも当然のように言われても、絶句するしかない|無能力者《レベル0》の上条|当麻《とうま》だった。      —————12(Aug.31_PM00:12)  お昼ご飯の時間だった。  ホットドッグを食べたせいか|上条《かみじよう》はあまり空腹を感じていなかったが、そういえばインデックスは|学生寮《がくせいりよう》に翫いてきぽりだった事を思い出した。台所には食パンなど、調現しなくてもそのまま食べられるもの[#「調現しなくてもそのまま食べられるもの」に傍点]も置いてあるので困らないとは思うが、インデックスの性格を考えると上条が帰ってくるまでじっと待ち続けるような気もする。 「んじゃ、これで恋人ごっこは終わりにしますか。お|駄賃《だちん》として最後になんか|奢《おご》ってあげるわよ。なに食べたい?」 「っつかまだ食うのかよ! いいよ別に腹減ってないし!」 「感謝の気持ち。だから|黙《だま》って受け取っておきなさいって。あ、ジャンボ地獄チャーハン一時間以内に完食したらタダだって。食ってく?」 「テメェ絶対嫌がらせだうそれ!」  ご飯時になると宿題に追われていた学生|達《たち》も食料を確保するために街に|溢《あふ》れてきて、それなりに活気のある風景になりつつあった。  上条は人混みの中を先行する|美琴《みこと》を見失わないように注意しながら、 「なあ。ゐ演技はここで終わりにするけど、結局|海原《うなばら》はどうするんだ?」 「私が自分で決着つけるわよ。理事長とか何とかうるさそうだけど……ま、それもひっくるめて私の問題だしね」  美琴は何か吹っ切れたようにそう言った。上条は口出ししなかった。  彼らはご飯を食べられる場所を探したのだが、あいにくどこも満席だった。最終的には安いハンバーガーでも買って外で食べようという事になる。その妥協案にしても、ファーストフード店のカウンターの前にも大勢の人で浴れていた。長時聞並ばされる事は必至だ。 「私が並んでくる。アンタは適当にくつろいでて良いわよ。注文はこっちで決めちゃうけど文句ないわよね」 「あ。? 別に|一緒《いつしよ》に並んだって良いんじゃねーの?」 「いいわよ。私が無理にここまで付き合わせてんだから。これぐらいのサービスはするわ」  言うなり、美琴は列に並んでしまった。人気のある店なのか、すぐに後続が並んであ。っという間に美琴の姿が人の山の中に消えて行ってしまう。  あの人山を無理にかき分けて美琴の元まで行くのも周りの人に迷惑をかけそうだし、上条は|諦《あきら》めて、一人店の外でポツンと待つ事にする。 (うう、真夏の直射日光を考えると、店の中で並んでるより外で待ってる方が|辛《つら》いと思うぞ。ああ、というか宿題どうしよう)  |上条《かみじよう》は光|射《さ》す|窓際《まどぎわ》に放竃されてしなびてしまった観葉植物みたいな表情で太陽を見上げる。と、そんな上条の元に見知った顔が現れた。 |海原光貴《うなばらみつき》だ。 「あれ、こちらに来ていたんですか。お一人ですか? 用というのは、もうお済みですか?」 「ん? ああ、|御坂《みさか》ならあの人山の中で|格闘《かくとう》中」上条はお店のカウンターを指差して、「話してくか? 今ならアイツも落ち着いでるから会話になると思うぜ一 「いえ。|大丈夫《だいじよつぶ》でしょうか。先ほどは随分怒っていたようでしたけど」  海原は少し困ったような顔で、そんな事を言った。      13(Aug.31_PM00:15)  ファーストフード店のカウンターは満員電車みたいに混んでいた。  |美琴《みこと》は人の波に|呑《の》み込まれながら、ぐったりして|天井《てんじよう》を仰ぎ見る。 (夏で、人混みで、この暑さ……。うー、エアコンついてこの熱気ってのは一体何なのよー) 全然進まない列の前を見て、美琴はやっぱり|他《ほか》の店にしようかと考え始めた。が、後ろを振り返ればそこにも人の壁がある。今さら、ここをかき分けて外に出るのも迷惑がかかりそうだった。 (あ、あはは。気分はすっかりアリ地獄……)  美琴が乾いた笑みを浮かべていると、ふと出人口の辺りの人混みが大きく揺らいだ。どうやら、|誰《だれ》かが無理矢理に人の山をかき分けて前へ進んでいるらしい。押し殺すような不平や文句が波のように広まっていく。  と、美琴の前の人混みが左右に割れた。  そこから転がり出てきたのは、彼女の良く知る人物だった。 「え、ちょっと。アンタ、何やって————」 「……、———げて、ください」  彼は遮るように言う。  全身は汗でびっしょりと|濡《ぬ》れ、|何故《なぜ》か右腕を|覆《おお》うように真っ白な包帯が巻きつけてある。  その少年は、目を血走らせたまま叫ぶ。      14(Aug.31_PM00:15同時刻) 「あー、古文の宿題はサンキューな」  炎天下の歩道で美琴を待つ上条は、そう言った。対して、海原光貴はこの|灼熱《しやくねつ》の道路の真ん中で、とんでもなく涼やかな笑顔を浮かべて、 「いえいえ。自分はできる事をやっただけですから」 (……できる事、ね)  |上条《かみじよう》は心の中でちょっと首を|傾《かし》げる。と、|海原《うなばら》も微妙な会話の間を感じ取ったのか。 「どうかしましたか?」 「うーん。ちょっと聞きたいんだけどさ」 「はい」 「お前って、勉強できるの?」  は? と海原は少し動きを止めていたが、 「あ、いえ。すいません、もしかして自分の答え、間違っていましたか?」 「いや、そうじゃなくて……」  まさか面と向かって『だってお前カンニングしてるんだろ?』と聞けるはずはない。上条は慌てて話題を変えようとして……ふと、その口がピタリと止まった。 『何か?』と海原はちょっとびっくりしたように言ったが、上条は答えなかった。というより、海原自体には何の問題もないのだ。上条が|凝視《ぎようし》しているのは、彼の背後である。  海原光貴の後ろ。|美琴《みこと》が並んでいるであろうファーストフード店は昼時という事もあってか大勢の人が集まっていて、近くを歩いている学生|達《たち》はさらに人山に加わっていく。  そこに。その風景の中に———海原|光貴《みつき》が、もう一人いた。  顔立ち、背格好、服装まで何もかもが『海原』と同じその男は、全身からびっしょりと汗をかき、血走った目でファーストフード店へと飛び込んでいく。  と、上条の視線にようやく気づいたのか、海原光貴はようやく後ろを振り返って、ファーストフード店の方を見た。だが、男はもう完全に人混みの中に紛れてしまっている。  上条は首をひねった。他人の空似……だろうか? それにしても随分と似ていた。|雰囲気《ふんいき》こそ少し違ったが全く同じ外見をした二人———そう、美琴と|御坂《みさか》妹のような感じだ。 「なあ。お前って兄弟とかいるのか?」 「いえ。自分の家は一人っ子ですけど。それがどうかしたんですか?」 「いや……さっきそこに、お前と良く似たヤツが店ん中に入っていったからさ」  上条がファーストフード店の方を指差すと、海原はぎよっとしたようにもう一度振り返る。 「は、はあ。自分は見ていないんで釈然としませんけど、チラッと見た程度でしょう? 髪や服が似ていたとか、そんな話ではないんですか? とにかく、自分に兄弟なんていません」  言われてみればそんな気もする。特に注意もせずにパッと見ただけのものなんて、そうそう細かく覚えていられない。と、海原はやや気味悪そうに上条と店の方を交互に眺めてから、「あの、それは本当に自分と良く似ていた人なんですか?」 「え? ま、まあ。似てたっつーか|瓜《うり》二つだった……ように見えたけど。でも他人の空似なんだろ。そんなに気にする事はねーんじゃねーの?」「その似ている人が[#「その似ている人が」に傍点]、御坂さんがいるお店の中に入って行ったんでしょう[#「御坂さんがいるお店の中に入って行ったんでしょう」に傍点]? それって結構。不気味じゃありませんか」  |海原《うなばら》は心配するような顔でファーストフード店の入口へ目を向ける。 「|肉体変化《メタモルフオーゼ》という能力者もいますよ、この街には。その名の通り、自分の顔や体を他の人のものに組み替える能力です。もっとも、遺伝子レベルでの変化は不可能らしいですけど」  ややイライラしたように言う海原を見て、|上条《かみじよう》は少し心配性過ぎるかもしれない、と考えていた。もっとも、それが好きな女の子の事ならそれぐらいで当然かもしれないが。 「ま、空似にしても何にしても、行って確かめりゃ分かるだろ。おそらく心配するだけ損だとは思うけどな、|杞憂《きゆう》ならさっさと晴らしちまおうぜ」  さっさと先へ進もうとする上条に、しかし海原は反対に一歩|退《ひ》いた。 「あ、いえ……。自分は先ほども|御坂《みさか》さんを怒らせていますし。もし自分の杞憂だというなら、それだけの事で今の御坂さんと鉢合わせになるのも、それはそれで怖いです」 「何を寂しげに笑ってんだか。別にそんだけアイツの事を心配してたってだけだろ」 「お世話とお節介は別物ですよ。すみません、もしよろしければお店の方へ行って異状がないか確かめてきてくれませんか?」 「ったく分かったよ。けどさ。別にこんな事言える義理もねーんだけど、ここまできて弱腰になる必要はねーんじゃねーの? この一週聞だって|誘《さそ》いを断られても|諦《あきら》めなかったんだろ」 「はあ。何をですか?」 「え、だから……」 「自分はこの一週間ほど部活の合宿に出かけていましたよ。何となく|避《さ》けられているのは分かっていましたし、一度熱を冷まして仕切り直した方が良いとも考えていましたし。今日は夏休みも最後の日だというので、久しぶりに御坂さんに会ってみたかったんですけど」  上条はギクリとした。|美琴《みこと》の話では『海原|光貴《みつき》』なる人物はこの一週間、毎日のように美琴に付きまとっていたらしい。しかし、本物の彼が合宿に出かけていたというのなら、その間に彼女の|側《そば》にいた人物は一体|誰《だれ》なのだろう?  海原はその事を知らない。上条はいらぬ不安を与えないようその事は伏せたまま、彼の横を通り過ぎてファーストフード店へ向かおうとする。  と、その途中でふと思い出した。そう言えば、カンニングによって高い成績を維持し続けてきた海原が宿題をサラサラと解けたのは、一体何だったのだろうか?  そんな事を考えている上条のすぐ後ろから、ふと海原光貴の声が聞こえてきた。 「まったく、上手くいかないものですね。人を|騙《だま》すって」  ドッ!! と。上条は背中の真ん中の辺りに強烈な|衝撃《しようげき》を受けた。それが|拳《こぶし》による一撃だと気づくのに数秒もかかった。まるで空気を人れたビニール袋を踏みつけるように、肺の中の空気が一気に体の外へとごっそり排出させられる。悲鳴はおろか呼吸すらもままならない。  |上条《かみじよう》が肩越しに背後を見ると、凍える目をした|海原光貴《うなばらみつき》が立っていた。  彼には訳が分からない。息が詰まり、|一瞬《いつしゆん》だが確実に思考が途切れる上条に対し、海原は対となる手を後ろへ回し、何か刃物のようなものを取り出した。  海原が刃物を突き出すのと、上条が慌てて前へ踏み出すのはほぼ同時だった。  上条は背中の腰の辺りを浅く切られた感触に寒気を感じながら、それでも無理に呼吸を整えて距離を取ろうとする。肺の空気を奪い悲鳴をあげる事を防いでからの一|撃《いちげき》。こういう人混みの中では胸より下の位置は人の壁によって死角となるため、手で口を|塞《ふさ》いで刺すよりはるかに一立ちにくい。仮にこの方法で海原が上条を殺したとしても、彼が何食わぬ顔で雑踏に紛れてしまえば|誰《だれ》にも気づかれる事はないだろう。  白滅覚悟の鉄砲玉ではなく、生きて帰る事を前提とした暗殺技。  白昼堂々、多くの人が行き交う路上での凶行。  だが、悲鳴はないし|騒《さわ》ぎも起きない。それが端的に海原の技術の高さを示している。 (まさか……)  上条は揺らぐバランス感覚の中、必死に体勢を整えようとするが、ふらつく足が止められない。ちょうど『海原』を中心に円を描くように、立ち位置が変わっていく。 (まさか、こっちが偽者だったのか[#「こっちが偽者だったのか」に傍点]……!?)  まるで彼の目の色から心の声でも読み取ったかのように『海原光貴』は口の端を|歪《ゆが》める。  チラリと見ると、『海原光貴』の手には黒い石でできた刃物のようなものがあった。石を削ったというよりは、石を砕いて作ったようなものだ。  それがあまりに武器らしくないためか、石の刃を見ても周囲の人々は騒がない。  上条は激痛で|眩《くら》む頭で必死に考えて、言葉を|紡《つむ》ぐ。 「……く、そ! 何で……こんな……!?」 「何で、ね。一応、今は大事な潜伏期間だったのですが……言った所で重要性など分からないでしょう? しかし本物が逃げ出すとはね。やはり監禁などぬるい事はしないで|徹底《てつてい》して殺すべきでしたか。ああ、ちなみに自分は彼の兄弟でも他人の空似でもありません。科学の方では|肉体変化《メタモルフオコゼ》という方法があるようですが、それ以外の方法でも似たような事はできるんです」  そうこうしている内に、『海原光貴』は黒い石の刃物を振るう。今度は切りかからずに、その刃を天にかざすと、  ゾン!! と。  上条の顔の横へ、見えない何かが通過した。  刃物の刃から飛び出した見えないレーザーのようなものが、|上条《かみじよう》の背後にある違法駐車の自動車に|直撃《ちよくげき》した。まるで焼印か何かのように、自動車のドアに複雑な印が刻まれている。ぐずり、と。刻まれた溝から見えない何かが噴き出した。まるで悪意ある視線のように、見えなくても感じ取れる何かが。その科学では説明し|難《がた》い現象は、同時に科学の外に存在する何かを象微しているようだった。  すなわち、|魔術《まじゆつ》。  一秒の空白の後、  ゴンギン! という|轟音《ごうおん》と共に、自動車のドアからガラスからシャーシからタイヤから、あらゆる部品がバラバラに分解された。|大雑把《おおざつぽ》に切断されたり引き|千切《ちぎ》られたりといった『|破壊《はかい》』とは違う。ネジ、ボルト、溶接部分など、あらゆる部品と部品の結合部分が|綺麗《きれい》に外れて『分解』されているのだ。まるで完成したプラモデルを組み立て前のパーツに戻すような。  上条はそれを見て、血の気が引いた。  この|得体《えたい》の知れない攻撃が人間に直撃した場合、どの部品がどうなるのか[#「どの部品がどうなるのか」に傍点]……何となくその答えが予測できたからだ。  人混みを、どよめいた声が波のように広まっていく。しかし、悲鳴やパニックのようなものは起きない。彼らにとっては『不思議な現象』であって、それが明確な『攻撃』であるという所まで、思考が追い着いていないらしい。 『|海原光貴《うなばらみつき》』は周りなど見ていない。  彼は続けて刃物を振るおうとする。 「!?」  上条の背中から嫌な汗が噴き出した。  海原の攻撃は確かに|恐《こわ》い。上条の右手はあらゆる異能の力を無効化させるが、見えない攻撃を事前に察知しろというのは、弾丸を目で見て|避《さ》けうというようなものだ。  |美琴《みこと》の放つビリビリも似たようなものだが、あれはあくまで『電気的な性質』に|縛《しば》られた攻繋だ。つまり右手を前へ突き出していれば、|避雷針《ひらいしん》のように白然と雷撃の|槍《やり》はそちらへ吸い寄せられるのである。  一方で、海原が放つ得体の知れない攻撃に、そんな法則は通じない。  しかし何よりも脅威なのは、その攻撃の狙いがかなり大雑把だという事だ[#「その攻撃の狙いがかなり大雑把だという事だ」に傍点]。たった五メートルも離れていない距離で、何の対策も取っていない上条を外したのだ。それでいて、威力は自動車を|一瞬《いつしゆん》で破壊し尽くすときた。 辺りにはたくさんの人がいる。彼らは目の前で白動車が分解された事に|驚《おどろ》いているが、それが何者かの攻撃によるものだとは気づいていない。そして海原は周りの被害など考えてもいない。こんな状態で魔術師が暴れれば、流れ弾が彼らを傷つける事は明白だった。 「くそ!」  |上条《かみじよう》は危険を承知で|海原《うなばら》に背を向けた。とにかく人のいない所へ向かうため、大通りから|脇道《わきみち》へと飛び込む。入り組んだ裏路地を走る。  背後からもう一つ、見えざる武器を持つ『敵』の足音がひたひたと追ってくる。      15(Aug.31_PM00:24) (ちくしょう、何がどうなってんだ!? どうして|魔術師《まじゆつし》なんかがこんなトコをうろついてんだ! 一体何が|狙《ねら》いだってんだよ!?)  上条は心の中で毒づきながら、裏路地を走る、  まず敵の使う|攻撃《こうげき》がどんなものかを知らなければならない。  上条は裏路地を走りながら携帯電話を|掴《つか》んだ。幸いにして、敵の攻繋は連射性や正確性に乏しいものらしい。それでも絶えず飛び道具に背中を狙われている状況というのは|凄《ずさ》まじいプレッシャーを与えてくる。携帯電話のボタンを操作する指が自然と|震《ふる》えるのが分かった。  コール音は、一回、二回、三回、四回、五回、六回、七回、八回、九回、 『は、はい! もしもし、こちらカミジョーですはい!』 「遅い!」  上条が意味もなく怒鳴ると、電話の向こうの少女も怒り出したようだった。『む。もしかしてとうま? 遅いってとうまも遅い! お畳ご飯はまだなの? それともこもえの家に|避難《ひなん》した方が良いの? それだけはっきりしてもらわないと困るんだよ!』 「悪いインデックス、ご飯の話はまた後で! それより聞きたい事があるんだけど!」 『また後でって、とうまはどうしてそう———』 「くそ、そっちは|大丈夫《だいじようぶ》か! 街の中に魔術師がいるみたいなんだ。狙いはまだ分かんねえけど、もしかすると目的はお前かもしれねえ! |土御門《つちみかど》のヤツは……|寮《りよう》に戻ってるかもな。おいインデックス、今から|隣《となり》の部屋を訪ねてみろ! そいつはお前の味方だから!」 『とうま。……もしかして、そっちは追われてるの?』  事情を察したのか、インデックスの声が静かなものへと変わっていく。 「ああ、ただいま絶賛逃亡中! できれば一発逆転できるヒントがあるとありがたい!」 『……、特徴は? 服装とか武器とか口調とか仕草とか』  |誰《だれ》かが化けていた事、手にある石のナイフの事など、上条は知りうる限り『海原|光貴《みつき》』の特微を伝える。インデックスは三秒ほど|黙《だま》っただけで、すぐに答えを返してきた。 『黒い石のナイフは|黒曜石《こくようせき》、かな? 鏡で星の光を反射して放たれる|槍《やり》……多分、それはトラウィスカルパンテクウトリの槍だと思う』 「とら……何だって?」 『トラウィスカルパンテクウトリの槍。元々はアステカの神様の名前だね。金星と災厄を|司《つかさど》る神様で、その槍は金星の光を浴びた者全てを殺す[#「その槍は金星の光を浴びた者全てを殺す」に傍点]と言われてるんだよ』  |上条《かみじよう》は|呆《あき》れた。どう考えても誇張された神話のお話だ。大体、その言葉通りなら、世界中の人間はとっくに絶滅しているだろう。 「金星って、あのな。インデックス、前置きは良いから今ここで何をすれば良いのか、それを手っ取り早く、————ッ?」  ゾン!! という|凄《すさ》まじい音が上条の減らず口を|黙《だぶ》らせた。  体のすぐ横を突き抜けた|謎《なぞ》の|攻撃《こうげき》が、エアコンの室外機をバラバラに分解させていく。上条は冷や汗をダラダラ流しながら路地の角を勢い良く曲がった。 『とうま! |真面目《まじめ》に聞かないと痛い目見るのはとうまなんだからね!』 「はいごめんなさいインデックスさん! もう二度と専門家サマの言う事にはケチつけません! だからお願いですからヒントをください今すぐに!」 『うん。とりあえず、その「|槍《やり》」は金星の光によって作られるものだっていう事。まずはこれだけ覚えておいて』  上条は思わず頭上を見上げた。ビルとビルに切り取られた裏路地の空に金星は……ない。だが、それは『金星がない』のではなく、『日の光が|眩《まぶ》しくて見えないだけ』のはずだ。 「でも、そんなのってアリなのか? 金星の光なんて世界中の人が浴びてるぜ。『槍』の威力がお前の言う通りなら、地球のどこにいたって|避《さ》けられないし、そもそも人類は滅亡しちまうんじゃねーのか?」 『そうだよ。だからこそ神様レベルの力なんだと思う。でもそれは|諸刃《もろは》の|剣《つるぎ》なんだよ。神様が扱うような術式を、人間が完企に操る事なんてできるはずがないもの』 荷だそりゃ?」 『簡単に言えば、人間の使う「槍」はレプリカだって事。本物の「槍」を使ったら世界中の人が死んじゃってるよ。そうだね、おそらくそのレプリカは|黒曜石《こくようせき》のナイフを「鏡」にしてるんだと思う。空から降ってくる金星の光を「鏡」で反射して、その光を浴びせる事で攻撃する。 逆に君えば、その光さえ浴びなければ攻磐を避けるのは十分に可能って訳。やろうと思えばとうまの右手でも防げると思うけど、見えないモノの軌道をどう|捉《とら》えるかが焦点かも』 「見えない光線……ようはハンドサイズのレーザー兵器に近いって訳かよ」 『れーざー?』 電話の向こうでインデックスが首を|傾《かし》げているのが分かる。  集中が途切れたせいか、逃げる上条の足が路地に|停《と》めてあった白転車を|蹴倒《けたお》してしまった。 上条はつんのめったが、かろうじて転ばずに走り続ける。  背後でゾン! という不気味な音が|響《ひび》く。  上条が振り返ると、蹴倒した自転車が、見えざる攻撃によって車輸やフレームに分解されていた。やはり|魔術師《まじゆつし》の『槍』は命中精度は高くないのかもしれない。魔術師が再び後方で刃物を振り回すのを見て、|上条《かみじよう》は慌てて路地の角を曲がった。 「ったく、それにしても街の真ん中でバカスカ|撃《う》ちやがって。ちっとは周りの事も考えろってんだ、あの|馬鹿《ばか》!」 『うーん。「設計図」たる術式さえ知られなければ、「現象」たる|魔術《まじゆつ》は|目撃《もくげき》されても問題ないしね。知識のない人間が「現象」を目撃したって、そこから「設計図」を逆算する事はできないもん』 「いやあの……そういう事が。 ーしたいんじゃねーんだけどな」  上条はため息をつきながら、さらに細い路地の角を曲がる。  事態は一刻を争うが、聞きたい事はまだあった。 「くそ。じゃあァイツが|海原《うなばら》に変装してるのも、そのアステカ魔術っ「てヤツか」 『そうだね。アステカの神官は生け|贅《にえ》の人閲の|皮膚《ひふ》を|剥《は》いで着る技術があるから、きっとそれの応用だと思う』  上条の呼吸が止まった。  それどころではないと分かっていても、注意しなければ足が止まりそうになる。 「皮膚……何だって?」 『着るの。ナイフでベリベリと剥がして。でも、単に変装ってだけならそこまでする必要はないかな。腕の皮膚を一五センチぐらい切って護符を作れば姿形を|真似《まね》る事ができるね』  上条は指先からじわじわと嫌な感触がせり上がるのを感じた。背後に迫る追撃者が一気に不気味さを増す。 「何だよそれ。皮膚を剥いだり付けたりして変装するなんて。魔術師ってのはどいつもこいつも頭がおかしんじゃないのか""」 『む。とうま、その発言は職業差別じゃ————』  聞いている暇はないので上条は携帯電話の電源を切った。  思っていたより裏路地は短く、上条はうっかり大通りへ出てしまった。そのまま急いで道の向かいの裏路地へと飛び込む。背後でゾンザン!! という見えない『|槍《やり》』が何かを『分解』する不気味な音が何度も|響《ひび》き渡る。 (建物の中に逃げ込むか? いや、建物を外壁から分解されて生き理めにされるかも! 攻撃範囲が分かんねえのが難だよな、地下街だって生き理めにされるかもしんねえしー)  上条は走りながらも、どうにか状況を理解しようとする。魔術師が狙ってくるというのは、原因はインデックス|絡《がら》みだろうか? 彼女は脳内に一〇万三〇〇〇冊もの魔道書を|記憶《きおく》している魔道書図書館で、その知識を目当てに世界中の魔術師が狙ってくる可能性は捨てきれない。  しかし、それだと理解しづらい部分もある。あの魔術師が『海原|光貴《みつき》』に化けていた理由だ。 海原は|美琴《みこと》の知り合いであって、上条やインデックスとの直接。的な|繋《つな》がりはない。上条の命を狙うためなら、もっと上条に近い位置にいる人物に化けようと思うはずだが……。  |上条《かみじよう》は路地の角を勢い良く曲がる。 「くそっ!」 そこで舌打ちした。ビルの工事中で通行止めになっていたのだ。狭い路地にシャベルやセメント袋や建築機材が占拠していて、とてもまともに通れそうにない。作りかけの屋上部分にはクレーンでも設置されているのか、巨大なァームが頭上に|覆《おお》い|被《かぶ》さっている。 それでも上条は工事現場へと走りつつ、背後を振り返った。自分が曲がってきた角から、培実に『敵』の足音が近づいてくる。もう逃げられない。 (どうする? どうする!?)  上条が周囲に一を走らせた|瞬間《しゆんかん》、曲がり角から『|海原光貴《うなばらみつき》』が飛び出してきた。上条の姿を見つけるなり、彼はその手の中にある黒い石の刃物を振り上げる。  互いの距離はわずか五メートル。  しかし上条は『海原光貴』に|殴《なぐ》りかかる事はせず、手近にあるシャベルを|掴《つか》み取った。その間にも、『海原光貴』の黒い刃物は光をかざすようにジリジリと角度が調整されていく。上条は|掌《てのひら》に汗が|滴《したた》るのを感じながら、勢い良くシャベルを振り下ろした。 『海原』へではなく、近くにあったセメントの袋へ。  ざくり、とセメント袋に突き刺さったシャベルを、さらに上条は振り回す。袋の中に入っていた灰色の粉末が辺り一面に|撒《ま》き散らされた。 『海原』の視界が、周囲が、天上が———|全《すべ》てが灰色一色に塗り|潰《つぶ》される。  彼は構わず刃物を振るうが、そこで気づいたのだろう。 『|槍《やり》』が発動しない事に。 『金星』と『鏡』を|繋《つな》ぐ空間そのものをセメントの粉末で遮られたのだ。これでは『金星の光』を利用した『槍』を放つ事ができない。  ブォン! と『海原光貴』の顔のすぐ横を何か重たい物が通り抜けた。  シャベルか、と彼が身構えた|瞬間《しゆんかん》、 「おオァ" 」  灰色のカーテンを突き破るように、真正面から上条の|拳《こぶし》が|襲《おそ》いかかってきた。『海原』は反射的に身を|屈《かが》めてこれを|避《さ》ける。理屈も何もない、ただの勘だ。『海原』は冷や汗を流しつつ、ただの鈍器となった|黒曜石《こくようせき》のナイフで上条の顔を横から殴りつける。だが、不安定な体勢だったのでさしたる力も入っていない。身を屈めた状態の『海原』の腹へ、うなりを上げる上条の脚の|爪先《つまさき》が勢い良く突き刺さる。 『海原』は後ろへ飛ぶようにして、できる限りダメージを軽減させる。  このセメントのカーテンの中では不利と知ったか、彼は逃げに入る。  さらに二歩、三歩と後ろへ下がる『海原』の何倍も速く、上条は一気に距離を詰める。人間の足は後ろ向きより前向きの方が速く走れるように作られているのだから無理もない。さらに握った|拳《こぶし》を放とうとする|上条《かみじよう》に、『|海原《うなばら》』はとっさに|黒曜石《こくようせき》のナイフを構え、  ビュウ、と。  その|瞬間《しゆんかん》、何の前触れもなく突風が裏路地を吹き抜けた。  周囲を|覆《おお》い尽くしていた灰色のカーテンがまとめて取り払われる。ビルに切り取られた背空が再び顔を出す。『金星の光』が、その恩恵が、じかに『海原』の元へと降り注ぐ。  海原は刃物を振り上げ、角度を定める。  そのすぐ眼前で、上条が|驚《おどろ》いたような顔をする。 「ハッ。覚悟してください!!」  角度が決定する。金星と鏡と標的を接続する。|魔力《まりよノヒ》を注ぎ|呪《じゆ》を|紡《つむ》ぎ、星の光。を見えざる|槍《やり》に|変貌《へんぽう》させて一直線に『敵』を貫き通す!!  金星と災厄の象徴・トラウィスカルパンテクウトリの槍。 上条は、  その右手を前へ突き出したが、見えない|攻撃《こうげき》を|捉《とら》え切れず、  右手の加護の|隙間《すきま》をすり抜けるように、その一撃は|真《ま》っ|直《す》ぐ心臓を貫くように設定され、  ——しかし、何の変化もない。 「な……?」 『海原|光貴《みつき》』は思わず声を出した。強力な『槍』を放つにはいくつかの条件が必要なのだが、この一撃はその|全《すべ》てを満たしていたはずだ。|故《ゆえ》に、不発の可能性はない。放たれた『槍』は上条の心臓を真っ直ぐ貫き、肉屋の牛の解体のように|綺麗《きれい》に分解されるはずなのに。 『海原』はまるで電池の切れた|懐中《かいちゆう》電灯を見るように、己の手にある黒曜石の刃物を見る。  そこで、|驚愕《りようがく》した。  手の中にある黒曜石の刃物の表面に、ざらついた灰色の粉末がこびりついていた。チョークの粉がびっしりとついた黒板消しのように、元の色が分からなくなってしまっている。  黒曜石のナイフの役割は『鏡』———降り注ぐ金星の光を反射・調節するためのもの。  その『鏡』が|曇《くも》ってしまっては、金星の光を標的に接続する事ができない。  ザン! という上条の足音。  上条はすでに『海原光貴』の|懐《ふところ》へと深く飛び込んでいる。 「!?」  おそらく、『海原』は黒曜石のナイフを捨てて瞬時に戦略を組み立て置せばまだ勝算はあっただろう。だが、『海原』はつい黒曜石のナイフの汚れを拭き取ろうと考えてしまった。当たり前だ、勝敗が五分五分の素手と確実に必殺できる|魔術《まじゆつ》なら、|誰《だれ》でも後者を選ぶ。『ほんの少し』|拭《ぬぐ》えば汚れは取れるのだから、という|誘惑《ゆうわく》に負けてしまった。  結果、|懐《ふところ》に踏み込まれた|上条《かみじよう》への対応が遅れた。  ゴン!! と、鈍い音が|炸裂《さくれつ》して。|殴《なぐ》り飛ばされた『|海原光貴《うなばらみつき》』の手から、彼が最後まで執着し続けた|黒曜石《こくようせき》のナイフがすっぽ抜けた。      16(Aug.31_PM00:36)  上条は路上に倒れ込んだ『海原光貴』を見下ろした。  ガラスの砕けるような音と共に、殴られた『海原』の顔の表面が粉々に砕け散った。その下にある|魔術師《まじゆつし》の顔は、海原よりも幼く見えた。肌の色も海原に比べて浅黒い。まるで日焼け|痕《あと》を乱暴に|剥《は》がしたように、海原の|皮膚《ひふ》の破片が少し残っているのが不気味だった。 「さあって、答えてもらうぜ」上条は肩で荒い息を吐きながら、「どうして『海原光貴』なんかに化けようと考えた?」 「ハッ、あなたは一から一〇まで説明しなければ理解ができないんですか?」 「できるかよ! 『海原』は|俺《おれ》を|襲《おそ》う上で何の役にも立たねえだろ。なのにどうして『海原光貴』を|狙《ねら》った! |御坂《みさか》に近づくためか? テメェは俺の知り合いってだけの理由でアイツまで狙細うとしたのかよ!?」 「……、」 「答えろ、お前は『海原』の皮膚を剥いで変装してるんだってな。、テメェは御坂にも同じ事をするつもりだったのか? 御坂は魔術世界とは関係ねえだろうが、何でテメェみてえな魔術師が|絡《から》んでくるんだよ!!」  |激昂《げつこう》する上条に対し、海原は静かに言葉を|紡《つむ》ぐ。  平淡に、感情なく、ドロドロと口から|溢《あふ》れるように。 、本当はね、海原は殺しておくはずだったんですよ」  氷のように冷たいのではなく、濾るま湯のように感情の起伏がない声で。 「どうにも死の直前に彼の力———|念動力《テレキネシス》ですか、アレを使って海原は自分の体の動きを分子レベルでガチガチに固めてしまいましてね、仮死状態というかコールドスリープのようになってしまったんですよ。心臓を刺そうにも冷凍肉に刃を立ててるようにビクともしないし『|槍《やり》』でも分解できない。仕方がないから手足を|縛《しば》って部屋に転がしていたら……」  どうやらこの魔術師は学園都市についてあれこれ調べているらしく、テレキネシスやコールドスリープという科学側の単語がいくつも飛び出してきた。  だが、上条はそれよりも平淡すぎる海原の声に絶句した。まるで古くなって伸びたカセットテープを無理矢理に再生しているような、そんな感じなのだ。  海原はそんな彼の顔を見ると、わずかに満足したようだった。声に感情が戻る。 「ここに来た目的、ですって? この場において最初に出る質問がまさかそんなものだとは」 |海原《うなばら》は、心の底から|嘲《あざけ》るように、「あなたは、本当に理解していないんですね。自分がどれだけ危険な事をしてしまったのかを」 「なんだと?」 「あなたはただでさえ『|禁書目録《インデツクス》』を———一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を占有している。その上、イギリス清教の魔術師や|常盤台《ときわだい》の|超能力者《レベル5》、吸血鬼に対する切り札など、多種多様な人材を仲間として引き人れているらしいじゃないですか」  魔術師は、|自嘲《じちよう》するように告げた、 「魔術世界と科学世界は本来、|相容《あいい》れないはずのもの。なのに、あなたはその両方の組織に精通してしまっています。もはや『|上条《かみじよう》勢力』という一つの団体ができつつあると言一っても良い。 自分のいるような『組織』ではね、そういった新しい勢力が世界のパワーバランスを崩してしまう事を極端に恐れているんです」  組織。  それは学園都市か、教会世界か、魔術結社か、どこぞの経済大国か。 「だから自分はここへ送り込まれた、と言っても、最初から『海原|光貴《みつき》』となって|誰《だれ》かに危害を加えようという訳じゃない。ここへやってきたのは一月前の事だし、人れ替わったのはほんの一週間前の事ですよ。最初はただの監視だった。あなた方『上条勢力』がパワーバランスに|影響《えいきよう》ない存在だと分かれば、問題ナシと報告するだけで済む話だったんです」  魔術師は歯を食いしばった。  その|眼《め》は、上条の顔面を|射貫《いぬ》くように彼を|睨《にら》み付けている。 「けれど、あなたは危険すぎたんですよ! こちらに入る断片的な情報から推測するに、あなたはこの夏休みだけでいくつかの『組織』を|壊滅《かいめつ》してしまったらしいじゃないですか! その上、あなたの『力』は金や圧力などで操作・制御・交渉できるような|類《たぐい》のものではない。全部あなた一人の感情による独断独裁独善だ! こんな不安定で巨大な力を、『上』の連中が危険視しないと思いますか!?」 「ちょっと、待て。じゃあお前は……」 「ええ。自分の標的は『上条|当麻《とうま》』個人ではなく『上条勢力』全員です。あなた一人が死んだ所で、もはやこの『勢力』の仲の|繋《つな》がりは消えませんからね」  知り合いに『化ける』理由はそこにあるのだろう。  上条の良く知る人間の『顔』で、できる限りの悪さをして、信用をなくす。そして用済みになったら、別の知り合いの『顔』へ人れ替わり、同じ事を繰り返す。そうやって『勢力』を内側からじわじわと腐敗させていく。  その途中で『|偽者《にせもの》』の存在が浮かび上がっても問題ない。今度は『誰が偽者か分からない』という疑心暗鬼によって仲間の輪を引き裂く事ができるのだから。  内部腐敗。  それは古くより数多くの王朝を破滅に導いた工作手段だ。一見して|堅牢《けんろう》なはずの|制度《ルール》があっという間に腐敗したり、聡明な王がある日突然暴君へと|変貌《へんぼう》した裏には、見えざる密偵|達《たち》の|活躍《かつやく》がある。そのあまりに鮮やかで残酷な手並みから、国によっては|狐《きつね》や|悪魔《あくま》など、迷信じみた例えで表現されるほどである。 「できうる限りあなたは最後に回したかったのですが、致し方ありません。『|海原光貴《うなばらみつき》』はもう素性が割れてしまいました。今度はあなたの『顔』をいただくとしましょうか、ね!」  言って、魔術師は地面に落ちていた|黒曜石《こくようせき》の刃物へ飛びついた。その『鏡面』についた汚れを|拭《ぬぐ》うと、路地に倒れ込んだまま身をひねるように『|槍《やり》』が振るわれる。  しかし、無理な体勢で放たれたせいか、『槍』は|上条《かみじよう》とは見当違いの方向へ飛んだらしい。 魔術師は舌打ちしながら立ち上がり、さらに黒曜石のナイフを構えようとする。  その前に、上条が魔術師の|懐《ふところ》へと飛び込んだ。 「チィッ!!」  魔術師は『槍』を放とうとするが、上条が|拳《こぶし》を打つ方が速かった。上条の右手が黒曜石のナイフを打ち抜く。|幻想殺《イマジンブレイカヒ》しの効果か、ガラスの砕けるような音と共に、黒曜石のナイフが粉々に砕け散る。 「悠長に待つと思うな、この|馬《ば》、|鹿《か》————ッ!」  言いかけて、上条の声が遮られた。  ガンゴン! という金属を打つような|轟音《ごうおん》が、上条の頭上から鳴り|響《ひび》いた。思わず頭上を見上げると、建設途中のビルの鉄骨が崩れる所だった。  |狙《ねら》いの外れた『槍』が、すぐ|隣《となり》のビルに|直撃《ちよくげ 》したのだ。  そのビルはコンクリートで塗り固める前の段階で、鉄骨を組んで作った巨大なジャングルジムのようなものだった。そして『槍』は、物体の構成をバラバラに分解する。ネジやボルトの外れた太い鉄骨が、今まさに上条達の頭上へ降り注こうとしていた。 「!?」  上条と魔術師は、亙いに距離を取るように後ろへ飛んだ。その中間地点に、重さ数百キロもある鉄骨が聖剣のように突き立つ。  間もなく建設中のビルそのものが|雪崩《なだれ》のように崩れ出す。常識的に考えれば逃げ出すべきだ。 だが、この機を逃せば魔術師を取り逃がす事になる。それはつまり、再びこの魔術師が|誰《だれ》かと人れ替わり、上条の身の周りの人に危害が加わる事を意味していた。  上条と魔術師の目が合った。  魔術師は上条の目を見て、ニヤニヤと笑っている。 (ちくしょう! 本格的についてねーな|俺《おれ》の人生!)  上条は心の中で毒づきながら、同じく逃げる気配を見せない魔術師を|睨《にら》みつける。 「月並みな|台詞《せりふ》で何なんだけどさ……お前とは友達になれると思ってたんだぜ」  逃げ惑うビル工事の作業員の怒号が|響《ひび》く。作業員の叫び声は地上からだけなので、ビルの上で作業している人間はいないのだろう。この分なら逃げ遅れる者はいないと思う。 「自分は、たったの一度もそんな事を思った試しはありませんでしたよ」  返事は即答。|魔術師《まじゆつし》のすぐ横に鉄骨が突き刺さったが、顔色一つ変わらない。 「残念だよ、いやマジで」|上条《かみじよう》はため息をついて、「お前が|御坂《みさか》について語ってた時のアレも、やっぱただのニセモノだったって事なんだろ、いや、ここだけはマジで残念だ。———お前を本気でぶん|殴《なぐ》らなくちゃならない理山ができちまったからな」  その言葉に、空気が静止する。  |闇《やみ》より冷たい|沈黙《ちんもく》だけが、場を支配する。 「……、   ですか」  魔術師は、目の中で何かを|呟《つぶや》いた。  上条が|眉《よゆ》をひそめる前に、彼はもう一度言う。 「ニセモノじゃ、ダメなんですか」|噛《か》み締めるように、「ニセモノは、平和を望んじゃいけないんですか。ニセモノには、御坂さんを守りたいと思う事さえ許されないんですか」 「あ……?」  ギシギシと不気味に|軋《きし》むビルの事も忘れて、上条は魔術師の顔を見た。 「ええそうですよ、自分だってこんな|真似《まね》はしたくなかった」  間もなく始まる|崩壊《ほうかい》も気にせず、魔術師は言う。 「『|海原《うなばら》』だってね、傷つけたくはなかったんです。だって、それが一番幸せじゃないですか。 |誰《だれ》も傷つかない方が良いに決まっているじゃないですか。自分は、この街が好きだったんです。 一月前、ここに来た時からずっと。。たとえここの住人になれなくたって、御坂さんの住んでいるこの世界が、大好きでした」  でもね、と魔術師は続ける。 「やるしかなかったんですよ。結果が出てしまったから。上条勢力は危険だと『上』が判断してしまったから。ねえ、分かりますか? 自分がどんな気持ちで『海原』と人れ林わったのか。 自分がどんな|想《おも》いで、御坂さんのいるこの世界に傷をつけたか」  魔術師は、|歪《ゆが》んだ顔に激情の表情を乗せて、 「分かるはずがない! あなたが全部|壊《こわ》したんだ! あなたがもっと|隠便《おんびん》でいてくれたら、問題ナシって報告させてくれたら、それで静かに引き下がれたのに! 自分は海原を|襲《おそ》う事も御坂さんを|騙《だま》す事もしなくて済んだのに! 確かに、今の自分はあなた|達《たち》の『敵』です。でもそうなってしまったのは誰のせいだ!?」  魔術師の全身から、見えざる殺意が吹き荒れる、  その怒りに呼応するかのように、ビルの最上部が、バガン! と崩れ始めた。  上条は、魔術師の目を見た。  崩れ始めたビルなど目も向けずに、言った。 「お前、本当に|御坂《みさか》の事が好きなのか?」  スパイのくせに、利用しようとしたくせに。  ええ、と答えは返ってきた。 ビルの最上部が無数の鉄骨に姿を変え、バラバラと降り注いでくる。 「お前、御坂のいるこの世界を守りたかったのか?」  スパイだからこそ、利用しようとしてでも。  ええ、と答えは返ってきた。  無数の鉄骨はビルの下部へと|直撃《ちよくげき》し、さらに様々な部分が分解していく。 「でも、もう守れませんよ。自分はあなた|達《たち》の敵になってしまいました。なりたくなかったのに、なるしかなかった。|他《ほか》にどうしろっていうんですか。他に何ができるっていうんですか。 映画のヒーローよろしく組織単位の人数相手に一人で戦って死ねとでもいうんですか。無理ですよ、自分はあなたじゃないんですから。あ。なたのようなヒーローにはなれないんだから」  |魔術師《まじゆつし》は、不思議と淡く弱く笑っているような顔でそう言った。  ああ、と|上条当麻《かみじようとうま》は理解する。  これが魔術師の本音。『敵』になりたくなかったのに『敵』にならざるを得なくなってしまった男の本音。世界で一番守りたかったものに手をかけなくてはならなくなってしまったために、心の|全《すべ》てが|歪《ゆが》んでしまった男の言葉。  |土御門元春《つちみかどもとはる》、という男がいる。  彼が自らをスパイと名乗った時は、随分と身軽な立場だなと思った上条だったが、とんでもなかった。土御門は命令違反という壮絶なリスクと引き換えに自由を手に人れていただけだったのだ。  そして、目の前の魔術師にはそんなリスクを背負えなかった。  その弱さを白覚しているからこそ、彼は許せないのだろう。自分の夢を引き裂いた上条と、それ以上に自分の夢も守れなかった自分自身が。  それが、この魔術師の本音。  この男は、己の胸の中にある歪んだ言葉を全て吐き出して、全力で立ち|塞《ふさ》がった。  ならば自分も全力で戦おう、と上条は思った。  何不自由なく生活を送り、何者にも行動を制限されず、そして常に自分の守りたいものの味方であり続けた、上条の本音。それは魔術師にとって、これ以上ないぐらい苦しいものだろう。 目を背けたいほどの|眩《まばゆ》い光に違いないだろう。 「ハッ。ここから先はアイツに手をかける以外の未来はないってか」  それでも、上条は全力で戦うと決めた。  ここまで本音をさらした人間を受け流す事など、できるはずがなかった。 「だったら仕方がねえ。殺してやるよ、お前のその幻想を」  ビルの最上部が崩れた事により、巨人の手で上から押し|潰《つぶ》すようにビルが|圧壊《あつかい》した。  次々と雨のように降り注ぐ鉄骨に、しかし|上条《かみじよう》も|魔術師《まじゆつし》も頭上など見上げない。後ろへ逃げ出したりもしない。ただその|拳《こぶし》を握り、お互いの距離を最短でゼロに縮めるべくただ前へと駆け抜ける! 「が、ァあああ!!」  上条の拳が魔術師の顔面を|捉《とら》えた。魔術師は最初から|避《さ》ける気もなかったのか、構わず両手で上条の胸倉を|掴《つか》む。そのまま腕を振り回し、上条の背中を路地の壁へと激突させた。鈍い音が|炸裂《さくれつ》し、上条の肺の中から強引に息が吐き出される。  魔術師は上。条を壁に押し付けたまま、両手で首を締めた。気管に親指が食い込む不気味な感触に寒気を感じながら、上条は魔術師の腹を|蹴飛《けと》ばす。元々、|得体《えたい》の知れない術式に|頼《たよ》りきりで体を|鍛《きた》えていないのか、魔術師の体は|一撃《いちげき》でくの字に曲がる。  上条は自分の首を締める男の手も気にせず、まるでお|辞儀《じぎ》しているような敵の背中へ思い切り拳を振り下ろした。魔術師の足から力が抜ける。さらにもう一度拳を振り下ろすと、首にかかっていた手が離れた。  ゴン!! という|轟音《ごうおん》と共に、上条のすぐ近くに鉄骨が突き刺さった。さらに間の悪い事に、突き刺さった鉄骨の上に別の鉄骨が激突する。耳元で教会の|鐘《かね》を打ち鳴らされたような、|衝撃波《しようげきは》じみた|大音響《だいおんきよう》が上条の鼓膜を貫いた。 「く、ぅ……!?」  思わず、ぐらりとよろめいた上条へ、 「ああああああああああああああああああああああ!!」  同じくふらついた魔術師が、思い切り体当たりしてきた。仰向けに倒された上条は、しかし轟音に脳を揺さぶられたせいで上手く体を動かせなかった。一方、魔術師は酔っ払いのようなカばつかない動きで、しかし確実に上条の上へ馬乗りになろうとする。  上条は自分の上に|覆《おお》い|被《かぶ》さろうとする魔術師から何とか逃れようとして、 「あ」  見た。  大量の鉄骨が空から降ってくる光景を。その内の一本が、確実に魔術師と上条を|串《くしざ》刺しにするルートを通っている事を。距離にして熔よそ二〇メートル弱。時間にして数秒あるか。魔術師は足元の上条を|睨《にら》みつけているため、頭上の鉄骨に気づいていない。 「|避《さ》けろ、この|馬鹿《ばか》!!」  上条は馬乗りになろうとしていた魔術師の腹を蹴り上げ、その|頬《ほお》に平手打ちを|叩《たた》き付けた。 |魔術師《よじゆつし》の体は|上条《かみじよう》の左側に転がる。仰向けになって……そしてようやく事態に気づいたらしい。  その時、上条は魔術師と目が合った。  彼は降り注ぐ鉄骨の雨に、しかし|避《さ》けようともしないで、笑っていた。|薄《うす》く、寂しく、笑っていた。この戦いに勝利して、何になるのか。それを知ってしまったように。  上条に、こんな魔術師を助けなければならない義勝などない。  敵を見捨てた所で、|誰《だれ》も|蔑《さげす》まないだろう。 だけど、 『ニセモノは、平和を望んじゃいけないんですか』 それでも、 『ニセモノには、|御坂《みさか》さんを守りたいと思う事さえ許されないんですか』  上条は歯を食いしばって、 (ああ。もう! っつーかさあ、こんなの。反則じゃねーかよ!!)  倒れている魔術師の腕を|掴《つか》もうとした。魔術師が|驚《おどろ》いた顔をしている事に気づいて上条は余計に|苛立《いらだ》つ、間に合わない事ぐらい分かっている、と上条は奥歯を食いしばって  ———大量の鉄骨が降り注ぎ、地面が|震動《しんどう》した。      17(Aug.31_PM00:47)  大量の砂煙が舞い上がり、|全《すべ》ての視界を奪う。  周囲の人々は|騒《さわ》ぎを聞きつけたが、|野次馬《やじうま》のように集まっては来ない。野次馬とは、安全地帯から危険を|覗《のぞ》き見する人|達《たち》の事だ。どこが安全で何が危険かも分かっていない状況ではおち細ち近づいてくる事もできないのだろう。 「……、はは」  そんな騒ぎの爆心地で、上条は力なく笑った。  ぺたんと|尻餅《しりもち》をついた上条の両足の間に鉄骨が突き刺さっていた。それだけではない。辺り一面に鉄骨が突き刺さり、|覆《おお》い|被《かぶ》さり、|隙間《すきま》だらけの屋根がついた出来の悪い小屋のようになっていた。それは絶妙なバランスで成り立っていて、ちょっと風が吹いただけで崩れてしまいそうだが、とりあえず上条は生き坦めにされずに助かっていた。 (運が良かった……って事はねーよな。何せ|俺《おれ》って不幸な人間だし。となると……そうだよな。あの|超能力者《レベル5》、電気の力を応用すりゃ磁力だって操れるはずだしな)  そう、運が良いとかそんな次元ではない。あの時、鉄骨は間違いなく上条の体を貫く軌道を通っていた。何かの力が働いて、鉄骨が|直撃《ちよくげき》寸前に軌道を|歪《ゆが》めたと考えるのが妥当だ。  |上条《かみじよう》は今にも崩れそうな鉄。骨の屋根に|怯《おび》えながら、辺りを見回した。屋根を支える鉄骨の柱と柱の|隙間《すきよ》から、|魔術師《まじゆつし》の姿が見えた。  彼は倒れた鉄骨と鉄骨の隙間に片手を挟まれているようだった。と言っても、鉄骨に押し潰されているのではなく、元から空いている隙間に手を突っ込んだような感じだ。超重最級の|手錠《てじよう》をはめているような状態に近い。  魔術師は自分が生き残っている事がそんなに不思議なのか、しばらく|呆然《ぽうぜん》としていた。  やがて、彼は言う。 「自分は、負けたんですか」 「さあね。別に|俺《おれ》の手で起こした事じゃねーからな、これ」  上条は頭を|掻《か》いてそう言ったが、魔術師は首を横に振った。理由はどうあれ、今の魔術師は身動きが取れない。この状態で|戦闘《せんとう》を続けても逆転はできない。 「負けました、か」魔術師は、小さく笑って、「なら、自分はここで止まれたって事ですかね。 |御坂《みさか》さんも、その他の|誰《だれ》も、殺さずに済んだって、そういう事なんですか、ね」 「……、」  上条は答えずに、魔術師の顔を見た。  思えば、この魔術師はずっと迷っていたと思う。もちろん本人は本気で上条を殺そうとしていただろうけど、それでもさんざん悩んで、気づかない内に実力にセーブをかけていたのではないか。|何故《なぜ》なら、この戦闘に勝ったら自分の手で|美琴《みこと》を殺す事が確定するのだから。  |初撃《しよげき》から『|槍《やり》』を使われていれば上条は|避《さ》ける間もなく死んでいたと思うし、直線的な裏路地の中を逃げている最中も、考えてみれば上条の背中を|撃《ロつ》つチャンスは何度かあったような気がする。  この魔術師は御坂美琴を傷つけたくなかった。  御坂美琴のいるこの世界を|壊《こわ》したくなかった。  けれど、彼のわがままは簡単には|叶《かな》えられない。それをやれば彼自身の命が危ぶまれる。だからこそ、大義名分が欲しかったのだ。『全力を尽くしたけど|邪魔《じヰま》が入って失敗した』という、大義名分が。  上条は|素人《しろうと》だが、敵勢力はそもそも『素人の上条を中心とした集団』を本気で危険視している連中なのだ。いわば上条は敵の親玉、ハッタリを決める相手としては申し分ない。 「きっとね」魔術師は言う。「攻撃は、今回限りでは終わりません。自分みたいな下っ|端《ぽ》が 回失敗した程度で『上』が退くとも思えない。むしろ、余計に危険視する可能性すらあります。 あなたや御坂さんの元には自分以外の者が向かうと思いますし、最悪、自分にもう一度命令が下るかもしれません」  上条は|黙《だま》って彼の言葉を聞いていた。 「守ってもらえますか、彼女を」  彼は問う。 「いつでも、どこでも、|誰《だれ》からも、何度でも。このような事になるたびに、まるで都合の良いヒーローのように駆けつけて彼女を守ってくれると、約束してくれますか」  それが、彼が願いつつも決して|叶《かな》えられない望み。  本当は自分がやりたかった夢を、他の何者かに明け渡すという重み。  そうして。  |上条《かみじよう》は一言だけ告げると。  首を縦に振った。  まったく最低な返事だ、と|魔術師《まじゆつし》は倒れたまま苦笑して、|呟《つぶや》いた。      18(Aug.31_PM00:57)  |御坂美琴《みさかみこと》はハンバーガーの入った紙袋を胸に抱えながら、路地の曲がり角の壁に背を預けて彼らの会話を聞いていた。  と言っても、美琴は最初から最後まで|全《すべ》ての話を聞いていた訳ではない。|海原光貴《うなばらみつき》は二人もいるし、その内の一人が上条とケンカを始めるし、慌てて追いかけてみればケンカしていた海原の顔が特殊メイクみたいに|壊《こわ》れて、中から別人の顔が出てきたり、挙げ句は建設中のビルが 突然崩れたりと、訳の分からない事が立て続けに起きたのだ。また、距離が離れているので、彼らの会話は断片的にしか聞き取れない。むしろいきなり降ってきた鉄骨の軌道を曲げる難題を突きつけられた直後で、この場で一番冷静でいられないのは彼女かもしれない。  それでも、何となく分かった。  彼らが|殴《なぐ》り合う理由が何だったのか、それが分かってしまった。 |誰《だれ》を巡って。 誰のために。  |美琴《みこと》はブンブンブンブン! と勢い良く首を横に振る。 (かっ、勘違いよ勘違い! こんなの勘違いに決まってんじゃない! アイツは無自覚でああいう事を言うヤツなのよ、別に私が特別だって訳じゃないんだから!)  それでも、否定のために振る首の動きは止まってしまう。  分かっているのに、止まってしまう。 (うう……)  美琴は背中を預けた路地の壁にコツンと自分の後頭部を押し当てた。顔が赤くなるのが鏡を見なくても分かる。本当に最低だ、と美琴は思う。こんな状況で、あんな|台詞《せりふ》を聞いて、今さらどんな顔をして出て行けば良いというんだろうか。  特に最後の台詞。|上条《かみじよう》の言葉。 (……まったく、勘違いだって分かってんだけど。紛らわしいのよ、あの|馬鹿《ばか》)  美琴はため息をついた。赤くなった顔が元に戻るまで、どれぐらい時間がかかるのか予想もできなかった。 [#地付き]Aug.31_PM01:04終了 [#改ページ]    第三章 とある御坂の最終信号 Tender_orSugary.      1(Aug.31_PM05:20)  |一方通行《アクセラレータ》がやってきた研究所の敷地は広大なものだった。 貸し倉庫のような巨大な建物が三つも並んでいる。『実験』のために二万人もの|妹達《シスターズ》を用意するために建てられた培養施設だ。あの中には図書館の本棚に詰め込まれる本のように金属ラックに収まった円筒形のカプセルが所狭しと並んで、それが|天井《てんじよう》近くまで積み上げられているはずだ。  研究所と呼ばれる建物は、その三つの巨大施設の横にある。  二階建ての四角い鉄筋コンクリートの建物は、三つの培養施設に比べると極端に小さく見える。どちらがメインか分からないぐらいだ。  |一方通行《アクセラレータ》は研究所のドアの前に立った。  ドアには網膜を調べるためのスキャナがあったが、彼は無視した。自分のIDがまだ生きているとも思えない。|一方通行《アクセラレータ》はドア板を軽くノックする。その『|衝撃《しようげき》』をロック部分に集中させ、金具だけを正確に|破壊《はかい》する。  ぎぃ……、と古い洋館のようにドアが開く。  中にあるのは、研究所というより計算室といった感じの内装だった。四方の壁を埋める業務用冷蔵庫のようなものは最新式の量子コンピュータと言われていたが、どう考えても型遅れの実験品を流用しているようにしか見えない。少なくともこれが『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の代わりになるとは思えなかった。窓のない部屋の中を無数のモニタが不気味に照らし出していて、大量のデータ用紙は床が見えなくなるほど機械から吐き出され、冷却用のファンの音だけが重く低く室内を満たしている。  一見、研究所らしくないと思われる部屋だが、それも時と場合による。人工生命による進化論の実験、飛行機の空気抵抗の予想モデル作製など、シミュレート主動の研究室ならこういう風景も珍しくない。  。研究室の真ん中に、一人の女がポツンと|佇《たたず》んでいた。 『実験』当時は二〇人以上の研究員が|寿司詰《すしづ》めのようになって働いていたのだが、現在では見る影もない。その女も自覚があるのか、|椅子《いす》ではなくテーブルの上に座って蛇のように吐き出されるデータ用紙を手に取って赤ペンで何かをチェックしていた。所内のマナーも何もない。 「うん? あら、おかえりなさい|一方通行《アクセラレータ》。ドアは|壊《こわ》さずともキミのIDはまだ九〇日ほど有 効だから安心なさいね」  部屋に入ってきた|一方通行《アクセラレータ》に気づいたというよりは、集中が途切れてふとデータ用紙から顔を上げたら|一方通行《アクセラレータ》が立っていた、という感じでその女は言う。 |芳川桔梗《よしかわきさよう》、  二〇代も後半だというのにその顔には化粧らしきものが何一つなく、服装も色の抜けた古いジーンズに何度も|洗濯《せんたく》を繰り返して|擦《す》り切れたTシャツ、その上から羽織っている白衣だけが、新品のカッターシャツのように輝いている。  |一方通行《アクセラレータ》は芳川の持っている長い長いデータ用紙を眺め、その先を追った。床一面を塊め尽くすように大量の紙資源がのたくっている。  現在、『実験』は凍結されている。。『実験』の計画はスーパーコンピュータ『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』のシミュレートによって紺み立てられたものだが、その演算結果に狂いがある茄が判明したからだ。  しかし、あくまで『実験』は凍結であって中止ではない、ようは演算結果の『狂い』を見っけ出し、その部分を修正できればいつでも翼験』を再開させる甑ができる。  だが、|方通行《アクセラレータ》はそれが可能とは思っていなかった。『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』は特に複雑な演算をしている訳ではない。だが、その日爪がとにかく|膨大《ぼうだい》なのだ。人間なら『一×一〇口一〇』と計算する所を、マシンパワーに任せて『一+一+一+一+一+一+一+一+一+一=一〇』と演算してしまっている。機械的な方法ならそちらの方が楽なのだろうが、確認する方はたまったものではない。その大量のコードに目を通すだけでも何+年かかるだろうか。 「ったく、ご苦労なヤツ。ンなにデータ眺めてンのが楽しいかァ?」 「楽しくないわね。可能ならキミの手も貸して欲しいぐらいだわ。キミの演算と処埋のスキルもそこそこ見られたものだしね」 「俺がシナリオの裏まで読ンじまって問題ねェのか?」 『実験』の概要は、割り当てられた二万通りの|戦闘《せんとう》をシナリオ通りに消化する事で果たされる。 戦闘によって伸びる能力者のスキルの、その成長方向を操る事で、|一方通行《アクセラレータ》を|超能力者《レベル5》から|絶対能力《レペル6》へと進化させるというのが最終的な目的となる。  つまり、彼が余計な情報を知ってしまうと、定められた『シナリオ』通りに動けなくなる可能性が出てくる。よって、|一方通行《アクセラレータ》は『実験』データには必要以上に触れないよう注意されていたはずだが……。  ところが、|芳川桔梗《よしかわききよう》はデータ用紙からもう一度顔を上げると、 「今調べているのは『|樹形図の設計者《ツリーダイアグラム》』の演算データとは違うから安心なさい」 「あァ? っつか、あの山みてエなデータを後回しにするなンざ余裕だなァおい。それとももオ断念しちまったのかァ?」 「あれが解析された|頃《ころ》にはキミは寿命を迎えているとわたしは思うけれど。それとキミの質問に答えるなら、イエスよ。少なくともわたしにとっては、こちらのデータの方が『実験』よりも比重は重たいもの」  芳川は割と余裕のない声で言っていたが、|一方通行《アクセラレータ》の知った事ではなかった。彼にとって今必要なのは、未調整の|打ち止め《ラストオーダー》の肉体を調整するための培養カプセルと各種設備、それから設備を使用するための知識と技術だけだ。  |一方通行《アクセラレータ》は辺りを見回したが、ファイルもノートもディスクもデータ用紙も、部屋の中で|嵐《あらし》でも巻き起こったように床の上に散らばっていてどれがどれだか分からない。 「なァ。|妹達《シスターズ》の検体調整用マニュアルってどれだ? |肉体《ハード》面と|精神《ソフト》面……培養装置と|学習装置《テスタメント》の両方だよ。あと、検体調整用の設備を一式借りンぞ。理由は聞くな。『実験』の凍結で未払いのままンなってる契約料だと思ってくれりゃあイイさ」  彼がそう言うと、芳川は少し|驚《おどろ》いたような顔をした。 「少し待ちなさいな。どうしてキミが知っているのかしら? わたしですらも、つい三時間前にやっと気がついたというのに」 「あン?」 「だから、これの事でしょうに」  言って、芳川は自分が持っているデータ用紙をひらひらと振った。  それは|学習装置《テスタメント》のスクリプトだった。  |妹達《シスターズ》は特殊な培養装概によって、およそ一四日で製造される|御坂美琴《みさかみこと》のクローン体だ。その人格も普通の『学習』では形成できない。期問が短すぎるのだ、  よって、彼女|達《たち》は人格と知識を|学習装置《テスタメント》———実質的には洗脳マシンによって電気的に人力される。ニュアンスとしてはハードディスクに情報を書き込むようなものと思えば良い。  つまり今、|芳川《よしかわ》が持っているのは|妹達《シスターズ》の心の設計図な訳だが。 「で、オマエはンなモン眺めてナニやってンだ?」 「間違い探しね。見れば分かるでしょうに」芳川は赤ペンでデータ用紙に印をつけながら、「もっとも、わたしも気づいたのはほんの三時間前の事だから、まだ終わっていないのだけれど」  |一方通行《アクセラレータ》は|眉《まゆ》をひそめる。  すると、芳川は赤ペンをピタリと止めて、 「今は人格データの中からバグを洗い出している所よ。いえ、正確には人為的な命令文だからウィルスとでも呼ぶべきかもしれないけれど」 「……、待て。ナニ言ってンだオマエ?」 「と言っても、|妹達《シスターズ》全員の人格データが|破壊《はかい》されている訳ではないの。まあ、その個体の暴走が|他《ほか》の|妹達《シスターズ》に伝染する恐れがあるから危険度は変わらないのだけれど」芳川はわずかに首を横に振って、「キミには説明していなかったわね。|最終信号《ラストオーダー》と呼ばれる特別な個体があるの」  ラストオーダー。  |一方通行《アクセラレータ》の首の後ろを、電気が走るような嫌な感覚が走り回る。 「アイツが……何だと?」 「アイツ、ね。やはり知っていたのかしら。……となると、あの子はまだこの街の中にいるのね「芳川は赤ペンをくるくる回し、「まあ、いいでしょう。キミの知っている部分もあると思うけれど、今一度改めて、|最終信号《ラストオーダー》と今の現状について説明をしましょう。重要な事だからよくお聞きなさいね」  芳川はそう言うと、テーブルから下りてキチンと|椅子《いす》に座り直した。すぐ近くの椅子を指差し、|一方通行《アクセラレータ》にも座るように促すが、彼は從わない。  彼は芳川のこういった所が嫌いだった。まるでありふれた世界にいる教師のようで。 「そもそも、あの子は『実験』のために作られたものではないの。その事はご存知?」 「何だァそりゃ? ヤツらは|超電磁砲《レールガン》の劣化クローン体で、『実験』で|俺《おれ》に殺されるために作られたンじゃなかったのかよ」 「ええ。でも、その『実験』は何通りの|戦闘《せんとう》を行えば完了するのだったかしら?」 「二万ジャストだろォが。随分とキリのいい数字だとは思ってたけどよォ———」  言いかけて、|一方通行《アクセラレータ》は何かに気づいた。 「そう。あの子の検体番号は二〇〇〇一[#「検体番号は二〇〇〇一」に傍点]。キミもそれは知っていたようね。あの子は『実験』のシナリオデータ上には必要ない個体。言ってしまえば安全装置のようなもの」  |芳川《よしかわ》は、一度だけため息をついて、 「思い浮かべて御覧なさいな。二万人もの能力者を用意した上で、仮に彼女|達《たち》が反乱を起こしたらどうなるか。たかが二〇人に満たないわたし達スタッフでは手に負えないでしょう?」 「で、そのための切り札があのガキだァ? ありゃ何なンだ、人造の|超能力者《レペル5》か何かか?」 「そんなものは作れないし、作った所で意味はないの。その人造|超能力者《レペル5》がやはり反乱に加わっては意味がないでしょうに。安全装置というからには、もっと|信頼性《しんらいせい》の高いシステムでなければならなかったのよ。わたし達、非力な研究員でも|掌握《しようあく》できるほどにね」 「?」 「ミサカネットワーク、という言葉に聞き覚えはあるかしら?」  |一方通行《アクセラレータ》は|眉《まゆ》をひそめた。確か、|妹達《シスターズ》の間で|繋《つな》がっている脳波リンクのようなものだ。ネットワークそのものが巨大な意思を持っていて、各『ミサカ』を操る術もあるとか。 「|最終信号《ラストオーダー》というのはね、逆なの。あの子の脳に一定の|電気信号《パルスシグナル》を送る事で、逆にミサカネットワークそのものを操作する。それによって非常時には二万|全《すべ》ての『ミサカ』に対して停止儒号を送る事を可能とする。これによって、|妹達《シスターズ》は絶対にわたし達を裏切れなくなる」  |故《ゆえ》に、と芳川は息を吐いて、 「全ての|妹達《シスターズ》の司令塔となる|最終信号《ラストオーダー》は、自由であってはならない。そのために、あの子は|敢《あ》えて未完成な状態に|留《とど》めてある。本当は意識もない植物状態が望ましいのだけれど、ミサカネットワークに接続するためには一定以上の自我がなければならなかったの」 「呼吸をするだけの……キーボードって訳かヨ」  生々しい話だが、同時にここのスタッフなら考えそうなものだと|一方通行《アクセラレータ》は考えた。その他の|妹達《シスターズ》にしたって役割は使い捨ての|人型標的《マンシルエツト》だ。  |打ち止め《ラストオーダー》が|妹達《シスターズ》とどこか印象が違うのも当たり前だ。彼女は肉体も精神も意図的に未熟なまま管理。されていたのだから。 「で、あのガキについたバグってのは? っつか、ウィルスだっけか?」 「『実験』終了後も|最終信号《ラストオーダー》はここの培養器で秘密裏に預かっていたのだけど、一週間ほど前に突然異常な脳波が計測されてね。慌てて培養器のある建物に行ってみれば、もう設備は内側から|破壊《はかい》されてあの子は逃亡した後だった、という訳」  芳川はデータ用紙を指先で|撫《な》で、 「その時は、何が起きたか分からなかったわ。原因不明の暴走という方向で、とりあえずウチのスタッフが捜索する事になったの」 「あァ? |警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》には通報しなかったンかよ」 「できなかったの。わたし達の『実験』は上層部に|黙認《もくにん》されていたものの、大っぴらに公言して良いものではないから」 「その結果、今の今まで取り逃がしてたって訳だ。って一週聞もかァ!? いくら何でも危機感がなさすぎだろ。あのガキは一万の|妹達《シスターズ》を統括する管理者じゃねェのかよ」 「作ったシステムの完成度に自信があった|故《ゆえ》に油断していたのね。まさか逃げ出すなんて思っていなかったのよ。元々あの子は培養器の外では生きていけないはずなのだから、骨くみていたところもあ。ったかもしれないわね。……まったく、この七!!間を生き延びていたというのがすでに誤算だわ。そんなに強く作ったつもりはないはずなのに……やはり情が移ってしまったのかしらね」  その言葉に、|一方通行《アクセラレータ》は口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。  彼女はその視線に気づかない, 「今にして思えば、あれはあの子の一種の防衛反応だったのでしょうね。何者かが|最終信号《ラストオーダー》の頭に不正なプログラムを上書きした。それを防こうとした行為が、研究所からの逃亡。おそらくあの子自身は自分が|何故《なぜ》研究所から離れる事になったのか、その理由に気づいていないのでしょうけれど」  |芳川《よしかわ》自身、それに気づいたのはほんの三時聞前だという。  本来なら研究所のスタッフを召集して即座に対策会議でも開きたい所だが、スタッフ|達《たら》には一人も連絡がつかないらしい。もはや彼らはこの研究所に所属していたという事実すら消してしまいたいようだった。 「けどよォ、アイツは逃げよォとは思ってなかったぜ。むしろ研究員とコンタクトが取りたいっつって俺に話し掛けてきたンだからな」 「何ですって? ちょっと待って、最後に会ったのはどこで何時間前の話? それにしても、どうしてキミがあの子と会っているの?� 「だっからさア、先に付きまとってきたのは向こうなンだよ。大体よォ、どンなに日の前で困っていよォが泣き叫ンでいよォが、この俺があンなガキに話し掛けるトコなンか想像できンのかオマエ」 「……、どういう事なのかしら」  芳川は|顎《あご》に手を当てて、何かを考え始めた。頭の中で目まぐるしく思考が回っているせいか、石像のように顔の動きが止まってしまっている。 「で、その不正なプログラムってのは———まあ、どうせロクなモンじゃねェだろうなァ。今の話を聞いてると、どうもあのガキは|全《すベ》ての|妹達《シスターズ》の管理者みてェな役割だし」  彼はレストランでの会話を思い出す。  ———脳波リンクと個体『ミサカ』の関係はシナプスと脳細胞みたいなものなの。 「そう。あの子の逃亡の原因や行き先を探るために、わたしは人格データを出力してみた訳だけれど、良く見るとラクガキみたいなコードがちりばめられていたの。ある程度はピックアップしているけれど、ダミーを含めて結構あちこちに散っているので完全に除去できるかどうかは怪しいところといった具合でしょうね。そして、不正プログラムの内容の方は」 「内容の方は?」 「まだ完全にコードを解析していないから何とも言えないのだけれど、記述の傾向を追う限り予渕できる症状は、人間に対する無差別な|攻撃《こうげき》という所かしらね」|芳川《よしかわ》は言葉を切って、「ウイルス起動までのカウントダウンは|掴《つか》めている。九月一日午前〇〇時〇〇分〇〇秒。定刻と共にウィルス起動準備に入り、以後一〇分で起動完了。ミサカネットワークを介し現存する全|妹達《シスターズ》へ感染、そして暴走を開始。そうなったらもう|誰《だれ》にも止められないわ。キミほどではないけれど、|鋼鉄破り《メタルイーター》すら軽々と操るあの子|達《たち》が一万も集まれば相当の戦力になってしまう」 「……、オイ。それって」 「そう。その先に待っているものは、キミの思っている通りよ」  芳川は硬い声で言った。冷静なのではない。思考が固まってしまったかのような感覚だ。  |一方通行《アクセラレータ》は芳川の言葉の意昧を考える。  現在、一万弱もの|妹達《シスターズ》のほとんどは学園都市の『外』———世界中で体の再調整を行っていると聞く。つまり、学園都市に配備されている対能力者用の部隊『|警備員《アンチスキル》』や『|風紀委員《ジヤツジメント》』が|穏便《おんびん》に事件を収拾させる、というのは時間的かつ距離的に不可能だろう。  暴走し人を|襲《おそ》う|妹達《シスターズ》はおそらく外部の人間によって処分される。しかも学園都市の『外』で一万弱もの能力者が同時に事件を起こせばいくら何でも|隠蔽《いんぺい》しきれない。そして、その事件を起こした能力者が|全《すべ》て人工的に作られたものだと知れれば、様々な問題が飛び火していく。奇跡的に暴走から免れた|妹達《シスターズ》にしても、危険視されれば容赦なく始末されるだろう。  学園都市の『外』で|妹達《シスターズ》の再調整を行っている世界中にある協力派の企業や機関にしても、その一件で学園都市に対する評価を丸ごとひっくり返すはずだ。何せ一万人のクローン人間による集団|蜂起《ほうき》だ。そして、この一件で外部との協力が完全に絶たれてしまえばいかに学園都市といえども存続はできないはずだ。  その後に何が待っているかなど、もはや予測がつかなかった。  学園都市が解体され、職にあぶれた研究者達が未知の技術を引っ提げて世界中の軍事研究所へ流れていくか。逆に|崩壊《ほうかい》の恐怖に|縛《しば》られた学園都市が強硬手段に訴え、次世代兵器と超能力によって世界へ侵攻するか。  何にしても世界のパワーバランスは大きく揺らぎ、世界規模の恐慌や———最悪、そこから戦争へと発展する危険性すら考えられる。それも学園都市の『中』対『外』とか、そんな単純な話ではない。そんな小さな揺らぎではないのだ。あまりに大きすぎる揺らぎは、あらゆる国家・民族・宗教・思想などのわずかな|亀裂《きれつ》を決定的に引き裂き、世界地図を縦横無尽に破いてしまうだろう。まるで完成したジグソーパズルを床に|叩《たた》きつけるように。  世界の終わり。  その言葉の意味を、|一方通行《アクセラレータ》は知っていた。なまじ自分の|掌《てのひら》に『滅ぼす力』がある分、それは|他《ほか》の誰よりもリアルに想像できた。  きっと、どんな形で世界が破滅した所で|一方通行《アクセラレータ》は生き残る。どこが世界の中心なのかも分からないほど|破壊《はかい》され尽くした街に彼は一人無傷で立ち尽くす事だろう。  だがそこにはもう何もない。コンビニも開いていないし、電気も止まっているし、缶コーヒーの一本すら調達できない。後に残るのは動物や木の実を採って火で焼くような、そんな原始人の生活しかない。いや、核でも使われれば動植物の絶滅すら考えられる。そうなればもう泥でも食って生きていくしかない。ここまでくると簡単に死ねない己の強さが恨めしい。強さを求めた結果、待っているのは食物連鎖における最弱の地位だというのだから、  文明を作るのは人であり、人がいなければ文明は存在できない。  何もないとは、つまりそういう事だ。 「ハッ、面白エな。そいつア最高に面白エわ。よりにもよって世界の終わりときたかよ。そいつア|俺《おれ》の仕事だとずっと思ってたンだがなァ」一|方通行《アクセラレータ》は|狸猛《どうもう》に笑って、「っつかよォ、今からでも|警備員《アンチスキル》なり|風紀委員《ジヤツジメント》なり動かさねェのか? いくら広いとはいえ、|所詮《しよせん》は閉鎖された街ン中だぜ。人海戦術でしらみ|潰《つぶ》しに調べりゃ|打《ラストが》ち|止《 ダコ》めを捕まえられンだろォがよ。大体さっきまで警戒心ゼロでフッーに街歩いてメシ食ってたンだぞ」 「通報なんてできないわ。先にも言ったと思うけれど、ウチでやっていた事を考えると、ね。 確かに上層部は|黙認《もくにん》していたけれど、だからと言って大々的に公言して良いものではないのよ。 それに」 「それに?」 「結局、その方法では|妹達《シスターズ》を助けられない。|最終信号《ラストオーダー》が外部の手で保護されて調べられれば、『一万もの|妹達《シスターズ》が暴走するかもしれなかった』事が判明してしまう。人工物を処分するには十分すぎる理由ではないかしら」 「それでガキ一人捕まえられねェンじゃ世話ねェな」 「そこを突かれると返す胃一蘂はないわね。あの子に逃げている自覚はないのでしょうけれど、基本行動パターンにミサカネットワーク内にある『実験中の証拠隠滅マニュアル』でも使っているのでしょうね。あの子、基本的に路上生活らしいから。お金のやり取りはないし、IDを使用する事もない。データが残らないのよ。衛星の死角になるゾーンもあるし、あとは警備ロポットの巡回ルートさえ|避《さ》ければ映像にも引っかからないの。ああ、キミがあの子と別れてからどれくらい|経《た》っているのかしら? まさか|他《ほか》の組織がこの件に勘付いているなんて事はないわよね。この状況で|誘拐《ゆうかい》とかされても困ってしまうわ」  一見して自分の都合しか考えていないような|台詞《せりふ》だが、|芳川《よしかわ》の声には純粋に|打ち止め《ラストオーダー》を心配するような色も感じ取れた。  それを見て、|一方通行《アクセラレータ》は小さく舌打ちする。  彼女は研究員の中では甘い人格の持ち主だった。遺伝子レベルで|誰《だれ》が誰だか見分けのつかない|妹達《シスターズ》の顔を必死になって覚えようとしたり、彼女|達《たち》に検体番号ではない人間らしい名前をつけようとしていた事もある。  しかし、結局それは甘さであって優しさではない。本当に優しい人間ならば、そもそも『実験』を止めようと立ち上がるはずだ。そう、あの少年やあの少女のように。  |芳川《よしかわ》はそんな彼の視線には気づかず、 「でも、『逃げろ』という無意識下の命令はわたし|達《たち》『研究員』にしか適用されないようね。 現にキミに対しては警戒心を見せていないようだし。……ええ、ここを上手く突けば存外何とかなるかもしれないわね」  |言葉尻《ことばじリ》は独り言のようだったが、しっかり耳にしていた|一方通行《アクセラレータ》は顔をしかめた。こんなヤツらの|駒《こま》にされるなどまっぴらだ、とばかりに彼はさっさと話題を変える。 「で、オマエはウィルスっつったよなァ。バグじゃなくてウィルスっつったンだ。そりゃ戦争屋のエージェントの火種作りか? それとも経営不振に陥った軍言産業の上手な再建法かァ?」 「|天井亜雄《あまいあお》」  |一方通行《アクセラレータ》の軽口に、芳川は一言で答えた。  彼は|眉《まゆ》をひそめる。確か、|打ち止め《ラストオーダー》と昼食を採ったファミレスで|日撃《もくげき》した。しかし本当に天井が犯人ならば、|何故《なぜ》まだ学園都市をうろついているのか。事件発生から一週間も|経《た》っているのなら、学園都市の『外』にでも逃亡してしまえばいいものを……。  と、そんな|一方通行《アクセラレータ》に、芳川は先を続ける。 「事件直後のタイミングで姿を消した研究員は一人だけ。有休を使うというメールは届いているけれど」 「それだけで?」  |一方通行《アクセラレータ》はガランとした室内を見回した。  給料も出ない会社に出勤する人間など、よほどの変わり者だけだ。|一方通行《アクセラレータ》としては、彼が|他《ほか》の研究所に売り込みをしていようがコンビニの店員になっていようが何の不思議もないと思う。それこそ、他の研究員と同じように。  すると、芳川は|一方通行《アクセラレータ》の疑惑の視線を受けて、 「彼は頓挫しかけていた|量産型能力者《レデイオノイズ》計画の元研究員で、『実験』に|妹達《シスターズ》を代用する際にウチへ転属したスタッフ。その専門は|学習装置《テスタメント》を用いた人格データ作成。簡単に言えば彼以上に|妹達《シスターズ》の|精神《ソフト》に詳しい者はおらず、そして管理上の問題から彼の目を盗んであの子の頭に追加コードを書き込む事はほぼ不可能だし、|失踪《しつそう》直前には彼が|学習装置《テスタメント》を使っている姿を目撃している人がいるの。何故か、使用ログは消されているのだけれどね」 「そりゃまた随分と分かりやすい構図だなァオイ。しかも条件が甘すぎる。何だってソイツァ今日までリミットを待ってンだ。世界の破滅が熔好みなら、ウィルスを仕込ンだその日に終わらせちまえばイインだ。わざわざ仕込んでから一週間も待つ意味がねェだろ」 「それはわたしでなく彼に問うべきではないかしらね。まあ、わたしが|敢《あ》えて打算的な予想をするならば」|芳川《よしかわ》はため息をついて、「|治療《ちりよう》を待つ|妹達《シスターズ》が『外』の施設に|馴染《なじ》むのを待った、というのが妥当かしら。『今まで安全だと思っていた者が突如暴走する』———このシチュエーションを用意するためには、まずは|妹達《シスターズ》とは|信頼《しんらい》できる存在である、という意識を周りに植え付けなければならないでしょう?」  |一方通行《アクセラレータ》は少し|黙《だま》る。  そして、何をするべきかを考える。 「で、結局オマエはここでナニやってンだ? ガキの頭ン中に入ってるウィルスはどう止める?」 「それを今調べているのでしょう」  わずかに|焦燥《しようそう》の色が見える芳川の言葉に、|一方通行《アクセラレータ》は口の端を|歪《ゆが》めた。|打ち止め《ラストオーダー》の頭の中身は|学習装置《テスタメント》を使えばいくらでもいじり回せるが、リミットまであと数時間という状況でワクチンプログラムを作り出し、|打ち止め《ラストオーダー》を見つけて注人する———正直、勝算は五分かそれ以下だろう。  ならばどうするか。  答えなど分かりきっていた。リミットまでに解決策が見つからなければ、ウィルスに犯された個体を『処分』する事で感染を防ぐ。それで『外』にいる残り九九六九人の|妹達《シスターズ》はウィルスコードの感染から守られ、何事もない日常を送る事ができる。  たった一人を|犠牲《ぎせい》にする事で。  問題が起きたからという理由だけでゴミ箱に投げ捨てるように処分する事で。 「……、そうならないために努力をしているのよ。もちろん、キミにだって何かはできる」  |一方通行《アクセラレータ》の|沈黙《ちんもく》から何かを知ったのか、芳川は静かにそう言った。 「|誰《だれ》にモノ言ってっか分かってンのかオマエ。|俺《おれ》ァアイツらを一万人ほどぶっ殺した張本人だぜ? そンな悪人に誰を救えって? 殺す事ァできても救う事なンかできねェよ」 「それを仕向けたのはわたし|達《たち》だった、って答えさせてもらうわ。確かにキミはあの時、一万人強もの|妹達《シスターズ》に手をかけてしまった。でも、もしも『|妹達《シスターズ》を使わなくても|絶対能力《レベル6》へ進化できる方法』を見つける事ができれば、キミは誰も殺さずに済んだのだから」 「そンな一言だけで、オマエを信じて従えって?」 「やりたくないのなら、仕方がないわね。わたしにキミを拘束するだけの力はないもの。最後に残った時間を、へ、一自山に過ごしなさいな。そして祈りなさい。願わくば、ウィルスが起動する前にあの子の肉体が限界を迎えて死滅しますようにって」 「……、」  |一方通行《アクセラレータ》は芳川の目を見た。  彼女はいつもと変わらず、そこに|佇《たたず》んでいる。  そして顔色一つ変えないままに、ただ告げる。 「わたしにはあの子を捕まえる事はできない。『研究員を見たら無意識に逃げる』というあの子の特性は、わたし|達《たち》の体から放出される微弱な電磁場のパターンに強く依存している。たとえあの子の視界に人らなくても電磁場を検知して逃げてしまうのね。逆に言えばそこさえクリアすればわたしにもあの子に接近するチャンスが生まれてくるのだけれど……ウィルスコードを解析する片手間で|追撃《ついげき》できるとも思えないもの。だけど、キミがいるなら話も変わる。二人で手を組めば何とか道は開けるかもしれないの」 「……、クソったれが」  |一方通行《アクセラレータ》はわずかに目を細めて|黙《だま》り込んだ。だからこの女は嫌いだ、と思う。とにかく甘い。 何かを背負うほどの強さがないから、どこまで行っても優しさにはならない。  スケールが大きすぎて実感の|湧《わ》かない一万もの|妹達《シスターズ》の暴走よりも、より実感のしやすい|打ち止め《ラストオーダー》の死を持ち出してくる辺り、大した心理|誘導《ゆうどう》だと|一方通行《アクセラレータ》は内心で舌を巻く。たとえそれが平和を願っての行動だろうが、とても『優しい』と表現できたものではないが。  |芳川《よしかわ》は企画書でも入っていそうな大きな封筒を二つ手にする。 「今キミにできる事は二つ。一つは街の中に潜伏している犯人・|天井亜雄《あまいあお》を捕らえてウィルスの仕組みを吐かせる事。そしてもう一つは起動前のウィルスを抱えた|最終信号《ラストオーダー》を保護する事。 好きな方を選びなさいな。もっとも、キミは守るより|壊《こわ》す方が得意でしょうけれど」  封筒はテーブルの上を滑り、|一方通行《アクセラレータ》の前で停止した。口の開いた二つの封筒から、中に収められていた資料の一部が顔を出す。  ———左の封筒からは、いくつかの写真が出てきた。高速道路にあるような、速度違反車用のカメラから撮ったような写真だ。車高の低いスポーッカーが上から写されていて、運転席には天井亜雄の姿がある。その他にも赤いボールペンでマークされた地図もあった。  おそらく芳川が様々な警備・防犯システムに侵人して天井皿雄の予想潜伏先や行動範囲でも調べたのだろう。そこまでやって|未《いま》だ捕まえていないというのは単なる人員不足か、あるいは天井が矢継ぎ早に潜伏先を変えているせいか。  ———右の封筒からは、データスティックと超|薄型《うすがた》の電子ブックのようなものが出てきた。 データスティックには『検体番号二〇〇〇一号・人格要綱/感染前』と書かれたラベルが|貼《は》ってある。紙で出力するには量が多すぎるのかもしれない。  こちらは|打ち止め《ラストオーダー》の人格データといった所か。|趣味嗜好《しゆみしこう》主義主張思想思考動向傾向などを調べる事によって、|打ち止め《ラストオーダー》の進路を予測して追跡なり先回りなりしろという事だろう。もっとも、レストランでの様子を見る限り、今の|打ち止め《ラストオーダー》は自力で移動できるとも思えないが。 「オイ、確かオマエらの力じゃ|打ち止め《ラストオーダー》を捕まえる事ができねェンだよな」 「ええ。無自覚に『実験』中の|隠蔽《いんぺい》マニュアルを使ってしまっているらしくてね。それ以前に、動かせる|駒《こま》もわたし一人しかいないのだけれど」 「けどよ、そのデータを作ったのは|天井《あまい》本人なンだろ。ヤツは人格データ専門なンだから。だったらヤツだって|隠蔽《いんぺい》マニュアルを知ってンじゃねェのか?」 「知識と技術は別物よ。現に彼だって努力はしているみたいだし。ただ、詰めが甘いから頭を隠しても|尻尾《しつぱ》がこうして見えているのだけれど。一方、|妹達《シスターズ》の方は人力した知識が即、技術となるの。だから|最終信号《ラストオーダー》の方は|捉《とら》えようがないわね。それにお金の流れの方もあるの。天井はお店を使う事で足跡を残してしまうけれど、路上生活を送るあの子は完全に足取りを消してしまう。どちらを追いやすいかなんて考えるまでもないわね」 「……、」  どちらが彼に向いているか、など考えるまでもない。  |一方通行《アクセラレータ》の力は、|誰《だれ》かを守るより何かを|壊《こわ》す方に優れている。|否《いな》、それはおそらく技術や理論より以前の問題だ。 『あっ、きたきたやっときた、ってミサカはウェイトレスさんを指差してみたり。わーい、ミサカがミサカが一番乗り』  彼は人を守った事なんてない。どうやって人を守れば良いのかなんて分からない。その力をもって誰かを助ける所など想像もできない。 『おお、あったかいご飯ってこれが初めてだったり、ってミサカはミサカははしゃいでみたり。すごいお皿からほこほこ湯気とか出てる、ってミサカはミサカは|凝視《ぎようし》してみる』  それはもはや論理以前に|概念《がいねん》の問題だ。彼の力では誰も救えないし、彼の世界とはそういうものなのだ。人が救われないのが当たり前の日常で、救いがあるのが異常である———それが彼を中心に展開される常識の第一条件である。 『でも、誰かとご飯を食べるのも初めてだったり、ってミサカはミサカは答えてみたり。いただきまーす、っていうの聞いた事ある、ってミサカはミサカは思い出してみる。あれやってみたい、ってミサカはミサカはにこにこ希望を言ってみたり』  もしも、仮に彼がその力で誰かを救おうものなら、彼を取り巻く常識そのものが|崩壊《ほうかい》する。 それはもう『|一方通行《アクセラレータ》』という存在とは違う。人を救う |方通行《アクセラレータ》など|一方通行《アクセラレータ》ではない。|他《ほか》の何者かに取って代わったと表現しても何の問題もない。 「まァ、そオだよなァ。どっちを取りゃイイかなンざ誰でも分かンじゃねェか」  |一方通行《アクセラレータ》は|自嘲《じちよう》するように口の中で|呟《っぶや》いた。  彼はあの少年やあの少女ではない。人を救う、その役目に|相応《ふさわ》しい人間ならば|他《ほか》にいくらでもいる。|生憎《あいにく》とどの席も満席状態で、今さら彼が入り込む余地など全くない。  彼の力が人を救う事に向いていないというならば。  彼の力が人を殺す事に向いているというならば。  |一方通行《アクセラレータ》は|一瞬《いつしゆん》だけ、|誰《だれ》かの顔を思い浮かべた。 「ハッ、|蔑《さげす》めクソガキ。どオせ|俺《おれ》にゃアこっちしか選べねェよ」  そうして、彼は選ぶ。二つ並べられた封筒の、どちらか一つを切り捨てる事で選択する。何かを|諦《あきら》めるように、彼は大きな封筒を一つ、手に取る。  右の封筒を。  人格データの収まったデータスティックと電子ブックの収まった封筒を。  |打ち止め《ラストオーダー》と呼ばれる一人の人造少女を保護するために。  きっとこの瞬間に、|一方通行《アクセラレータ》は|一方通行《アクセラレータ》ではなくなった。  誰かを守るために立ち上がる。誰かを助けるために動き出す。誰かを救うために力を振るう。 それは『柄にもない』などという次元の話ではない。例えば彼を良く知る人間が、今この情景を眺めれば何かの間違いだと断ずるだろう。あるいは、そんな事を言い出す|一方通行《アクセラレータ》など|偽物《にせもの》だと叫ぶかもしれない。  それほどの|衝撃《しようげさ》を伴う選択なのだ。  彼は|一方通行《アクセラレータ》としての|存在意義《アイデンテイテイ》の|全《すべ》てを失ったと言っても良い。  何者でもなくなった少年は、力なく、自らを|嘲《あざけ》るように言う。 「笑えよ。どオやら俺は、この|期《ご》に及ンでまだ救いが欲しいみてエだぜ」 「ええ、それはそれは大いに笑って差し上げましょう」|芳川《よしかわ》は、|真《ま》っ|直《す》ぐに少年の顔を見据える。「キミの中にまだそんな感情が残っているとすれば、それは笑みをもって祝福すべき事よ。 だから安心して証明なさいな。キミの力は、大切な誰かを守れるという事を」  |一方通行《アクセラレータ》は答えずデータスティックの入った封筒を手にすると、きびすを返して出口へ向かう。だからこの女は甘くて嫌いなんだ、と一の中で|呟《つぶや》いてから、 「俺はオマエ|達《たも》、研究者のために働く。だからそれに見合った報酬は用意してもらうぜ」 「ええ。あの予の肉体の再調整ならわたしに任せなさい」  芳川|桔梗《ききよう》が答えると、少年の背中はそれ以上何も答えずに研究所から出て行った。      2(Aug.31_PM06:00)  誰もいなくなった研究所で一人、芳川桔梗は息を吐いた。  この|土壇場《どたんば》で|一方通行《アクセラレータ》が訪ねて来てくれたのは、奇跡に近い|儒倖《ぎようこう》と言っても良い。実際、彼がここにやってこなければ|為《な》す|術《すべ》もなく学園都市は|崩壊《ほうかい》していただろう。  |一方通行《アクセラレータ》が|最終信号《ラストオーダー》を捜しに行った以上、|芳川《よしかわ》の役目は『|天井《あまい》を捕らえてウィルスコードを吐かせる事』だが、彼女はこの場に|留《とど》まった。慣れない|追撃《ついげき》戦に奔走するより、自分でコードを解いた方が単そうだと踏んだからだ。  とはいえ。  |膨大《ぽうだい》な人格データの中から、いくつあるかも分からないウィルスコードを一っ残らず探し出すという作業は、相当に骨が折れる。間違って正常なコードを削除しても問題だ。|記憶《きおく》系コードなら思い出を失う租度で済むが、自律神経系コードを傷つければ|最終信号《ラストオーダー》は命を落とす事になる。 「……ふう」  芳川はデータ用紙から顔を上げる。|一方通行《アクセラレータ》の前では軽々と答えたが、|最終儒号《ラストオーダー》の肉体の再調整はそれほど簡単な事ではない。それは技術的ではなく彼女の立場的な問題だった。  研究所は、あくまで『実験』を凍結したのであって中止したのではない。つまり、いつでも『実験』を再開できるよう準備しなければならないのだ。当然、|妹達《シスターズ》制御の核である|最終信号《ラストオーダー》を研究員の一存で解放させるなど、本来ならば許されない。独断専行すれば彼女は間違いなくその責任を負う事になるだろう。  芳川は、甘いだけで優しくはない人間だ。  例えば、あの『実験』の終結|間際《まぎわ》に一万弱もの|妹達《シスターズ》が結託して学園都市中の風力発電のプロペラを制御する事で、|一方通行《アクセラレータ》の攻撃を阯害したとき、彼女は|最終信号《ラストけ ダ 》を通してミサカネットワークに停止信号を送って|妹達《シスターズ》の動きを止められたのに、それをやらなかった。  しかし、芳川が|妹達《シスターズ》を止めなかったのは、|妹達《シスターズ》に死んで欲しくないという『優しさ』からくるものではない、『実験』中の|妹達《シスターズ》に干渉する事で、『実験』全体に修復不可能なダメージを与えるのを恐れただけの、自分に対する『甘え』である。 「それでも……」  芳川|桔梗《ききよう》は決意する。  |一方通行《アクセラレータ》は己の存在意義をかなぐり捨ててまで|誰《だれ》かを救おうとした。この事実はおそらく彼の心に垂たい|衝撃《しようげき》を打ち付ける。。『肖分の力で、誰かを助ける事』———確かにそれは簡単で基本的な話かもしれない。けれど、彼は|諦《あきら》めていたのだから。、『自分は殺す事しかできない』とわざと|白嘲《じちよう》して、救いのない自分の人生に逃げ道を用意していたのだから。  仮に、そんな状態の|一方通行《アクセラレータ》が、自分のその手で誰かを守れる事を知ってしまったら。  彼は、絶対に後悔する  今まで、己の目の前で倒れていった人々は何だったのかと。  どうして自分はもっと早くに手を差し伸べなかったのかと。  だけど、それでも|一方通行《アクセラレータ》はたった一人の少女を助けるために、それらの事実と向き合う覚悟を決めたのだ。|芳川《よしかわ》は、それを踏みにじりたくなかった。たとえ気づくのが遅すぎたのだとしても、もう戻れない所まで来てしまったのだとしても、踏みにじりたくなかった。 「結局甘いのよ。わたしは決して優しくはない」  乾いた独り言。そう、芳川は優しくない。本当に優しい者なら、そんな苦悩を背負わせてまで|一方通行《アクセラレータ》に協力を仰こうとはしない。彼の協力など|頼《たよ》らずに、芳川自身が一人で決着を着けるという選択肢を選んでいた事だろう。」たとえ、どれだけ不利になっても。  芳川はそんな甘い自分が嫌いだった。  人生一度で良いから優しくなってみたかった。 「さて、わたしもわたしで自分を|壊《こわ》す時がやってきたのかしらね」  芳川はもう一度ため息をつくと、データ用紙片手に|最終信号《ラストオーダー》の肉体再調整のための準備に取り掛かった。リスクを負う事を覚悟で|誰《だれ》かのために動くなど、甘いだけで優しくない彼女の行動とは思えない。いつもの彼女なら、雨に打たれる捨て猫を見つけても|可哀翻《かわいそう》にと思うだけで、実際に家に連れて帰って飼うような事はしないのに。  だけど、彼女はそんな自分が嫌いだった。  一度で良いから、自分らしくない行動をしてみたかった。      3(Aug.31_PM06:15)  随分と昔の事を、彼は思い出す。  |一方通行《アクセラレータ》と呼ばれるその人物にも、元々は人間らしい名前があった。名字は二文字で名前は三文字。いかにも日本人らしい名前だったし珍しくもない名前だったはずだ。  別に、彼は最初から学園都市最強の存在として君臨していた訳ではない。  最初は周りよりも、ちょっとだけスキルが上だったという認識しかなかった。  そして、出る|杭《くい》は打たれる。  彼にとって災いだったのは、彼が自分で思っているより有能な人間だったという事だろう。  突っかかってきた同年代の少年|達《たち》は、彼に触れただけで骨を折った。  それを止めようとした教師も骨を折った。  さらに大人達が輪になって彼を取り囲んだがこれも全滅した。しまいには当時一〇歳の子供に対して、銀行強盗でも相手にするかのように|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》が急行し様々な能力や次世代兵器で|攻撃《こうげき》したが、やはり誰も彼もが全滅した。  彼はただ、|恐《こわ》かった。  |拳《こぶし》を振り上げられるのが恐くて、がむしゃらに腕を振っていただけだった。  一〇歳の子供にとって、それはしごく当たり前の反応とも言える。  なのに、たったそれだけで、この有り様だ。  空には窓のない無人|攻撃《こうげき》ヘリが何機も飛び交い、|機械の鎧《パワードスーツ》を着込んだロボットみたいな|警備員《アンチスキル》の増援が負傷した仲間を|庇《かば》うように立ち|塞《ふさ》がる。まるでテレビで見た|怪獣《かいじゆう》映画のようだった。みんなに恐れられる、|醜《みにく》い怪獣のようだった。  そうして、彼は気づく。幼いながらに、気づいてしまう。指先で触れただけで人は傷つき、ちょっと心の中で『イラッ』と思っただけで人が死にかねないという事に。このまま雪だるまのように|騒《さわ》ぎが広がっていけば、やがて学園都市が、ひいては世界そのものが敵に回り、本当に|全《すべ》てを滅ぼしてしまうかもしれない事に。  その『滅び』を|回避《かいひ》するためには、あらゆる人間に対し『感情』を向けてはいけない事になる。悪意は元より、好意すら時には|嫉妬《しつと》という形で攻撃性を持つのだから。  人を傷つけないためには、たとえ他人に何をされても動じない人間になれば良い。『イラッ』としただけで人が死にかねないのならば、そのわずかな感情の起伏すら生まない、氷のような人間になる事で、チカラの暴走から他人を守る事ができるはずだ。  しかし、幼い子供はこの時点でもう間違えていた。  それは裏を返せば『他人がどうなっても何とも思わなくなる』氷の人間となってしまう事を意味しているのだ。本当の意味で他人に何をされても文句を言わない人間とは、つまり他人の人生など全く興味ない人間という事なのだから。  彼はそんな間違いにも気づかずに、肖分の道を選んでしまう、  こうして彼はかろうじて『滅び』を回避した。  他人に全く興味をなくした彼は、その場であっさりと降参して、特別クラスという名の|鑑《おり》へと放り込まれる事になった。だが、人の心の歯車はそうそう簡単に止まらない。意志のないクラゲのように漂う彼の意識は、やがてもう一つの解決方法を導き出す、  下手に他人と争ってはいけないのなら、争いが起きない状態を作れば良い。  そもそも争いを起こすのが|馬鹿馬鹿《ばかぼか》しいほどの力を手に人れれば。 『最強』ではなく、『絶対』になれば。。  もう|誰《だれ》かを傷つける事もなく、もう誰かに|脅《おび》えられる事もなく。自分の存在を、誰かに認めてもらえるのだろうか、と|錆《さ》び付いた彼の心は考えた。  その考えが、のちに多くの人を傷つけてしまう事にも気づかずに。 「くっだらねェ……」  |一方通行《アクセラレータ》は研究所を出ると、人格データの入ったデータスティックはひとまず無視して、最後に|打ち止め《ラストオーダー》と別れたレストランへ向かうために街を走る。あれからもう何時間も経過しているが、あの状態の|打ち止め《ラストオーダー》が自力で移動できるとは思えない。 彼は街を走る。  脳にしつこくこびりついた|記憶《きおく》の|残滓《ざんし》に奥歯を|噛《か》み締めながら、ただ走る。  そう、認めてくれたのだ。 『絶対』になんてならなくても、『最強』ですらなくても。  たった一人の少女によって。  確かにそれは遅かったのかもしれない。何かを変。えるにしてはあまりにも遅すぎたのかもしれない。けれど、確かに認めてもらったのだ。一人の人間として、対等に、恐怖する事なく、同じ目線で。  彼はきっと、その時抱いた何かを失いたくはなかった。  そして、失いたくはないと感じる自分がいる事に、彼は心のどこかで歓喜していた。  何かが、変わろうとしていた。  何かを、変えられるかもしれないと、思う事ができた。  手遅れだと、分かっていても。      4(Aug.31_PM06:32)  |一方通行《アクセラレータ》は街を走る。  研究所からレストランまで、歩いて何時間もかかった。|芳川桔梗《よしかわさきよう》と随分長い闇話し込んでいたせいもあって、すでに空は夕暮れとなっている。  街を走りながら、|一方通行《アクセラレータ》は周囲の音を拾う。どうも|警備員《アンチスキル》の姿が多い。彼らの会話を盗み聞くと、どうも学園都市のセキュリティを強行突破した侵人者がいるらしい。 (|天井亜雄《あまいあお》の関係者かァ? となるとヤツは『外』からの|依頼《いらい》で|打ち止め《ラストオーダー》の頭にウィルス組んだってトコか。天井のヤロウ、『外』へ逃げる気かァ?)  |一方通行《アクセラレータ》は並のバイクを軽く追い抜くほどの速度で街を走りながら、さらに考える。 (いや、天井を逃がすためにやってきたってンなら、わざわざ派手に動いて警備を強化させる訳がねェか。となると全くの別件か……そう決め付けるのも危険ってトコか)  どちらにしても、今は天井亜雄より|打ち止め《ラストオーダー》の方が先決だ。関係あるのかないのか良く分からない侵人者については保留にしておく。  そうこうしている内に、|打ち止め《ラストオーダー》と別れたレストランが見えてきた。 (クソったれが。こンな事になンなら初めっからあのガキを連れて研究所に行ってりゃ良かったぜ)  そうしなかったのは、|打ち止め《ラストオーダー》が研究所にとってどういう位置にいるのか分からなかったからで、いきなり『処分』されるのを恐れたためなのだが、完企に裏目に出た。だが、毒づいた所でもう遅い。|打ち止め《ラストオーダー》はまだ店内にいるか、それとも追い出されたか。|一方通行《アクセラレータ》はレストランに向かって走り、  ガシャン!! と。  突然、目の前にあったレストランのウィンドウが粉々に砕け散った。 「あァ?」  |一方通行《アクセラレータ》は思わず立ち止まる。  そのレストランのウィンドウは道路に面していた。道路には、身長ニメートル近いプロレスラーのような大男が立っていた。|漆黒《しつこく》のスーツを培た大男は、砕けたウィンドウから店内へと悠々と侵人していく。  店内で争うような一育葉の応酬が聞こえた。  少しして、砕けたウィンドウを通って店内から道路へ、何者かの足音が|響《ひび》く。ただし、足音だけで姿がない。まるで透明人悶のように、靴底の形をした透明な|歪《ゆが》みが砕けたウィンドウの 破片を踏む音が聞こえる。  その透明人間は一|方通行《アクセラレータ》とは逆方向へ向かって走り去った。途巾、|巫女《みこ》装来を培た黒髪の変な女に激突している。変な女が抱えていた荷物がばら|撒《ま》かれた。、どうやらキャットフードのようだ。箱の口でも開いていたのか、透明人川は猫の食料を…頭から盛大に|被《かぶ》ったようだ。  あれが何者なのか、|一方通行《アクセラレータ》が判断に迷っていると、今度はやはり砕けたウィンドウから道路へ向かって、一人の少年が飛び出してきた。  彼はその少年を知っている、 「あ、の……ヤロウ!!」  一|方通行《アクセラレータ》は思わず目を|剥《む》いた。|妹達《シスターズ》を助けるために『実験』を凍結に追い込み、|一方通行《アクねプレ ダ》を|殴《なぐ》り飛ばした|無能力者《レベル0》の少年だ。  その少年もやはり透明人川が走り去った方へと消えていく。ただし、|傍日《はため》に見る限り走っているというより逃げているといった方が正確だろう。|何故《なぜ》か店長らしき男やウェイトレスが彼を追い掛け図している。。 (何だァ? 何が起こったってンだ。。あのレストランに、この|騒動《そうどう》。……、クソガキと関係あンのか? チッ、予測がつかねェが、あのバカなら首突っ込む可能性は捨てらンねェな)  |一方通行《アクセラレータ》は追い駆けるか|否《いな》か迷ったが、とりあえずレストランへ入る事にした。時間は限られているので|闇雲《やみくも》には動けない。それに、情報を収集した後でも彼の『足』なら十分に追う事ができるだろう。  彼はレストランへ入る。  昼間来た時とは別世界だった。道路に面したウィンドウが粉々に砕かれ、テーブル一つがレーザーにでも裂かれたように切断されて転がっている。客|達《たち》はこの場で起きた|騒動《そうどう》に対し、|未《いま》だに平静を取り戻せないでいるらしい。まるで小火でも起きたように、|壊《こわ》れたテーブルを遠巻きに眺めて何かを話している。  |一方通行《アクセラレータ》はぐるりと周囲を見回した。  決して広くもない店内には……見慣れた|打ち止め《ラストオーダー》の姿は見つけられなかった。 (オイオイ、マジで追い出されたのか。あの状態のクソガキが一人で出歩けるとも思えねェンだけどな)  もう一度辺りを見ると、 一人のウェイトレスと目が合った。小柄で中学生にも間違えられそうな少女だ。彼女は最初ポカンと|一方通行《アクセラレータ》の顔を見ていた。騒動に|呑《の》まれて、今が営業時間である事も忘れているらしい。それから三秒ほど経過すると、少女はようやくハッと何かに気づいて|一方通行《アクセラレータ》の元へ近づいてきた。営業スマイルがどこか青ざめている。 「い、いらっしゃいませ。あの、お一人様でよろしいですか。それと、当店は全席禁煙で」 「客じゃねェよ、人捜しだ。ここに来てるはずなンだけどよ」 「え?」 「|歳《とし》は一〇歳ぐれエで空色の汚ねェ毛布を頭から|被《かぶ》った裸のガキだ。三時ごろに|俺《おれ》と|一緒《いつしよ》にこの店に来たはずなンだが、見覚えあるか?」  印象に残るか残らないかで言われれば、|打ち止め《ラストオーダー》のあの格好ほど印象に残るものはないだろう。だからこそ、|一方通行《アクセラレータ》は特に詳しく説明をしなかった。それで通じると思ったのだ。  だが、小柄なウェイトレスは困ったような顔をして、 「え、あの、すいません。覚えていません。どのテーブルに座っていたか分かりますか?」 「……、ウソだろ。今日びあれぐれェの格好じゃ|記憶《きおく》に残ンねェのか」 「すいません」  |律儀《りちぎ》に頭を下げてくるウェイトレスの少女の顔は困った表情から泣き出しそうな表情へと変わっていく。どうやら本当に覚えていないらしい。 (チッ、この騒動のせいか)  |一方通行《アクセラレータ》は舌打ちした。元より|打ち止め《ラストオーダー》が食事を採ったのは何時間も前の話だし、たった今、ここでは何らかの事件が起きたのだ。そのインパクトが大きすぎて『珍妙な格好をした客』程度の事など忘れてしまっても無理はない。  いきなり足取りが消えてしまった。|一方通行《アクセラレータ》が|苛立《いらだ》った顔をしていると、小柄なウェイトレスは|脅《おび》えたような顔をして店の奥へと消えてしまった。 (どォする? 防犯カメラの記録でも当たってみるか)  通常、この手の映像記録は警備会社へ直接ネットで送信され、マスターデータは店内で保管しない。ハッキングなり何なりの腕があれば外部から映像記録を盗み見る事もできるが……。 (無理だなァそりゃ。ここをどこだと思ってやがる)  |一方通行《アクセラレータ》は首を横に振った。  彼にそんなスキルはないし、研究機関や機密情報が|氾濫《ほんらん》する学園都市のセキュリティを一般の警備会社に任せているはずがない。というより、まともな侵人路が用意されているとも思えない。『それ』ができるのは、システム開発者本人すら気づかない『穴』を見つけ出す事のできる、本当に一部の異常と呼べるほどの才能の持ち主だけだろう。。  と、そんな事を考えている|一方通行《アクセラレータ》の元へ、店の奥から二、三人の従業員がやってきた。その陰に隠れるように、さっきの小柄なウェイトレスもいる。  |営業妨害《なんくせ》とでも思われたか、と|一方通行《アクセラレータ》は予想した。もっとも、今の彼に事情を細かく説明するだけの時間と余裕はない。その|眼《め》に|薄刃《うすば》のナイフのような危うい光が見え隠れする。  ところが、三〇代前半ぐらいの男の従業員は割と友好的な笑みを向けて、 「君、あの毛布の女の子のご家族か何かなの?」 「あァ?」 「いや、三時ごろ来たあの女の子。持病でもあったのかなと思って」  |一方通行《アクセラレータ》は男の従業員の言葉を頭の中で転がす。あの時の|打ち止め《ラストオーダー》は未調整の肉体の誤作動で熱病のような症状になっていたはずだ。彼女が一人で出歩けるとは思えないが。 「四時過ぎかな。いつまでもテーブルに突っ伏したままだったから不審に思ってね、ウチの子が話しかけたら意識がない事が分かった。これは一大事だと思って救急車を呼んだんだが」 「って事は何か。あのガキ、今は病院にいンのか?」 「いや、救急車がやってくる前に、白衣を着た男がやってきた。身内だと言っていたし、その子の病状は定期的に訪れるもので命に別状あるものではないと言っていたので、引き渡した」 白衣の男。  |一方通行《アクセラレータ》は歯噛みした。たったそれだけで判断するのは早急すぎるが……。 「女の子を捜しているのなら、その人と連絡を取ってみてはどうかな? 心当たりはあるのかい」 「……、まァ。嫌ってほどにはな」  吐き捨てるように彼は答えた。  心当たりはただ 人、|天井亜雄《あよいあお》しかいない。昼食時、この辺りをうろついていたのを|一方通行《アクセラレータ》は|目撃《もくげき》しているし、何よりあの|打ち止め《ラストオーダー》に『身内』などいるはずがないのだから。      5(Aug.31_PM07:02)  |一方通行《アクセラレータ》はレストランを出ると、携帯電話で|芳川《よしかわ》と連絡を取る事にした。 『何ですって? |天井《あまい》が|最終信号《ラストオーダー》を連れて行った?』 「人づてだから確証はねェけどな。で、どう思う? ウィルスってなァ放っておいても勝手に起動すンだろ。だったら何でアイツがあのガキにちょっかい出すってンだ」  大体をもって、天井|亜雄《あお》が学園都市に残っている時点で妙なのだ。彼は自分が疑われる事を恐れて|失踪《しつそう》した身である。ならば、一刻も早く学園都市から逃げ出そうとするのが筋てはないのか。いかに強大な|警備員《アンチスキル》や|風紀委員《ジヤツジメント》でも、『外』にまで強い|影響力《えいピようりよく》を持ち出せない。彼らの治安維持能力は、あくまでこの街の中でしか使えないのだから。 「スキルだけ見りゃ、天井は一流の研究者だ。多少のリスクを背負っても|匿《かくま》ってくれる『外』の組織なンざいくらでもあるだろォが」 『そうね。わたしにも分からないわ。知ってみれば案外単純なものかもしれないけれど』  わずかに|沈黙《ちんもく》が下りる。  カタカタと、電話の向こうからキーを|叩《たた》く音だけが|響《ひび》いてくる。  やがて、|一方通行《アクセラレータ》は言った。 「天井のヤツが|打ち止め《ラストオーダー》を連れ出したのは四時ごろだと。まだ学園都市に残ってると思うか?」 『今は夜の七時過ぎだから……三時間弱。難しいわね、と言う所だけれど、今回ばかりはわたし|達《たち》に運が向いているようよ』 「あン?」  |一方通行《アクセラレータ》は電話の向こうへ意識を向ける。芳川は今も作業中なのか、キーボードの音が流れる中、 『「外」から何者かが警備網を突破して、強引に街の中へ侵人したそうなの。おまけに昼過ぎには第七学区のファーストフード店近くで大規模な|戦闘《せんとう》が起きている。|警備強度《セキユリテイコード》は昼…の時点でオレンジ、今ではレッドに達しているわ。|第二級警報《コードオレンジ》……分かるわよね』  オレンジは『テロリストの侵人の可能性がある状態』レッドは『テロリストの侵人が完全に確定した状態』を表す。どちらも発令されれば学園都市の内外への出入りは完全に禁止されるはずだ。コンビニの店長などは商品が配送されずに困り果てているかもしれない。  昼の時点でオレンジが発令されたのならば、四時過ぎに天井が|打ち止め《ラストオーダー》を回収した所で街の外へは逃げられない。どこの|馬鹿《ばか》か知らないが、とにかく今は感謝する。 「ヤツはまだ街の中にいる。なら、ヤツはどこにいると思う?」  その問いに、芳川はキーボードを叩きながら、 『探るのは難しいわね。けれど、人混みは|避《さ》けるのではないかしら。いい大人が裸に毛布一枚の女の子を連れて歩けばいくら何でも目立ちすぎる。逃亡者たる|天井亜雄《あまいあお》がそれを望むとは思えないわね』  一理あるが、しかし厄介だと|一方通行《アクセラレータ》は思った。今日は八月三一日。ほとんどの学生|達《たち》は家にこもって宿題と|格闘《かくとう》しているため、街全体が、ゴーストタウンのように人がいないのだ。 「オマエ、警備ロボットやら人工衛星やらの監視データに侵人できねェのか。片方の封筒には街の警備システムに侵人して天井亜雄の潜伏先を追ってたデータがあったろ」 『機械仕掛けのセキュリティなんて口で言うほど|完璧《かんぺき》ではないわ。大体、その厳戒体制の中でわたし達はあれだけの「実験」を行ってきたのよ?』 「……、」 『セキュリティは追跡のサポートぐらいにしか思っていないわ。わたしは主にむ金の移動によって標的を迫尾しているの。キミ、今の紙幣にはICチップが埋め込まれているって話は知っているかしら?』 「あァ? アレだろ、カラーコピーでバンバン|偽札《にせさつ》が作られるから、そのための対策だっつゥヤツ」 『実はあれにはもう一つの顔がある。持ち主の個人情報を記録する事により、お金の流通情報を逐一収集するための、ね』|芳川《よしかわ》はキーを|叩《たた》きながら、『カードは元より現金で一〇〇〇円以上の買い物をすれば情報が盗まれる時代なのよ、今って。———しかし逆に言ってしまうと、あの子みたいに完全にお金を使わない路上生活をされると動向を追えなくなってしまう』 「じゃあ良い、質問を変える。今まで天井のヤツはどンな風に逃げてたンだ?」 『基本は車での移動。公園や|廃櫨《はいきよ》に車を|停《と》めて寝泊りしていたみたいね。ただし体を洗ったり食料やガソリンを手に人れるためにお金を使っているから、完全に足取りを消す事はできなかったようなの』  芳川は再びキーボードを叩く音を鳴らしながら、あっさりと答える。 「ホテルとか宿泊施設は使わなかったって訳か。知り合いの家を訪ねた事は?」 『そもそも、知り合いと呼べる人がいたのかしらね』 『……、そりゃまた。俺みてェなクズだな」 『彼は|量産型能力者《レデイオノイズ》計画の研究所の閉鎖に伴い、かなりの負債を抱えているの。、私設だったからね、感覚的には倒産した会社社長といった具合よ。金の切れ日は縁の切れ目ってヤツではないかしら』  つまらなそうに舌打ちしつつ、|一方通行《アクセラレータ》は考える。、 「ヤツは今、この街から逃げられねェンだよな?」 『検問を恐れているのなら、その学区から逃げる事もできないでしょうね』 「ふゥン、ならよ」  |一方通行《アクセラレータ》は一つの建物の名前を告げた。  |芳川桔梗《よしかわききよう》は少し|驚《おどろ》いたように声をあげた。 『ちょっと待ちなさい。……おかしいわね。確かに|天井亜雄《あまいあお》は、今まで一度もそこへ近づいていないわ。彼なら真っ先にそこへ向かいそうなのに……』 「真っ先に思い浮かぶような場所は|避《さ》けて通るモンだろ、普通なら。けど、人間ってのは余裕を失うたびにドンドン行動が単純になってくモンなンだぜ」  ニヤニヤと笑いながら、|一方通行《アクセラレータ》は大きな通りを歩いていく。  向かう先は、一つの研究所の跡地。  かつて、|超能力者《レベル5》『|超電磁砲《レールガン》』の|量産型能力者《レデイオノイズ》の開発を行っていた施設だった。      6(Aug.31_PM07:27)  ある研究所跡地の|側《そば》に、一台のスポーツカーが|停《と》まっていた。  冷房の|利《き》き過ぎた狭い車内で、しかし天井亜雄の|掌《てのひら》はべっとりと汗で|濡《ぬ》れていた。  汗のにじむ手で、ギリギリと痛む胃袋を押さえつける。  本当なら研究所の敷地に入りたかった。建物がそのまま残されている跡地の中なら、いくらでも車を隠す事ができる。人工衛星の目もごまかせるだろう。だが、今の天井には正面ゲートを|縛《しば》る太い|鎖《くさり》と|錠《じよう》を取り払う事もできなかった。  かと言って、ここを離れる事もできない。少しでも車を動かせば検問に引っかかるおそれがあるし、車を捨てようにも裸同然の|最終信号《ラストオーダー》を抱き上げて街を歩けば確実に引き止められる。 「くそ」  選択を間違えた、と天井は後悔する。本来ならば|最終信号《ラストオーダー》の頭にウィルスを注人した時点で、速やかに学園都市の『外』へ逃げている手はずだった。『外』には学園都市の敵対勢力のメンバーが待っている。後は彼らの|誘導《ゆうどう》に従い国外へ逃亡、超能力関連のスキルを|手土産《てみやげ》に好きな国の好きな研究所にでも行けば済むだけの話だった。  なのに、|最終信号《ラストオーダー》はウィルスを注人された途端に逃げ出してしまった。  天井亜雄の『計画』はこの時点で崩れ始めた。  |最終信号《ラストオーダー》は元々、培養器の外では長く生きられない未調整の肉体なのだ。下手をすればウィルス起動前に、|最終信号《ラストオーダー》が死んでしまうかもしれない。  そうなれば世界中に散らばった|妹達《シスターズ》にウィルスは感染しない。結果、|破壊《はかい》工作は失敗してしまう。それを『敵対勢力』は許さないだろう。天井の逃亡の手助けを断るどころか、もはや抹殺されても文句は言えない。  天井は|最終信号《ラストオーダー》を捕らえる必要があった。|奇《く》しくも、彼女の命を守るために。  培養器を用意できない現状では、日的を達成できているとも思えなかったが。  この一週間、|焦《あせ》りに焦って|最終儒号《ラストオーダー》を捜し続け、|何故《なぜ》か|一緒《いつしよ》にいた凶悪な|一方通行《アクセラレータ》の目をかいくぐる形でようやく目的のものを捕獲したというのに、この|醜態《しゆうたい》だ。 「……」  |天井亜雄《あまいあお》は助手席へ|睨《にら》むように視線を向ける。  毛布に包まれるように、肉体未調整の|最終信号《ラストオーダー》がシートに沈んでいた。金身汗だくで、呼吸は浅く、注意しなければ聞き取れないほどだった。  |最終信号《ラストオーダー》の顔にはいくつかの電極が|貼《は》り付けてあった。そこから伸びるコードは、彼女の|太股《ふともも》の辺りに置かれたノートパソコンに|繋《つな》がっている。  画面には|最終信号《ラストオーダー》の脈拍、体温、血圧、呼吸数などの|生体数値《バイタルサイン》が表示されている。その数字やグラフは一般人が見ても読み取れないだろうが……見る者が見れば絶句していただろう。いつ呼吸が止まってもむかしくないレベルだ。 (なんという事だ。なんていうタイミングで……)  天井照雄には逃げなければならない理由がある。  彼は|常盤台《ときわだい》の|超電磁砲《レールガン》をベースにした|量産型能力者《レデイオノイズ》計画の責任者だ。ところが量産型の|低い性能《ロースペツク》では|超電磁砲《レールガン》を再現する事はできず、計画は頓挫し、研究所は|閉鎖《へいさ》。莫大な借金を背負った所で、かろうじて拾ってくれたのが|一方通行《アクセラレータ》の|絶対能力《レベル6》計画だった。  ところが、その計画もほぼ永久凍結と化してしまった。  これでは借金を返せない。  もう学園都市に居場所はない。残るのは|潜水艦《せんすいかん》でも購人できそうなほどの莫大な借金だけだ。 |量産型能力《レデイオノイズ》計画の研究所は|絶対能力《レペルサ》計画のものと違って私設であった事が大きな痛手だった。 それでも生きたければ、借金を踏み倒して逃げるしかなかった、  そのために|得体《えたい》の知れない連中と手を組んだのだ。ここまできて相手に手を離されたら、今度こそ彼は|奈落《ならく》の底まで落ちる羽目になる。学園都市と敵対勢力、その双方に板挟みにされて逃げ切れると思えるほど天井瓶雄は楽観主義者ではない。 (くそっ、くそっ! そうだというのに、何で!!)  天井は狭いスポーツカーの車内で、ハンドルを|殴《なぐ》りつける。  逃げ出した|最終信号《ラストオーダー》は、今日になってようやく捕らえる事はできた。だが、折り悪く警備体制がオレンジ、レッドと次々に変更、彼は学國都市から出られなくなる。おまけに|最終信号《ラストオーダー》の体調は予想以上に悪く、このままでは本当にウィルス起動前に事切れてしまうかもしれない。 (|頼《たの》む、頼む。あと少しだけで良い、ウィルス起動まで|保《も》ってくれ!)  |最終信号《ラストオーダー》の肉体を調整できる施設ならいくつか心当たりがある。が、警戒体制がレッドに移行した事により、街の至る所に検問を敷かれてしまった。。空色の毛布一枚の裸の少女を連れて検問は突破できない。。それが人の手で作られた、ID未登録の最産個体ならばなおさらだ。  天井亜雄は学園都市の『外』どころか、街の一ブロックからも逃げられなくなった。そうして今、起動するかどうか分からないウィルスに全てをかけて、狭い車内で震《ふる》えている。  ふと、フロントガラスの前を何かが横切った。 「!?」  |天井《あまい》は反射的にハンドルに落としていた視線を前方へ跳ね上げた。が、それは|瞥備員《アンチスキル》や研究者といった追っ手とは無縁の存在だった。カラスである。真っ黒なカラスが右から左へ横切っただけだった。 「あ」  だが、天井の目は大きく見開かれた。 メ《ごし》|《あお》|ま 前方には誰もいない。ただただ無人の街並みが広がっているだけだ、天井亜雄にとって危険なものなど何もない。彼の姿を遠目に見れば、恐怖に平静を失った天井がありもしない幻覚に|脅《おび》えているように思えた事だろう。 「ああ」  しかし[#「しかし」に傍点]、そもそも天井は前方など見ていなかった[#「そもそも天井は前方など見ていなかった」に傍点]。  彼が見ているのはルームミラー。  後方を映す小さな鏡を見て、天井の顔から血の気が引いた。眼球の黒目がぐらぐらと揺らぎ、全身を|薄《うす》い膜で|覆《おお》うように汗が噴き出て、指先がカチカチと|震《ふる》える。  ルームミラーには、一人の少年が映っていた。  天井の乗る黄色いスポーツカーの背後から、ゆっくりと迫るように歩いてきた。  |白濁《はくだく》し白熱し白狂したような、純白の|超能力者《レベル5》が。 「……、ぃ、ひ!」  天井の|喉《のど》から変な音が漏れた。  彼からすれば、|一方通行《アクセラレータ》が何をするためにここへ来たか、その理由は分からないだろう。だが、|一方通行《アクセラレータ》が何かをしようとしている、という事がすでに危険なのだ。  |一方通行《アクセラレータ》は、迷わず天井の乗るスポーツカーへと近づいてくる。  天井は助手席の|最終信号《ラストオーダー》を見る。  それは雪の結晶よりも|繊細《せんさい》に扱わなければならない個体だ。|一方通行《アクセラレータ》が何をしようとしているか知らないが、あんな化け物に預ければ一秒と待たずに|崩壊《ほうかい》するに決まっている。  |最終信号《ラストオーダー》を渡す訳にはいかない。  そのためには、あの化け物を|迎撃《げいげき》しなくてはならない。 (しかし、どうやって!?)  白衣の|懐《ふところ》には|拳銃《けんじゆう》が収まっているが、そんなものでどうにかできる相手ではない。生身の体で彼と戦うなど、ランボルギー二・ガヤルドとマラソンするような、九〇式戦車と綱引きをするような、それぐらい|無謀《むぱう》な事なのだ。  ならば、逃げるしかない。  ガチッ、と|天井《あまい》は車のエンジンキーを握り締めた。  。震える手では、キーをカギ穴に挿す事すら難しい。彼は泣きそうな顔で何度も何度も挿し損なって———ガチン、と。ようやくキーが刺さった。  勢い良くキーを回す。  エンジンが|稔《うな》りをあげた。|緊張《きんちよう》のあまり天井はクラッチ操作を間違えて、スポーツカーは|尻《しり》を蹴られて跳ねるように前進する。      7(Aug>31_PM07:39)  |一方通行《アクセラレータ》は、いかにも慌てていますと…冨わんばかりの乱暴な発進をする天井の車をニヤニヤと笑って眺めていた。 (さって、と。あのガキは……乗ってンのか。てっきりトランクにでもぶち込まれてると思ったンだが、まァ天井にとっても死なれちゃ困る相手だろォしなァ)  適当に考えながら、|一方通行《アクセラレータ》はわずかに身を落とす。  ダン! と地面を蹴る。  |一瞬《いつしゆん》で一〇メートル近く上方へ飛び上がった|一方通行《アクセラレータ》は、そのまま天井のスポーツカーを追い越して、目の前へと着地した。運転席にいる男の顔が引きつるのが分かる。慌ててハンドルを切ったようだが、遅すぎた。アクセルを底まで踏み込まれた国簾の安っぽいスポーツカーは、それこそ砲弾のような勢いで|一方通行《アクセラレータ》へ突っ込んだ。  空き缶を踏み|潰《つぶ》す音を一千倍に増幅させたような、金属を押し潰す|轟音《ごうおん》が|響《ひび》いた。  それでいて、|一方通行《アクセラレータ》は一歩も動いていない。髪の毛一本すら揺らいでいない。潰れていたのは自動車の方だった。|真《ま》っ|直《す》ぐ突っ込んでくる車の『向き』を、|全《すべ》て真下へ変換されたのだ。 スポーツカーの四本のタイヤが一瞬でパンクし、ホイールが卵型に|歪《ゆが》んだ。車高は完全なるゼロに|変貌《へんぼう》し、アスファルトの中へ数センチもめり込んでいた。車体そのものが歪んだのか、前後左右全てのガラスが粉々に砕け散る。  運転席の天井の顔が、歪んだように笑っていた。  これだけ自動車が|破壊《はかい》されているのに、中に乗っていた自分が無傷だった事が信じられないのだろう。エアバッグも作動していない。その手加減は、端的に|一方通行《アクセラレータ》と天井|亜雄《あお》の実力差を示していると言って良い。 「ぃ、ぎ……く、くそ!」  天井は泣きそうな顔でアクセルを何度も踏んだが、そもそもホイールの形が歪んで泥よけに食い込んでいるのだ。この状態で車が動くはずもない。一〇秒以上も|経《た》ってようやく気づくと、天井は|打ち止め《ラストオーダー》を切り捨ててでもとにかく逃げようと思ったのか、運転席のドアを勢い良く開け放つ。 「落ち着けよ中年。みっともねェっつの」  ガン、と|一方通行《アクセラレータ》は車のバンパーを軽く|蹴飛《けと》ばした。その|衝撃《しようげき》をどう操ったのか、開きっ放しだった運転席のドアが勢い良く閉じる。ドアの開閉というより、巨大なトラバサミのような動きだった。今まさに車の外へ逃げ出そうとしていた|天井《あまい》はドアに挟まれ、肺の中の空気を全部吐き出すと、ずるずると地面の上へ崩れ落ちて、ピクリとも動かなくなった。 「あー、悪りイな。ムチャクチャ地味な倒し方で。まァ死ぬよかマシだろ」  返事はないが、最初から期待はしていない。|一方通行《アクセラレータ》は助手席を見た。文字通り飼い主に|噛《か》み付いた運転席とは対照的に、助手席は揺りかごのように優しく一人の少女を抱えていた。 「手間かけさせやがって、クソガキが」  |一方通行《アクセラレータ》は体内に|溜《た》まっていた重圧を漏らすように一言だけ|呟《つぶや》くと、携帯電話を取り出す。 「|芳川《よしかわ》か? ああ、ガキなら保護したぜ」  ウィルス起動まで、あと四時間あまり。      8(Aug.31_PM0803)  |一方通行《アクセラレータ》は助手席のドアを開けた。毛布に包まれた|打ち止め《ラストオーダー》は反応しない。ぐったりと投げ出された手足が、気持ちの悪い汗に|濡《ぬ》れていた。  |一方通行《アクセラレータ》は|打ち止め《ラストオーダー》を助手席から運び出そうとしたが、ふと思い|留《とど》まった。 「オイ、クソガキの顔に電極みてエなモンがついてンだけどよ。これって|剥《は》がさねェ方が良いのか?」 『ん? もう少し、詳しく話してくれないかしら』  芳川は|一方通行《アクセラレータ》の言葉をしばらく聞いていたが、 『おそらく、それはウチのスタッフが持っている、|妹達《シスターズ》の|身体検査《システムスキヤン》用キットだわ。呼吸、脈拍、血圧、体温などの|肉体《ハ ド》面と、人格データなどの|精神《ソフト》面の健康状態を表示しているだけよ。 電極は剥がしてしまっても問題ないわね』  電極から伸びたコードはノートパソコンに|繋《つな》がっていた。モニタにはいくつものグラフが描かれている。グラフの|他《ほか》にも、%表示で何かの数値が刻まれていた。数値の横には『BC稼働率』とだけ書かれている。  何だこれは、と彼が尋ねてみると、 『ああ、それは|最終信号《ラストオーダー》の脳細胞の稼働率ね。ブレインセルでBC』  |一方通行《アクセラレータ》はギョッとした。人間の脳細胞の動きを一つ残らず監視しているなんて並大抵の事ではない。この小さな機械だけでできるとは思えなかった。|妹達《シスターズ》は電気使いなので、彼女の方から何らかの補助をしているのかもしれない。  どちらにしても、彼にとっては未知なる技術だった。 「なァ。この機械を使ってこのガキのウィルスを駆除できねェのか? ここからガキを連れて帰るにしても結構時間がかかるしよォ」 『無理ね。それは表示するだけのモニタだから。書き込みをするには、専用の培養器と|学閣装竃《テスダメント》が必要となるのよ』  ふむ、と|一方通行《アクセラレータ》は少し考えて……気づいた。  何か、電話の向こうから雑音が聞こえる。 「オイ。オマエ今、研究所にいるンじゃねェのか?」 『今さら気がつくだなんて……。わたしは今、そちらへ向けて運転中よ。車に培養器と|学習装置《テスタメント》を積んでいるの。キミが研究所へ引き返すよりは、時間を短縮できると思ってね。わたしの姿を見ればあの子は逃げようとするかもしれないけれど、キミの運動性能があれば逃げ切る事はできないでしょう』  だからキミはそこで待っていなさい、と|芳川《よしかわ》は言った。 『|流石《さすが》に巨大な量子コンピュータまでは積み込めなかったのだけれど、DNAコンピュータの方にちょうど良い大きさのものがあったから、それも持ってきて、ね。マシンパワーは劣るけれど、今の作業はこれだけの容量があれば問題ないのよね』 「……、あのよォ。機械任せで解析できンなら、オマエは赤ペン持ってナニやってたンだ?手作業なンざする必要ねェだろォがよ」 『機械任せは|融通《ゆうづう》が|利《き》かないというか、お|行儀《ぎようぎ》が良すぎるというか……それはそれで問題があるの。キミ、テレビゲームはご存知? あのデバッグだって結局最後は人の手でコントローラを握って総当たりで行うものなのよ。データを機械に通して、それを手作業で修正して、それが間違っていないか再び機械に通して……の繰り返しといった所かしらね』  |一方通行《アクセラレータ》は|打ち止め《ラストオーダー》の顔についた電極に手を伸ばそうとした所で、ふと話し掛けた。 「で、オマエの方はウィルスコードの解析は終わってンのか?」 『八割方と言った所かしらね。解析が終わった後に駆除用のワクチンコードを書かなければならないから、状況としてはギリギリといった所よ』  もちろん間に合わせてみせるけれど、と芳川は力強く言った。  何か、|普段《ふだん》の彼女らしくないと|一方通行《アクセラレータ》は|眉《まゆ》をひそめつつも、少しだけ肩の力を抜いた。ようやくだが、事態は解決の方向へと動きつつあるのを感じられた。 (ったく、面倒臭せエ。どこまで手問かけさせやがるつもりだこのクソガキ)  |誰《だれ》かを待つ、という行為を、|一方通行《アクセラレータ》は初めて知った。一秒一秒の時間が無意味に引き伸ばされていくような感覚だ。あまり気持ちの良いものではない。彼が|苛立《いらだ》ち紛れにトントンと軽くアスファルトを踏むと、それだけで道路に不気味な|亀裂《きれつ》が走る。 「み、サ——————」  と、不意に少女の口が動いた。  まるで猛烈な渇きに|襲《おそ》われた人間が水を欲するように、|震《ふる》える唇をわずかに動かして、 「み、さか、は……。みさ、ミサカ、は—————」  目を閉じたまま、唇だけが動く。必死に、|懸命《けんめい》に、何かを訴えるように。|一方通行《アクセラレータ》はそれを聞くべきかどうか思案した。どの道、専門家である|芳川《よしかわ》がやってこない事には、彼女の痛みを|和《やわ》らげる方法などないのだが 「み、サ———…カ、ミサ。カはミサ、カはミサ! カはミサカはミサカはミサカミサカミサカミサカミサミサミサミサミサミサミサミサミサミサミサミサミサミサミササミサミサミサミサミサM<iju0058@Misagrミサqw0014codeLLGミサかミサカieuvbeydla9((jkeryup@[iiG:**uui%%ebvauqansicdaiasbna:——————ッ!!」 「あァ?」  突然叫び始めた|打ち止め《ラストオーダー》に、思わず|一方通行《アクセラレータ》は声をあげた。  それはあまりに異常な姿だった。|一方通行《アクセラレータ》の目の前で、少女の|華奢《きやしや》な体は打ち上げられた魚のように暴れ回っている。背が大きく|仰《の》け反る。ギシギシと|軋《きし》む音は骨か筋肉か。それでも少女の顔に苦痛の色はない。むしろ聖歌でも|披露《ひろう》するかのような歓喜の色すら感じられる。  だが、一点。  閉ざされた少女のまぶたの奥から、涙がにじむのが見えた。  そこだけが、歓喜ではなく。  激痛に|彩《いろど》られていた。  ノートパソコンのモニタの中が荒れ狂っていた、無数の警告文のウィンドウが、まるで窓に雨粒がぶつかるように次々と表示され、画面のほとんどを埋め尽くした。ピーピーと訳の分からない警告音だけが嶋り|響《ひび》く。 「くそ! オイ芳川、これはどオなってる? これも何かの症状の一つなのかよ!」 『落ち着いて。一から順に説明して! それだけでは状況が伝わらないわ。そうね、あなたの携帯電話にカメラはある? テレビ電話の機能があれば一番好まし———』  言いかけた芳川の声が、|驚《おどろ》きに息を|呑《の》んだように途切れた。通話が切れたのではない。何か口の中で|呟《つぶや》くような、独り言が聞こえてくる。内容はウソ、マサカ、デモコンナコトッテ。 「オイどォしたンだよ! これって何か応急処置とかできねェのか!?」 『ちょっと|黙《だま》って。キミ、その子の言っている事を良く聞かせてもらえないかしら』 「だから説明し———」 『早く!!』  切羽詰まった芳川の声に、|一方通行《アクセラレータ》はただなら滋ものを感じた。ただし、彼が何をするまでもなく、絶叫するような|打ち止め《ラストオーダー》の声は携帯電話の向こうへと届いているだろう。 「aweuvll;**0012uui%%0025$#gui‘&=//nsyulljwidnl’jwucla:@」aucneisdkaudj———ッ!!」 もはやどこの国の言語でもない少女の絶叫。  それを聞き取った|芳川桔梗《よしかわききよう》が息を|呑《の》むのが、携帯電話を通して聞こえてくる。 『やっぱり……、そうなのね』 「何だよ? 何が起こってる!?」  |苛立《いらだ》つ|一方通行《アクセラレータ》に、芳川は簡潔に答えた。 『ウイルスコードよ、それ。暗号化されているみたいだけれど。そのウィルス、もう起動準備に入っているんだわ』  |一方通行《アクセラレータ》の全身が硬直した。  確か、ウィルスの起動は九月一日午前〇〇時〇〇分のはずだ。今はまだ午後八時過ぎ。時聞にして四時間弱はあるはずなのに……。  考えられる可能性は一つしかない。  ダミー情報。  敵は、|天井亜雄《あまいあお》は、わざと間違えたタイムリミットを伝えたのだ。敵の与える情報が|全《すべ》て真実であるはずがない。|一方通行《アクセラレータ》自身が言ったはずだ、最初からウィルス起動時間を伝えてくるだなんて、ゲームの条件としては甘すぎると。  単純にして凶悪な、遊び心のようなワナ。  おそらくは天井自身、こんなワナが本気で役に立つとは思っていなかっただろう。保身というよりは、余力やオマケとして付け加えたに過ぎなかったはずだ。  |一方通行《アクセラレータ》は思い出す。このウィルスが起動するとどうなるかを。 『定刻と共にウィルスは起動準備に入り、以後一〇分で起動完了、ミサカネットワークを介し現存する全|妹達《シスターズ》へ感染、そして暴走を開始』  腕の中の少女がどうなるかを。 思い川す。 『まだ完全にコードを解析していないから何とも膏。口えないのだけれど、おそらく症状としては人間に対する無差別な|攻撃《こうげき》という所かしらね』  |一方通行《アクセラレータ》は、動けなかった。  |打ち止め《ラストオーダー》が意味の分からない絶叫を繰り返す。何百もの警告文のウィンドウに、ノートパソコンのモニタはほとんど埋め尽くされていた。かろうじてウィンドウとウィンドウの|隙間《すさま》から、『BC稼働率』———脳細胞の稼働率が見える。  その数値はドンドン伸びていく。七〇%、八三%、九五%ときて……一〇〇%を超えても、そのままさらに伸びていく。  |打ち止め《ラストオーダー》の小さな体が、電気でも浴びたように大きく|仰《の》け反った。  その『BC稼働率』すらも、新たな警告文ウィンドウに塗り|潰《つぶ》される。  まるで、元からあった|打ち止め《ラストオーダー》の人格データの上から、|得休《えたい》の知れないウィルスデータが埋め尽くすように。  携帯電話を通して|芳川《よしかわ》が何かを言っていたが、もう一|方通行《アクセラレータ》は聞いていなかった。 間に合わない。  芳川はまだウィルスコードを調べ終わっていないし、ワクチンも組んでいない、しかも調べていたコードにはダミーも含まれていて、安全なワクチンができる保証もない。それに第一、設備のある研究所まで彼女を運ぶ事もできない。  ウィルスを組んだ|天井《あまい》なら、コードの事も分かるだろう。だが、今から天井に|全《すベ》てを吐かせて、なおかつそれからワクチンを組むほどの余裕はない。  得体の知れない感触が、|一方通行《アクセラレータ》の頭の裏をジリジリと焼いた。しかし、彼がその正体を知る前に、芳川の冷静な言葉がその思考を無理矢理に断ち切る。 『聞きなさい、|一方通行《アクセラレータ》。嘆くのはまだ早いわ。キミは手を打たなければならないの』 「……、手? まだ手があンのか?」 『ウィルスはミサカネットワーク上へ配信される前に、現在のコードを各|妹達《シスターズ》が絶対に逆らえない『上位命令文』に変換するための準備期間があるの。最初から『上位命令文』で書いたら正常な人格データの中から浮いてしまってウィルスコードが簡単に探し出せてしまうから、その対策ね。時聞はわずか一〇分問。もう分かっているわね、キミにできる事はただ一つ、————処分なさい、その子を殺す事で、世界を守るのよ』  芳川の言葉には、|打ち止め《ラストオーダー》を助ける事など始めから含まれていなかった。  そういう意味での、手を打てという事だった。  世界を守る。  至る所に散らばる|妹達《シスターズ》の暴走を止めるためには、この手で少女を。  今ものた打ち回り、救いを求める声もあげられない、この少女を。  |一方通行《アクセラレータ》は|嘲《あざけ》るように笑った。よりにもよって、この人殺しにしか使えない力をそんな大それた事のために使えという。それも最小の被害を|黙認《もくにん》する事で、たった一人の少女をぶち殺す事で。  時間がくれば、|打ち止め《ラストオーダー》の頭に書き込まれた命令文は、彼女の心をズタズタに引き裂く。それを止めるただ一つの方法は、心が|壊《こわ》れる前に彼女の命を奪う事だけだ。 「クソったれが……」  何を選んでどう進んだ所で、彼女はもう助からないならば。  せめて笑って殺してやれと、芳川|桔梗《ききよう》は言っているのだ。 「くそったれがあああああああああああああああああああああああああああああああ!!」  |一方通行《アクセラレータ》は歯を食いしばった。胸の奥がジクリと痛んだ。操車場であの|無能力者《レベル0》に|殴《なぐ》られたのとは違う痛みだった。比べ物にもならなかった。それが失う痛みだと知った。思い知った。 そして腕の中の少女の重みを知った。これを、一万回だ。この一万倍もの痛みを|誰《だれ》かに押し付けたのだと、その事にようやく|一方通行《アクセラレータ》は気づく事ができた。  気づいた所で、もう遅い。  何かを|為《な》すには、あまりに遅すぎる。  |一方通行《アクセラレータ》は思わず叫んだが、かと言って彼に打開策がある訳ではない。  彼の力では|打ち止め《ラストオーダー》の頭に刻まれたウィルスの駆除はできない。そんな便利な機能はない。 最強の力と言っても、ようは運動量・熱量・電気量などの力の『|向き《ベクトル》』を変換するしか能はない。それも使い道は人殺しばかりだ。彼はこれだけの力を持っていながら、思いつく事など他人の|皮膚《ひふ》に触れて血液や生体電気を逆流させ体を爆砕させるぐらいしか (……、?)  そこまで考えて、ふと|一方通行《アクセラレータ》は何かが引っかかった。  自分の言葉を、自分で吟味する。  生体電気の逆流? (待て。何が引っかかってンだ?)  |一方通行《アクセラレータ》は頭の中に次々と言葉の切れ端を思い浮かべていく。  ぶわ……ッ! と。彼の中で時間の流れが急速に落ちていく。 (制限時閏は一〇分弱。助けは呼べない。手元にあるもの。データスティックと電子ブック。収まっているのはウィルス感染前の人格データ。。|超能力《レベルニ》『|一方通行《アクセラレータ》』。運動量、熱量、電気量などを問わずあらゆる『向き』を変換する能力。必要なもの。|学習装置《ヒブスタメント》。電気的な方法で脳内の情報を操る装潰。電気信号の制御。ワクチンプログラム。|膨大《ぼうだい》な人格データの中からウィルスコードを見つけ削除するためのデータ、時間内にウィルスが削除できない場合の打開策。 |打ち止め《ラストオーダー》を殺す事)  |一方通行《アクセラレータ》の思考速度がめまぐるしく上がっていく。  言葉の|羅列《られつ》から|無駄《むだ》な部分が省かれていき、意味のある文章へと|淘汰《とうた》されていく。  わずか数秒の時聞が永遠に感じられるほどに、彼は思考に没頭する。 (殺さないためには。ウィルスを削除するしかない。やる事は二つ。一つ目は|打ち止め《ラストオーダー》の膨大な人格データの中から、ウィルスコードだけを検出する事、二つ目は|打ち止め《ラストオーダー》の脳内の電気信号を操り、検出したウィルスコードだけを正確に削除する事)  超能力開発を授業に盛り込む学園都市にとって、学園都市最強の能力者とは学園都市最高の頭脳を持つという事を意味している。かつて、街を流れる風の動きを粒子レベルで精巧無比に予測演算した|一方通行《アクセラレータ》の思考回路は、その|全《すべ》てを使って突破口を模索する。 (データスティック。中身は『感染前』の人格データ。これと現在の『感染後』の人格データの差を求めて。———。待て。そもそも|俺《おれ》は何に引っかかった。白虐的な|罵倒《ばとう》。思い出せ。俺自身の得意な事。最も簡単に思いつくもの)  そこまで考えて、|一方通行《アクセラレータ》は|電撃《でんげき》に|撃《う》たれたようにビクリと肩を|震《ふる》わせた。  生体電気の逆流。  本当に|一方通行《アクセラレータ》の能力が、力の種類を問わずにあらゆる『|向《ペクトル》き』を操作できるならば。  |皮膚《ひふ》に触れただけで、血液や生体電流の流れを逆流できるこの力ならば。  彼は顔を上げる。思考開始から終了まで、一〇秒もかからなかった。 「オイ。脳内の電気信号さえ制御できりゃあ、|学習装置《テスタメント》がなくてもあのガキの中の人格データをいじくる事ができンだよな?」 『何を……』  言いかけて、|芳川《よしかわ》は何かに気づいたようだ。  |学習装置《テスタメント》は人の脳を電気的に操作する事で、人格や知識を|強制人力《インストール》するための装置だ。 『……まさか、キミ自身が|学習装置《テスタメント》の代わりをするというの? 無理よ、確かにキミの能力はあらゆる力の「|向き《ベクトル》」を自在に操る事ができるわ。それでも、人の脳の信号を操るだなんて……ッ!』 「できねェ事はねェだろ。現に『実験』中にゃ皮膚に触れただけで全身の血液や生体電気を逆流させて人を殺した事だってあ。るンだ。『反射』ができた以上、その先の『操作』ができたって不思議じゃねェ」  もちろん、実際に他人の脳内の信号を操った事なんてない。絶対に成功する自信もない。  だけど、もうやるしかない。できれば|学習装置《テスタメント》を使った方が良い。対ウィルス川のワクチンプログラムが用意されていれば|完壁《かんべき》だ。だが、そんな都合の良い条件なんてない。それでも|諦《あきら》めたくなければ、この場にあるも、のでどうにかするしかないのだ。  自分のこの手で。  間に合わせでも良いから、とにかく助けるしかない。 『できっこないわ、そんなもの。仮にキミの力で|最終信号《ラストオーダー》の脳内を操る事ができるとしても、対ウィルス用のワクチンプログラムは完成していないのよ。今のキミにウィルスを完全に駆除する事なんて不可能よ』 「……、」  確かに、芳川はまだウィルスの解析を終えていない。しかも、ダミーのコードに気づかなかった所を見ると、解析したデータに間違いがある可能性も否定できない。 『いい? わたしは殺せと言ったのよ。。キミの一〇〇倍もあの子の体の仕組みを理解しているこのわたしが、殺すしかないと判断したの。この意味が分かる?』芳川の声が、凍える。『キミの手で|最終信号《ラストオーダー》のウィルスの駆除なんてできるはずがない。そして失敗すれば|犠牲《ぎせい》になるのは一万もの|妹達《シスターズ》。さらに問題が発展すれば学園都市は世界を敵に回す事になる。それを|避《よむ》けるためには|最終信号《ラストオーダー》は|諦《あきら》めるしかないの』  |芳川《よしかわ》は|諭《さと》すような声色で、その実、相手を突き放すように言った。 『もっとも、今のキミにワクチンが用意できれば話は別だけど。キミにできる? ウィルスはもう数分で起動準備を終えてしまうこの状況で!』 「できるさ」  |一方通行《アクセラレータ》は即答した。その声に、芳川|桔梗《ききよう》は息を|呑《の》んでしまう  彼は助手席に横たわる|打ち止め《ラストオーダー》に視線を向けると、改めて封筒の中身を見た。データスティックには『検体番号ニ〇〇〇一号・人格要綱/感染前』と書かれている。  ウィルス感染前の人格データはここにある。つまり、今の|打ち止め《ラストオーダー》の頭とこの人格データを照らし合わせ、余計な部分を見つける事でウィルスコードを浮き彫りにできる。それができたら、後は異常なデータの上から、。正常なデータを上書きして修正すれば良い。。ちょうど、デコボコな鉄板をハンマーで|叩《たた》いて平らにするように。  その浮き彫りにされたウィルス感染箇所の修正用データは、俗にワクチンと呼ばれている。 「クソったれが。……できるに決まってンだろォが。|俺《おれ》を|誰《だれ》だと思ってやがる」  携帯電話が何かを言っているが、彼はもう聞いていない。電源を切ろうとした所で手が滑り、携帯電話は地面に落ちたが、彼は拾おうとも考えなかった。 |一方通行《アクセラレータ》は口の端を|歪《ゆが》めて笑う。  彼はもう知っている。その解決策の弱点を。彼の手にある人格データは『ウィルス感染前』のものだ。つまり、その人格データを。元に『余分なデータを|全《すべ》て上書き』した場合、『ウィルス感染後』に得た記憶や思い出は企て修正データに塗り潰されて消えてしまう。絵画のキャンバスの上から油絵の具を塗りたくって、古い絵を新しい絵で覆い隠してしまうのと同じだ。 あ あの出会いも。  あの会話も。  あの笑顔も。  その全てを、失う事になる。その痛みを、彼は背負う事になる。 「……だから、何だってンだ。忘れちまった方が、このガキのためじゃねェか」  当たり前と言えば当たり前だ。深夜の路地裏や|寮《りよう》の部屋の事を思い出せば良い。|一方通行《アクセラレータ》と共にいれば、それだけで何者かに|襲盤《しゆうげき》される恐れがあるのだから。。  確かに|打ち止め《ラストオーダー》は、恐れる事なく|一方通行《アクセラレータ》を受け人れてくれた。けれど、だからこそ、そんな人間は、こんな世界にいてはいけないのだ。  彼女は、帰らなくてはならない。  こんな化け物のいる血みどろの世界ではなく、もっと優しい光のある世界へと。  彼は一人、力なく笑うと、データスティックを電子ブックへと差し込んだ。 画面に表示される|膨大《ぽうだい》な量のテキストを、|滝《たき》が流れるような速度でスクロールさせながら読破していく。|全《すべ》てを読むのに五二秒。目を閉じて|反芻《はんすう》するのに四八秒。目を開いて自分の|記憶《まおく》と画面を照らし合わせるのに六五秒。 準備は整った。  全てを終わらせる準備は、整った。  ぐしゃり、と彼は手の中の電子ブックを握り|潰《つぶ》した。ボロボロと、ある少女の心の設計図が収まった機械の|欠片《かけら》が、彼の手の中からこぼれ落ちていく。 「……、」 『反射』を切った彼の手が、その指が、助手席に沈む少女の額へ触れる。まるで|風邪《かぜ》でも引いたような熱を帯びた|皮膚《ひふ》。そこから生体電流を|掴《つか》み、まるで触手で体内に|侵蝕《しんしよく》するようにその『|向き《ベクトル》』へ接触する。その接触した『|向《ペクトル》き』を元に、さらにその周囲の生体電気の『|向き《ベクトル》』を予測演算していく。  やがて、|一方通行《アクセラレータ》の頭の中に一人の少女の脳内構造その全てが表れた。  浮かび上がった少女の思考回路は、とても温かかった。  失いたくないと、そう思ってしまうほどに。  だけど。  それでも。 「ったく、このクソガキが。人がここまでやってんだ、今さら助かりませンでしたじゃ済まさねェぞ」  そう言って、彼は笑った。  おそらく鏡があれば自分でもびっくりしただろう、それほどまでに優しい笑みを。  |一方通行《アクセラレータ》の手が|震《ふる》える。  人を殺す事しかできなかった力を使って|誰《だれ》かを助ける。それは戦車の砲身にくくりつけたスプーンを操って赤ちゃんに離乳食を食べさせるぐらいの曲芸と言える。 「……面白工じゃねェか。愉快に素敵にビビらせてやるよ」  彼は告げる。 『力』を注ぐ。『|向き《ベクトル》』を変える。『戦い』が始まる。  ウィルス起動時間は午後八時一三分。タイムリミットまであと五二秒。      9(Aug.31_PM08:12:08) 「89aepd’das::−qwdnmaiosdgt98qhe9qxsxw9dja8hderfba8waopコード9jpnasidjレジスト9w:aeaルートAからw’コード08からコード72までの波形レッドをルートc経由でポイントA8へ代入エリアD|封鎖《ふうさ》コード56をルートSへ|迂回《うかい》波形ブルーをイエローへ変換」  意味不明だった|打ち止め《ラストオーダー》の言葉が日本語へと変換されていく。|一方通行《アクセラレータ》の体にじっとりと汗がにじむ。ジリジリと頭の奥が焼けるような|錯覚《さつかく》がした。視界が|狭《せば》まっていくのが分かる。全演算能力を一点に集中した結果、『反射』も機能せず、その汗は不快にまとわりつく。  彼は、現在の|打ち止め《ラストオーダー》の『ウィルス感染後』の人格データと、データスティック内の『感染前』の人格データの双方を照らし合わせる。  二つのデータの『相違点』が感染コードとなる。そこにはウィルス感染後に|一方通行《アクセラレータ》と共にいた|思い出《メモリ》も含まれるが、どれがウィルスでどれがメモリかは、もはや判断がつかない、  上書き修正すべきコード数が浮かび上がる。  その数合わせて三五万七〇八一。  とにかくウィルスを消すためには、|全《すべ》てのコードを削除するしかない。  |打ち止め《ラストオーダー》の|生体数値《バイタルサイン》を示すノートパソコンのモニタは、恐ろしい速度で無数の警告ウィンドウを連続表示していた。      10(Aug.31_PM08:12:14) 「コード21を波形レッドからオレンジへ変換した後にルートDを通しポイントA7、C5、F10へ分岐エリアD封鎖を解除してコード32を挿入エリアFにエクストラ権限を追加コード89から コード112までをルートAに集中以下をコード113としルートG経由でポイントD4を占有」  |打ち止め《ラストオーダー》の頭の中に流れる異物『コード』を理解すると同時、|一方通行《アクセラレータ》はそれら全てに命令を送る。コマンドはただ一文『上書き』。  ザァ……、と。  波が引くように、|膨大《ぼうだい》な信号が移動するのを彼は感知する。  |打ち止め《ラストオーダー》の体が跳ねた。  その十本の指が、見えざる糸に操られるように乱雑に動き圓る。  ウィルスとも|思い出《メモリ》とも判断できない、とにかく『危険度が高い』とされるコードが、黒いボールペンの字の上へ白い修正液を押し付けるように、片っ端から塗り|潰《つぶ》されていく。残りのコード数は一七万三五四二。  モニタに連続表示される警告ウィンドウの速度が、落ちて、落ちて、落ちて……やがて、表示されなくなった。今度は逆に、画面を埋めている警告ウィンドウが一つ、また一つと消えていく。まるで、ビデオを逆再生するように。      11(Aug.31_PM08:12:34〉 「ルー トKからのコードを全て波形イエローに変換しポイントV2、H5、Y0へ分割コード201を分割しコード202からコード205とし波形パターンはレッドに登録ルートGを構築エリアC、D、H、Jへ接続ポイントF7、R2、Z0へ分岐」  いける、と|一方通行《アクセラレータ》は確信した。ウィルス起動準備の方に先を越されていた分は、もはや完全に追い着いた。これならば時闇内ギリギリでウィルスコードを完全修正する事ができる。  残りコード数は五万九八〇二。ガリガリと塗り|潰《つぶ》されるコードを思い、|一方通行《アクセラレータ》は寂しそうに笑った。自分はウィルスと共に一体何を排除しているのかと。  手の中で電気信号が|躍《おど》る。  まるで消去される思い出の、最後の|断末魔《だんまつま》のように。  モニタの中の警告ウィンドウが消えていく。データを上書きする速度も上がっていく。ウィンドウとウィンドウの|隙間《すきま》が大きく開かれていく。  ビクビクと跳ね回る|打ち止め《ラストオーダー》の額から、汗が散った。その動きも、徐々に小さくなっていく。まるで体調が安定していくかのように。      12(Aug.31_PM08:12:45)  その時。  がさり、という物音が|一方通行《アクセラレータ》の耳に入った。ウィルスコードを上書き修正しながら目を向けると、運転席のドアに挟まれて気絶していたはずの|天井亜雄《あまいあお》が、いつの間にか|一方通行《アクセラレータ》の|側《そば》まで近づいていた。  それだけならば、何の問題もない。  だが、彼の手には黒光りする|拳銃《けんじゆう》が握られていた。 「邪魔を……す、るな」  血走った目で、天井亜雄が|呻《うめ》き声をあげる。  残りコード数は二万三八九一。まだ手は放せない。断片的に残ったコードが誤作動を起こせば、|打ち止め《ラストオーダー》の頭が|破壊《はかい》される恐れも考えられる。  モニタの警告文はもう数えるほどしか残っていなかったが、|一方通行《アクセラレータ》にはそれが|打ち止め《ラストオーダー》の状態を示しているように見えた。一つでも警告文が存在してはいけないのだ。      13(Aug.31_PM08:12:51)  互いの距離は四メートル弱。外そうと思っても外せる距離ではない。 「く……っ!?」  今の|一方通行《アクセラレータ》は|打ち止め《ラストオーダー》の脳内の信号を操るために全力を注いでいるので、『反射』に力は割けない。そんな事をすれば電子顕微鏡クラスの、精密な電気信号のやり取りに狂いが生じる。 それは|打ち止め《ラストオーダー》の脳を焼き切る事を意味していた。  残りコード数は七〇〇一。  瞥告ウィンドウはわずか九つ。  作業はまだ終わらない。ジリジリと時間が|緩《ゆる》く速度を落とす。  |天井《あまい》はおそらく|一方通行《アクセラレータ》が何をしているのか、それを理解していない。だが、天井からすれば、絶対に死なれては困る|打ち止め《ラストオーダー》を、|一方通行《アクセラレータ》なんて化け物に触れられるだけで気が狂いそうになるのだろう。 「|邪魔《じやま》を、するな」  天井|亜雄《あお》の口から泡が飛ぶ。その目が赤く血走る。  |一方通行《アクセラレータ》に銃を向ける事がどれだけ|無謀《むぼう》な事かも分からなくなっているようだった。  だが、今の|一方通行《アクセラレータ》は『反射』に力を割けない。この状態では、どうする事もできない。  あのチャチな鉛弾一発当たれば、それだけで彼は死ぬ。  |打ち止め《ラストオーダー》から手を放せ、と生存本能が告げる。『反射』を取り戻せと絶叫する。確かにそうすれば彼は絶対に助かる。|拳銃《けんじゆう》どころか核兵器が降ってきたって傷一つつかないだろう。      14(Aug.31_PM08:12:58)  だけど、それでも彼は|打ち止め《ラストオーダー》から手を放せなかった。  放せるはずが、なかった。  残るコード数は、わずか一〇二。警告ウィンドウはたった一つ。 「邪、ば、を……ごァああ!!」  絶叫する天井亜雄の|震《ふる》える手が、握られた拳銃が、その銃。口が、|一方通行《アクセラレータ》を|睨《にら》みつける。  |避《さ》ける|術《すべ》などない。  彼はただ、引き金にかかる指の動きを|呆然《ぽうぜん》と眺めている事しかできない。  乾いた銃声。  それが耳に入る前に、ハンマーで|殴《なぐ》り飛ばすような|衝撃《しようげき》が|一方通行《アクセラレータ》の|眉間《みけん》に|襲《おそ》い掛かった。 頭に受けた衝撃で、背が大きく後ろへ|仰《の》け反る。首の辺りで嫌な音が聞こえた。彼の足が、衝撃に耐え切れずに宙に浮いた。  それでも、彼は手を放さない。  絶対に、放さない。 「Error.Break_code_No000001_to_No357081.不正な処理により上位命令文は中断されました。通常記述に従い検体番号二〇〇〇一号は|再覚醒《さいかくせい》します」  ポン、と。軽い電子音と共に、最後の警告ウィンドウが消滅する。聞き慣れた少女の声が聞こえると同時に、|一方通行《アクセラレータ》は理解した。  危険なコードは|全《すべ》て、この手で上書きし終えた事を。  彼の手から、カが抜ける。銃撃の|衝撃《しようげき》に浮いた体が、ゆっくりと、ゆっくりと、温かい少女から離れていく。  宙にある|一方通行《アクセラレータ》は、手を伸ばす。  だが、伸ばした手の先は、もはや少女には届かない。  何かを願った所で、結局何も|叶《かな》わない。  何かを必死にかき集めた所で、結局全ては|掌《てのひら》からこぼれ落ちていく。 (まったく。考えが甘すぎンだよ。今さら———)  高速でブレる視界は元に戻らず、そのまま真っ暗になる。彼は|奈落《ならく》の底に落ちるように、勢い良く地面へと|叩《たた》きつけられた。泥で作った意識が崩れていくように、急速に思考が|闇《やみ》に落ちていく。 (———|誰《だれ》かを救えば、もう一度やり直す事ができるかもしンねェだなンて)      15(Aug.31_PM08:13) 「……やった? どうして、ハハ。どうして……私は生きているのだ?」  |天井亜雄《あタいあお》はゆらりと白煙を上げる自動|拳銃《けんじゆう》を握りながら、|呆気《あつけ》に取られていた。  額の真ん中をぶち抜いた。弾丸が直撃した|一方通行《アクセラレータ》は一メートル近く後方へ飛んで仰向けに倒れていた。額が裂けて、真っ赤な血が|濡《あふ》れ出している。  どういう訳か知らないが、今の|一方通行《アクセラレータ》は『反射』を使わなかったようだ。ならば、軍用の九ミリ弾を頭部に受けて生きていられるはずがない。しかも天井が使ったのは普通の弾丸とは違う、学園都市の特沈試作品だ。 |衝槍弾頭《シヨツクランサー》。  弾丸に特殊な『溝』を刻む事で、弾丸の空気抵抗を操作して『衝撃波の|槍《やり》』を作り出す特殊弾頭だ、『槍』は弾丸の通った後を追って標的に|襲《おそ》いかかる。ただ弾丸に『溝』を刻むだけで殺傷能力を五倍も一〇倍も高められる上に、急激な空気|摩擦《まさつ》の熱によって鉛の弾丸表面の『溝』は溶けてしまうため、敵側に回収されてもテクノロジーを解析させないという二つの利点を持つ。現在、対暴走能力者用に開発が進められている特殊弾頭である。  |一方通行《アクセラレータ》の頭部の傷は、弾丸と空気の|槍《やり》によって二重三重と掘り返されたはずだ。 「死んだ、な。……ハッ! |最終信号《ラストオーダー》は、ウィルスコードは17"」  |天井亜雄《あまいあお》は路上の死体から視線を外し、助手席の上で意識を失っている少女へ目を向ける。 ウィルスが起動していなければ彼は破滅だ。学園都市と敵対勢力、その双方から追われる身となってしまう。  ぐったりと手足を投げ出した少女の唇が動く。  その小さな口の中で、わずかに言葉が|紡《つむ》ぎ出される。 ヨード000001からコード357081までは不正な処理により中断されました。現在通常記述に従い|再覚醒《さいかくせい》中です。繰り返します、コード000001から————」  天井の全身の水分が、汗となって噴き出した。  ウィルスが正常に起動していれば、|最終信号《ラストオーダー》はミサカネットワークを通して一万弱もの|妹達《シスターズ》全員に『武器や能力を駆仙して、手当たり次第に人間を殺せ』という命令文を送り込んだ後に、自分の心臓を自分で止めて死ぬはずだった。それは|最終信号《ラストオーダー》経由で、暴走の収り消し命今を出させないための工作である。  にも|拘《かか》わらず、|最終信号《ラストオーダー》はまだ生きている。  ウィルスは、起動しなかった。それが何を意味するかを、天井亜雄は知った。  知った所で、もうどうする事もできない事を、知ってしまった。  二歩、三歩と……天井はよろけるように後ろへ下がる。 「は、はは。ぅ、あ、が、うォォアあああああああああああああああああああああああああああああああ。あああああああああああ。あああああああ。あああああああああああ!?」  天井亜雄は絶叫し、自分の人生を粉々に打ち砕いた者へ銃Uを向けた。  助手席で眠り続ける、一人の少女。  天井はその小さく上下する胸へ銃を突きつけた。引き金に指をかける。後はこの指を少し動かせば、特殊弾頭『|衝槍弾頭《シヨツクランサー》』はその|華轡《きやしや》な体をメチャクチャに引き裂く。どこに何発|盤《う》とうとか、そういう事を天井は考えていない。とにかく空になっても撃ち続けてやる、とばかりに彼は引き金を引く。 |炸裂《さくれつ》する銃声、  ただしその銃弾は[#「ただしその銃弾は」に傍点]、少女の体を貫かない[#「少女の体を貫かない」に傍点]。 「————、させるかよォ。くそったれがァ!!」  死体が、起き上がっていた。  裂けた額からダラダラダラダラと血を流すその少年が、天井の銃口を遮るように手を広げていた。『反射』した弾丸は|綺麗《きれい》に銃口へ吸い込まれ、|拳銃《けんじゆう》が内側から爆発した。|銃把《グリツプ》を握り締めていた|天井《あまい》の手首がズタズタに引き裂かれる。 「う、ぐ……ァああああああああ!?」  天井|亜雄《あお》はザクロのように裂けた右手を左手で押さえつつ、一|方通行《アクセラレータ》から距離を取る。 〔くそ、特殊弾頭で額を|撃《りつ》ち抜いたのだぞ。どういう理屈で生き延びている!?) 『|衝槍弾頭《シヨツクランサー》』は弾丸に特殊な溝を刻む事で、空気抵抗を逆手に取って|衝撃波《しようげきぼ》の|槍《やり》を生み出す次世代兵器だ。まして脳に直繋した状態で生きていられるはずがないのに。  だが、天井は閥違えていた。  弾丸の空気抵抗を利用して衝撃波の槍を生み出す特殊弾頭は、それ|故《ゆえ》に弾丸の速度のほとんどを空気抵抗に食われてしまう、言うなればパラシュートをつけた状態で弾が飛んでいるようなものなのだ。  そして生み出される衝撃波の槍は、弾丸より遅れて、その軌道をなぞるようにやってくる。 わずか〇・四秒に満たない誤差。しかしその間に|打ち止め《ラストオーダー》の|治療《ちりよう》は|完遂《かんすい》し、彼は|土壇場《どたんば》で『反射』を取り戻していた。  結果、速度の死んだ弾丸は|一方通行《アクセラレータ》の|頭蓋骨《ずがいこつ》に|亀裂《きれつ》を人れたが、致命的な衝撃波の槍は防ぎ切った。  しかし、詳しい事情を知らない天井亜雄には、目の前の光景は悪夢のようにしか見えない。  |天井《あまい》は唯一使える左手で予備の|拳銃《けんじゆう》を抜く。だが、彼は訓練を積んだ訳ではない。|利《き》き手でない左手は、|狙《ねら》いを定めるどころか銃の重みに|震《ふる》えていた。さらに|一方通行《アクセラレータ》は額に特殊弾頭を受けても立ち上がったのだ。左手が不自然に震えてもおかしくない。  |一方通行《アクセラレータ》は、天井|亜雄《あお》の前に立ち|塞《ふさ》がる。  背後に幼い|打ち止め《ラストオーダー》を|庇《かば》うように。額から流れる血も気にせずに。両足はガクガクと震え、両目の焦点が狂い始めているにも|拘《かか》わらず、ただ天井の銃口を|睨《にら》みつける。  その様子を見て、白衣の研究者は笑う。  絶対的不利を知りながら、半ばヤケクソになるように。 「ハッ。それは何をしているつもりなのだ? 今さら、お前のような者が」 「……、分かってンだよ。こンな人間のクズが、今さら|誰《だれ》かを助けようなンて思うのは|馬鹿馬鹿《ばかばか》しいってコトぐらいよォ。まったく甘すぎだよな、自分でも|虫酸《むしず》が走る」  誰かを助ければ、自分も救われるかもしれない。  一見すれば|綺麗《きれい》な|台詞《せりあ》に聞こえるかもしれないが、それは自分の事しか考えていない|醜《みにく》い言葉に過ぎない。誰かの命をダシにして打算を働かせるような人間が、まっとうであるはずがない。そんな人間が、救われるはずがない。  大体をもって、この世界の住人はどいつもこいつも救いようがない。甘いだけで優しくない|芳川桔梗《よしかわききよう》、誰かを守ろうとした男に|一瞬《いつしゆん》のためらいもなく鉛弾をぶち込んだ天井亜雄、そして一万人もの人間を殺しておきながら今さら人の命は大切なんですとか言い出す|一方通行《アクセラレータ》。  こんな腐った世界の人間が、今さら人に救いを求めるなんて、間違っている。人に救いを与えようと思うなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。  そんな事ぐらい、分かっている。  こんな世界の住人だからこそ、痛いほどに良く分かっている。 「けどよォ」彼は、何かを断ち切るように、「このガキは、関係ねェだろ」  |一方通行《アクセラレータ》は、笑っていた。  額に空いた穴からだらだらだらだらと血を流しながら、それでも、笑うように旨った。 「たとえ、|俺達《おれたち》がどンなに腐っていてもよォ。誰かを助けようと言い出す事すら馬鹿馬鹿しく思われるほどの、どうしよォもねェ人間のクズだったとしてもさァ」  額から流れる血が、|一方通行《アクセラレータ》の左目に流れ込む。  その視界が、赤く染まる。  彼はそれでも、今にもくずおれてしまいそうな両足へ、必死に力を込めて、 「このガキが、見殺しにされて良いって理由にはなンねェだろうが。俺達がクズだって事が、このガキが抱えてるモンを踏みにじっても良い理由になるはずがねェだろうが!」  |一方通行《アクセラレータ》は、己の血で視界を赤く染めながら、叫ぶ。  その行いが自分には不釣合いである事も、分不相応である事も、自分の言葉がそのまま|翻《ひるがえ》って己の胸に突き刺さる事も、|全《すべ》て理解していながら。  それでも、叫ぶ。  自分に|誰《だれ》かを救う権利がなければ、誰も救ってはいけないのか。  差し伸べられたその小さな手は、振り払われて当然なのか。  彼女が何をした?  必死に伸ばした手を振り払われるような事を、やったのか? 「クソったれが。当たり、前の……事じゃねェか」  己に言い聞かせるように、彼は口の中で|呟《つぶや》く。  |打ち止め《ラストオーダー》は誰かに助けてもらわなければいけないのだ。|一方通行《アクセラレータ》や|天井亜雄《あまいあお》と違って、彼女にはまだそれぐらいのチャンスは残っているはずなのだ。 『誰が』助けるかなんて関係ない。 議論の肝はそこではない。とにかく誰でも良いから手を差し伸べなくては、|打ち止め《ラストオーダー》は本当に死んでしまうというだけの話。  何となく、彼は知った。『実験』を止めるために操車場にやってきた、あの|無能力者《レペル0》の気持ちを。何の理由も目的もなく、ただ傷つけられる|妹達《シスターズ》を助けるために立ち上がったあの男。 生まれた時から住んでいる世界が違うヒーローのように見えたが、違ったのだ。  この世界に主人公なんていない。都合の良いヒーローなんて現れない。|黙《だま》っていたって助けは来ないし、叫んだ所で救いが来るとも限らない。  それでも大切なものを失いたくなければ。さんざん待っていたのに助けがやって来なかったからと、そんなくだらない理由で失いたくなければ、なるしかないのだ。 |無駄《むだ》でも無理でも、分不相応でも。  自分のこの手で、大切なものを守り抜くような存在に。  この世界に救いはなくて、初めからヒーローになれるような人間はいないから。  だからこそ、その場に居合わせた人間が、やらなければいけないのだ。  主人公のような、行いを。 「確かに|俺《おれ》は一万人もの|妹達《シスターズ》をぶっ殺した。だからってな、残り一万人を見殺しにして良いはずがねェンだ。ああ|綺麗事《きれいごと》だってのは分かってる、今さらどの一がそンな事言うンだってのは自分でも分かってる! でも違うンだよ! たとえ俺|達《たち》がどれほどのクズでも、どンな理由を並べても、それでこのガキが殺されて良い事になンかならねェだろォがよ!!」  がくん、と|一方通行《アクセラレータ》の足から力が抜ける。  その額の傷から、詰まりが取れたように鮮血が噴き出す。  それでも、まだ倒れる訳にはいかない。  絶対に。 「……、つ、がァあああ!!」  |一方通行《アクセラレータ》は身を低く落とすと、弾丸のような速度で|天井亜雄《あまいあお》の。元へと跳んだ。圧倒的優位に見えて、実は追い詰められていたのは|一方通行《アクセラレータ》の方だった。長期戦は期待できない。この|一撃《いちげき》で決めなければ意識が落ちてしまう。しかも、それが分かっていながら大技を出すほどの余裕もない。結果、最窺距離の直進という一番単純な攻め方しか選べなかった。  天井もそれが分かっているのか、彼は逃げに|徹《てつ》した。弾丸のような速度で跳んでくる|一方通行《アクセラレータ》に対して、後ろへ逃げても追い蒲かれる。だから彼は向かってくる|一方通行《アクセラレータ》に対し、思い切り横へ跳んだ。ついさっきまで天井のいた場所を、|悪魔《あくま》の|爪《つめ》が|薙《な》ぎ払う。  |一方通行《アクセラレータ》は口だけを動かして、左を見る。  視界の中に、天井亜雄がいた。横へ跳ぶ事に全力を注いだせいか、無様に地面を転がっていた。その状態では先ほどの横跳びを繰り返す事はできない。時間を稼ぐつもりか、唯一無事な左手に握られた銃がこちらへ向けられていた。  |一方通行《アクセラレータ》は体ごと振り返る。  いや、振り返ろうとした。だが、足がもつれたようにバランスを崩した。慌てて踏み|止《とど》まろうとしたが、足がもう動かなかった。額の傷が|一際《ひときわ》大きく痛んだと思ったら、次の|瞬間《しゆんかん》には痛みの感覚が消えていた。どさり、という膏を聞いて、自分がようやく地面に倒れた事を知った。  横倒しになった視界に、守るべき少女の姿が映った。  彼は何かを思ったが、意識は深い|闇《やみ》へと|呑《の》み込まれた。      16(Aug.31_PM08:38)  天井亜雄は、しばらく生きた心地がしなかった。  道路に倒れた|一方通行《アクセラレータ》を|呆然《ぽうぜん》と眺めてから、ようやく額の汗を|拭《ぬぐ》う。 (生き、てる。はは、何とか、生き延びたか)  彼は力なく笑い、倒れた|一方通行《アクセラレータ》の頭を軽く|爪先《つまさき》で小突いた。 (『反射』は……無効、か。できるならこんなものに手を出したくはないが、しかし万が一再び立ち上がったら、次は絶対に|避《さ》けられない)  天井亜雄は|一方通行《アクセラレータ》の頭に銃目を向ける。  能力さえなければ、|一方通行《アクセラレータ》は運動不足の学生でしかない……はずだ。九ミリ弾を一〇発も頭に|叩《たた》き込めば普通に死ぬと思う。もちろん、ウィルス起動に失敗し学園都市と敵対勢力に板挟みにされている今、本来ならこんな事をしている暇はない。一刻も早く一ミリでも遠くに逃げるべきだが、災いの芽は摘んでおいた方が良い。 「ハッ。結局、お前にはヒーローみたいに決着を着けるほどの力はなかった訳だ。無理もない、我々みたいな人間はみんなそうだよ。みんな、そんなものなんだ」  天井は引き金にかけた指に力を込める。  パン! という乾いた銃声が|響《ひび》いた。人を殺す音はクラッカーにも似ていた。 「……、」  |天井亜雄《あまいあお》は、わずかに顔をしかめる。  銃声は、彼の持つ銃から響いたものではなかった。  天井の背中、腰の辺りから、体に穴を空けて溶けた鉛でも流し込んだような|灼熱感《しやくねつかん》が|襲《おそ》いかかってきた。天井はゆっくりと振り返る。|否《いな》、ゆっくりとしか体は動かなかった。  少し離れた所に、中古のステーションワゴンが|停《と》まっていた。乗る者のセンスを疑うような古臭いだけの車のドアは、開いている。白衣を着た女が降りてくる。女の手にはオモチャのような、弾が二発しか入らない護身用の|拳銃《けんじゆう》が握られている。  女の握る拳銃から、ゆらりと白煙が昇っていた。 「……、|芳川《よしかわ》。|桔梗《ききよう》」  |搾《しぼ》り出すように、天井は言った。白衣の女は、答えなかった。      17(Aug.31_PM08:43)  天井は地面に倒れていた。  ゆっくりと明滅する視界を振り回すように首を振ると、ようやく意識がハッキリしてくる。どうやら、気を失っていたようだ、それが数十秒か、数分か、数十分かは分からなかったが。  視界の先に、白衣を着た女がいた。  芳川桔梗。  彼女は天井に背を向け、ステーションワゴンの後部ドアを開けて、何かを操作していた。車内に収められた装置に、彼は見覚えがあった。培養器だ。 (くっ……)  天井は|震《ふる》える首を動かして、自分のスポーツカーを見る。助手席に沈んでいたはずの|最終信号《ラストオーダー》の姿がどこにもない。作業をする芳川の陰に隠れて見えないが、おそらくあの個体は培養器のガラスの円筒に収められているのだろう。  彼は立ち上がろうとしたが、体が上手く動かなかった。かろうじて上体だけを地面から起こすと、ガチガチに震える手でイタリア製の軍川拳銃を構える。  ふと、芳川が振り返った。  作業はとうに終えたのか、彼女は後部ドアを閉めると、護身用の拳銃を天井へ向ける。その顔には笑みすら浮かんでいた。芳川は銃を向けたまま、ゆっくりと天井の。兀へと歩いてくる。 「ごめんなさいね。わたしってどこまでいっても甘いから。優しくなくて甘いから。急所に当てる度胸もないくせに見逃そうとも思えなかったみたい。意味もなく苦痛を引き伸ばすって、もしかしたら残酷なほど甘い選択だったかもしれないわね」 「どうやって、この場所を……?」 「携帯電話のGPS機能なんて何年前の技術なのかしらね。|貴方《あなた》、気がついていなかったの?その子の携帯電話、まだ通話中なのだけれど」  |芳川《よしかわ》は、母親のような目で|一方通行《アクセラレータ》を見下ろして、 「ここでの事は電話越しに拾った音でしか分からないけれど、少なくとも『外』で|騒《さわ》ぎが起きている様子はないわね」  |天井《あまい》の手の|震《ふる》えが大きくなっていく。雪の中に長時間手を突っ込んでいたように、指先からどんどん感覚が失われていく。引き金にかかる指が、己の意思を無視して震える。ガチガチと金属パーツのぶつかる音が鳴り|響《ひび》く。 「ああ。その子なら心配ないわ。知り合いに|凄腕《すごうで》の医者がいてね。顔がカエルに似ているからいまいち|貫禄《かんろく》に欠けるのだけれど、一応は『|冥土帰し《ヘヴンキヤンセラー》』と呼ばれているぐらいだし、彼の腕なら何とかなるでしょう」  どこか遠くから、救急車のサイレンが近づいてきた。おそらく|銃撃《じゆうげき》する前からすでに通報してあったのだろう。搬送先の病院まで指定しているかもしれない。  いつ暴発してもおかしくない銃口を見て、しかし芳川の足は止まらない。  そこに己の身を案ずる様子はない。  彼女は子供|達《たち》を守るためにここに立っていた。|誰《だれ》もが他人に押し付けようとする『実験』失敗の責から逃れるための保身工作も忘れ、いつ暴発するかも分からない銃口の前に立つ事も恐れずに。ただ『実験』に巻き込んでしまった子供達を、いるべき世界へ帰すために。  それが、甘いだけだって? 少しも優しくないだって? 「……、|何故《なぜ》」天井は、|搾《しぼ》り出すように、「理解ができない。それはお前の思考パターンではない。常にリスクとチャンスを|秤《はかり》にかける事しかできなかったお前の人格では不可能な判断だ。 それともこの行為に秤が傾くほどのチャンスがあるというのか?」 「答えるとすれば、そうね。わたしはその思考パターンが嫌いだった。そうやって成功していく自分を見たくなかった。生まれた時から思っていたわ、いつか一度で良いから甘いのではなく優しい行動を取ってみたいって」  芳川|桔梗《ききよう》は寂しげに笑ってさらに歩く。  もう、両者の。距離は三メートルもない。 「わたしはね、本当はこんな研究者になんてなりたくなかったの」  信じられないでしょうけれど、と芳川は|自嘲《じちよう》気味に付け加える。  彼女のその才能を知るからこそ、天井|亜雄《あお》はその言葉に|驚愕《きようがく》した。 「学校の先生になりたかった。教師とか教授とかお堅い役職ではなく、優しい先生になりたかった、生徒の顔を一人一人覚えていって、困った事があったら何でも相談を受けて、たった一人の子供のために奔走して、見返りを求めず力強く笑って、卒業式で泣いている姿を見てからかわれるような、そんな優しい先生になりたかった。もちろん、こんな甘いだけで優しくない人格の持ち。主が何かを教える立場に立ってはいけないと、自ら断念したけれどね」  それでもね、と|芳川《よしかわ》は笑う。  互いの距離は一メートル。芳川はそこで、ゆっくりと地面に片ビザをついた。まるで小さな子供に話しかけるように、地面に座り込む|天井《あまい》に目線を合わせるために。 「きっと、まだ未練が残っていたのでしょうね。わたしは一度で良いから汁いのではなく優しい事をしてみたかった。たった 人の子供のために奔走する先生のような、そんな行動を示してみたかった」  それだけよ、と芳川は断言した。  二人の銃口が、それぞれの胸へ押し付けられる。  彼女とて、分かっているはずだ。|一方通行《アクセラレータ》という少年が一常へ帰る事は、もう難しい事を。 彼が一万もの|妹達《シスターズ》に手をかけた事に間違いはない。しかも、ここで終わりとも限らない。絶大な力と言っても、|所詮《しよせん》それを操るのは不安定な人の心だ。放っておけば、さらに大きな被害が川る可能性すら考えられる。  それでも、芳川|桔梗《ささよう》は願っていた。  もはや|誰《だれ》も本名を知らない最強の能力者は、銃弾で額を|撃《う》ち抜かれてもたった一人の少女を守ろうとした。たとえ共に歩けなくても、光の道を行く少女とはもう接点がないと分かっていても、|諦《あきら》めなかった。決して見捨てなかった。その結果、彼は自分の身を守るという甘い選択肢より、他人の命を救おうという優しい選択肢を選ぶ事ができた。  もはや決定的に遅すぎたのかもしれないが、彼はようやく自分がそれを選べる那を知った。  自分のその手で、誰かを守るという喉の意昧を。  芳川は、その優しさを守りたかった。  その優しさの呆てに待つものが、こんな残酷な結末だという事が許せなかった。 「終わりよ。天井|亜雄《あお》」  互いの胸に押し付けられた二つの銃の引き金に、指がかかる。 「一人で死ぬのが|恐《こわ》いのでしょう。ならば道連れにはわたしを選びなさい。子供|達《たち》に手を出す事だけは、わたしが絶対に許さない。この身に宿る、ただ一度の優しさに|賭《か》けて」  ふん、と天井は小さく笑った。  どの道、学園都市と敵対勢力の板挟みにされた彼に、もはや明日などない。 「やはり、お前に囲優しさ』は似合わない」  彼は小さく歌うように|呟《つぶや》くと、引き金にかかる指に力を加えて、 「お前のそれは、もはや『強さ』だよ」  胸を|撃《う》っ銃声は二つ。  体を突き抜けた弾丸が、|天井《あまい》と|芳川《よしかわ》、それぞれの背中から飛び出した。 [#地付き]Aug.31_PM08:57終了 [#改ページ]    第四章 とある居候の禁書目録 Arrow_Made_of_AZUSA.      1(Aug.31_PM03:15)  学園都市。  東京西部を切り開いて作られた、超能力者育成のための一つの街。東京都の三分の一の面積を占め、総人口は二三〇万人弱。その内の八割は、|無能力《レペル0》から|超能力《レペル5》までの六段階評価で何らかの『能力』に|覚醒《かくせい》している学生である。、  この街の中においては、『能力』とは|霊的《オカルト》なモノではなく、一定の|時間割《カリキユラム》りを消化すれば|誰《だれ》でも覚醒する事ができる、科学的なモノでしかない、  それで、そんな|胡散臭《うさんくさ》い街の片隅にある|学生寮《がくせいりよう》の中で、ごく平凡な男子高校生・|上条当麻《かみじようとうま》は夏休みの宿題の山に埋もれて、 一人頭を抱えていた。 「もう! くそ! 因数分解って何ですか! 数学の分際で答えが二つもあるってどういう事なんだよちくしょう!!」  上条は絶叫しながら、ガラステーブルの上に広げられた数学の問題集から逃れるように後ろヘバタンと倒れ込んだ。彼は困った事が起きると独り言が飛び出す愉快な人間である。たとえ『数学』を片付けたとしても、さらにその後に『現国』の読書感想文や『英語』のプリントの束などが控えている事もあって、上条の精神は多分に追い詰められていた。 (うー……)  ごろんと寝転がったまま、上条は自分の右手を見る、  |幻想殺し《イマジンブレイカー》。————上条の右手に宿る力。一〇億ボルトに達する|雷撃《らいげき》の|槍《やり》だろうが三〇〇〇度を越す炎の塊だろうが、それが『異能の力』であるならば、どんなものでも触れただけで打ち消す事ができる能力。こんなにステキな力も、夏休みの宿題に対しては何の効果もない。  現在時刻、八月三一日午後三時一五分〇〇秒。  本当にどうしましょう、と上条は半分以上本気で涙目になる。  しかもこういう時に限って、朝からコンビニの缶コーヒーは売り切れているわ青髪ピアスや|土御門《つちみかど》に|絡《から》まれるわ|美琴《みこと》に恋人役の演技をしろと迫られるわ|海原光貴《うなばらみつき》に化けたアステカの|魔術師《まじゆつし》に追い回されるわと散々だった。実質的に宿題はほとんど終わっていない。  そんな上条を|嘲笑《あざわら》うかのごとく、倒れて逆さまになった彼の視界には、かじりつくようにテレビを|観《み》ている一人の少女と、その横でポテチの袋に顔を突っ込んで食欲を満たしているバカ猫が映っていた。  少女の名前はインデックス。  Index_Librorum_Prohibitorumとかいう|馬鹿《ばか》長い名前を省略したものらしい。  少。女は白い肌、銀の長髪、緑の|瞳《ひとみ》という外国人ボディを誇り、なおかつ泊ている服が純自のシルク地に金糸の|刺繍《ししゆう》を|織《お》り込んだ紅茶のカップみたいに|壮麗《そうれい》な修道服であ。るため、何かそこだけ一九世紀ビクトリア風な空気が漂っていた。いやビクトリア風ってどんなものかは知らないけど。ハッタリだけど。  その格好から分かる通り、彼女は科学バンザイの学園都市の住人ではない。  むしろ正反対に位置する、ビバ|霊的《オカルト》の|魔術《まじゆつ》世界からやってきた人間だった。魔女……とは、違うようだが、タチの悪さではそれ以上かもしれない。何せ、とある方法を使う事で[#「とある方法を使う事で」に傍点]、世界中のあらゆる魔術を知り尽くしている、世界で唯一の人間なのだから。  で、そんな本物の魔術少女はテレビにかじりついてフンフンと|頷《うなず》いていた。。  ちなみに、画面に映っているのは|架空《アニメ》の魔法少女の|大活躍《だいかつやく》(夏休みの再放送)だった。 「なるほど、この|超機動少女《マジカルパワード》カナミンは|普段《ふだん》は学生になりすます事でローマ正教が誇る|魔女狩《アルビジヨワ》り十字軍の目をごまかしているんだね。しかしあの|虹色《にじいろ》に光るステッキは一体———ハッ! |五大要索《エレメンタル》における|第五呪具《パーツオブエーテル》『|蓮《はす》の|杖《つえ》』を|現代素材《プラスチツク》で再現しているという事だね! むむ、|流石《さすが》は神国日本。素晴らしきかなジャパニーズスタイルなんだよ」  いえ、それは|日本が誇るオタクの戦略物資《ジヤパニメーシヨン》です。ひどく|大真面目《おおまじめ》な顔でテレビに食いついて いる|魔法《まほう》少女(|実在《リアル》)にツッコミを人れようと思った|上条《かみじよう》だったが、やっぱりやめた。今は宿題に集中しなければ。 「あのさ、別にテレビを|観《み》るなとか|黙《だま》ってうとか言わないから、せめてボリュームを落として声も控えてください! こっちはわずかな集中の途切れが致命的なんだから!」 「えー?」インデックスは不満そうに振り返り、「とうまが遊んでくれないからテレビ観てるのに。大体、昼過ぎまでどこへ行っていたの、あの電話は一体何だったの? またとうまは|性懲《しようこ》りもなく私に|内緒《ないしよ》で魔術師と戦ったの?」 「あー……何でもないって。|大丈夫《だいじようぶ》大丈夫、今回はケンカなんかしてねーから。ちゃんと|穏便《おんびん》に話し合いで解決したし。いやーアステカの人は紳士的だったなあ」 「それで、今回はどこの|薄幸《はつこう》少女のために立ち上がったの?」 「聞けよ! っつか『|俺《おれ》がケンカする=それ』って公式ができあがってんのか!?」  上条は叫ぶが、インデックスは疲れたような顔で|諦《あきら》めムードのため息をついた。 「まあ終わっちゃった事をいつまでも言っても仕方がないのかも。時にとうま、私は午前中からずっと放ったらかしにされてテレビの世界に逃げ込んでいるんだけど」 「じゃあ宿題ごっこしよう。俺が数学でお前が英語」 「……、そんなつまんなそうなのやらないよ」インデックスはため息をついて、「あ、とうま。マンガありがとう。借りてた本はそっちに置いてあるからね」 「そっちにって————オイ!!」  上条は絶句した。本棚に仕舞ってあ。ったはずのマンガの単行本が、|大地震《だいじしん》でも起きた後みたいに床の上にゴチャゴチャと山積みにしてあ。った。 「どうして……どうして! どうしてお前はこの時間がない時にやる事を増やすんですか!ってかテメェがやったんだからテメェがキチンと本棚に戻しとけ!!」 「別にどこに何があるかは分かるから|無問題《も−まんたい》だよ」  インデックスはテレビを観ながら平然と言ってのけた。  上条は肩を落としてため息をついた。確かに整理整頓なんて言葉は、『何がどこにあるか』をハッキリ分かりやすくするためのものだ。『どこに何があるか』を正確に覚えられる人間には、マンガを一巻から順番に本棚に戻すなんて作業は必要ないんだろう。  インデックスは『|金枝篇《きんしへん》』、『Mの書』、『ヘルメス文書』、『秘奥の教義』、『テトラビブロス』など、世界中にある一〇万三〇〇〇冊もの魔道書を一字一句逃さず、正確に|記憶《きおく》している魔道書図書館だ。彼女はあのゴチャゴチャになった本の配置も、|一瞬《いつしゆん》にして|全《すべ》て覚えてしまったのだろう。 「けどさー、それが人にモノを借りてる態度かよ」 「えー。あっちの方が分かりやすいのに[#「あっちの方が分かりやすいのに」に傍点]」インデックスは心の底から不満そうに、「大体、とうまが何も考えずに整理整頓なんてするから、部屋の中でボールペンがなくなったりするんだよ。ほらとうま、古文の宿題はどこへ行ったの?」  え? と|上条《かみじよう》は起き上がってガラステーブルの上を見た。  ない。  やっとこさっとこ終わらせたはずの、ホチキスで惚めた古文のプリントの山がどこにもない。 「あれ? ちょっと! さっきまでやってた|俺《おれ》の古文はどこに?」 「こういうのって見つかってみると案外何でもない所にあったりするんだよね」 「|穏《おだ》やかな|微笑《ほほえ》み浮かべて眺めてないで、お願いだから|一緒《いつしよ》に捜してください!!」  ぐぎゃあ! と上条の絶叫が真夏の|学生寮《がくせいりよう》に|響《ひび》き渡る。  常識的に考えて部屋の中からなくなるはずがない……とは思うのだが、|何故《なぜ》だか上条はもう二度と古文の宿題とは巡り合えないような気がした。      2(Aug.31_PM04:00)  八月三一日の街並みはほとんど無人だった。  街の住人の八割が学生なのだ。今日ばかりは、ほとんどの住人が夏休み最後の口を寮の中で過ごし、|溜《た》まった宿題を消化するために|奮闘《ふんとう》しているのだろう。電柱の代わりに無数に立っている風力発電のプロペラだけがカラカラと物悲しく回転している。  その男は、|蜃気楼《しんきろう》が揺らぐ無人の街を|黙《だま》って歩いていた。  無人の街に立つ男は、見るからに異様だった。  残暑も厳しい八月末のギラつく炎天下に、上下共に黒のスーツを着込み、おまけにネクタイまでも黒で統一されている。スーツの下に|無骨《ぶこつ》な筋肉を収めている事が容易に|窺《うかが》える大男で、この暑さの中でも汗一つかかず涼しげに両目を閉じている。  マフィアの人間か、マフィアの葬式にでも参加した人間にしか見えない。  だが、唯一マフィアにも葬式にも似つかわしくない物が、大男の右腕に装蒲されている。和風の|籠手《こて》だ。しかも、籠手には西洋の|仕込《アルバレス》み|弓《ト》のように黒塗りの和弓が取り付けられていた。 複雑な|絡操《からく》りで、片手を動かすだけで|弦《つる》を引き、矢を放つ事ができるように工夫されていた。  異様な男の名は|闇咲逢魔《やみさかおうま》。  科学の常識に|囚《とら》われぬ者、つまりは|魔術師《まじゆつし》だった。 「Index_Librorum_Prohibitorum———撚爪書日録、か」  |無骨《ぶこつ》な男の唇から、しかし流れるように外来語が滑り出る。その名は|誰《だれ》でも知っていた。脳内に一〇万三〇〇〇冊もの魔道書を持つ少女。そして、それだけの知識があれば世界の仕組みを組み替えあらゆる願いを|叶《かな》える事も可能だという事も。  |故《ゆえ》に、その少女を|狙《ねら》う魔術師など世界中にいくらでもいた。 「ふむ。まだ遠い、か」  闇咲は一人|呟《つぶや》いた。その足取りに迷いはない。 街の中に入るために一戦を交えている。学園都市は周囲を壁で囲まれていて、侵人者を|阻《はば》むための警備隊のようなものが存在するのだ。  |闇咲《やみさか》は彼らを殺してはいないが、しかし倒した敵の中には後遺症に悩まされる者も出るかもしれない。闇咲はそう思ったが、けれど立ち止まる事はなかった。ここまで来て|諦《あきら》めるのでは、犠牲になった人々が可哀相だ[#「犠牲になった人々が可哀相だ」に傍点]。やるからには、|徹底《てつてい》しなければ。  闇咲|逢魔《おうま》は|蜃気楼《しんきろう》の街を歩く。  目指すは一点、とある|学生寮《がくせいりよう》の一室。      3(Aug.31_PM05:05)  そろそろ晩ご飯の|支度《したく》という時間になって、ようやく失われた古文の宿題が発見された。  発見者であるインデックスはにこにこ笑顔で、 「いやー、まさか山積みになったマンガの山の中に隠れていたとは思わなかったんだよ。ていうか、とうま。私ってえらい、えらい? ほら、何か言う事があるんじゃないの?」 「っつーかテメェが散らかしたんだうそのマンガ。やっぱり弊害あったじゃねーか! テメェは今すぐそのマンガの山を本棚に片付けろ! そして|上条《かみじよう》さんゴメンなさいと言え!!」 「マンガは関係ないもん。古文の宿題を|咥《くわ》えていったのはスフィンクスだもん」  ちなみにスフィンクスというのは上条が飼っている|三毛猫《みけねこ》の事であって、もちろんナゾナゾに答えられないと人を殺してしまう伝説上の生き物ではない。  その下手人のクソ猫はというと、テレビの三分クッキングの料理に心奪われているのか、画。面に向かって必死に猫パンチを繰り出している。  上条は本気でため息をついた。  現在時刻、午後五時過ぎ。日付変更まで、あ。と七時間弱。捨て身で完全徹夜を覚悟した所で、学校へ行くまで一五時間もない。たったこれだけの時聞で、数学の問題集と英語のプリントの束と読書感想文を終わらせる事ができるだろうか?  古文の宿題を捜索するために失われた時間は大きかった、と上条は落胆する。  一方、いつまで|経《た》っても|誉《ほ》めてもらえない事にインデックスも腹が立ってきたのか、 「とうま、とうま。私は仕事をしたから|然《しか》るべき報酬が欲しいんだよ。っていうか何か食べたい、今日のご飯はテレビでやってるアレがいいかも」 「……、」  上条は無言でギギギと首だけ回してテレビを|観《み》た。  三分クッキングは夏休みで子供の廓を意識しているのか、紹介されているのは豆腐ハンバーグの作り方だった。  上条はもう一度ギギギと首だけ動かしてインデックスの方を見る。  その口の端が、にへら、と無気味に笑って、 「……、ブッコロスゾオマエ」 「何でピリピリしてるの? とうま、お|腹《なか》が減ってるから怒りっぽくなってるんだよ。とうまだってアレ食べてみたいよねー?」 「そりゃ、食べてみたいか|否《いな》かと問われたら食べたいけれど。そんなものを作ってる峙間はないんだって、さっきっからアレほど言ってるのに……ッ!!」 「あんまり根を詰めてると、頭が回らなくなっちゃうよ? 少しは休んでおかないと」 「ううっ! 一〇〇%善意の|台詞《せりふ》が今は憎いーーこ 「ほらほら、とうま。頭を抱えていないで。あれ? 今やってた数学の宿題はどこへ行ったの?」 「え?」  |上条《かみじよう》はガラステーブルの上を見た。  ない。      4(Aug.31_PM05:30)  その|学生寮《がくせいりよう》の前で、|闇咲逢魔《やみさかおうま》は頭上の七階を見上げていた。と言っても、彼は常に両目を|瞑《つぶ》っているため、その行為に何の意味があるかは定かでないが。 「ここか」  闇咲は一人|呟《つぶや》くと、右手の|籠手《こて》を操作した。取り付けられた弓の弦が、|絡操《からく》りによって自動的に引き絞られる。だが、その黒塗りの和弓には矢が足りない。 |風魔《ふうま》の|弦《げん》」  構わず、闇咲は弓を打った。ビシュン! と細い弦が空気を裂く鋭い音だけが、静寂に包まれた街の中へと、|驚《おどろ》くほど鮮明に広がっていく。  |轟《ごう》! という風の|唸《うな》りが、闇咲の足元の近くで鳴り|響《ひび》く。  透明なので視認はできないが、そこにはビーチボールぐらいの大きさの空気の塊があった。  闇咲は足を|揃《そろ》えて軽く跳ぶと、空気のボールの上へと着地する。  ぐにゃり、と闇咲の足が見えないボールを簡単に押し|潰《つぶ》し、  パン!! という空気の|弾《はじ》ける音と共に、闇咲の休が真上へと勢い良く飛び上がった。  闇咲の体が|真《ま》っ|直《す》ぐ|学生寮《がくせいりよう》の壁に寄り添うように何メートルも突き進む。  彼は目的の階———学生寮の七階、上条|当麻《とうま》の部屋まで飛び上がると、ベランダの手すりを|掴《つか》んで体の動きを止め、手すりの上へと着地。そして同時に弓を引き、 「|衝打《しようだ》の|弦《げん》」 ゴッ!! と。  弦の音と共に放たれた、見えない鉄球のような|衝撃波《しようげさは》が|薄《うす》い窓を粉砕する。  ガラスの砕け散る、甲高い悲鳴のような|轟音《ごうおん》。  数百数千に及ぶガラス片の雨が部屋の巾へと|襲《おそ》い掛かった。|窓際《まどぎわ》に人が立っていればどうなるかなど|闇咲《やみさか》の知った事ではない。インデックスを確保するため、彼は部屋の中へと踏み込む。  だが、 「……、いない?」  闇咲は首を|傾《かし》げた。部屋の中には|誰《だれ》もいない。念のためにユニットバスの方も調べてみたが、やっぱりいない。どうも留守中だったらしい。  闇咲は首を傾げたまま、すごすごとベランダへ戻って行った。窓ガラスは|木っ端微塵《こつぱみじん》のままだったが、そんな事を気にする|魔術師《まじゆつし》ではない。  ふむ、と闇咲は一度だけ、いかにも間が抜けたように頭を|掻《か》いてから、 「|捜魔《そうま》の|弦《げん》」  ソナーのように、弦の音を|響《ひび》かせた。その小さな音からは信じられないほど鮮やかに響き渡る弦の宵は|一瞬《いつしゆん》で街を|舐《な》め回し、インデックスの現在位置を闇咲に伝えてきた。      5(Aug.31_PM06:00) 「……何か嫌な予感がする」  |上条当麻《かみじようとうま》は、冷房の|利《き》いたファミレスの中で一人|呟《つぶや》いた。何だろう、この|悪寒《おかん》の原因は?と一人首を傾げる。戸締まりはしっかりしたから空き巣の心配はしなくて良いとは思うが……。  いくら八月三一日とはいえ、|流石《さすが》にご飯時は街に人が出てくるらしい。コンビニやファミレス、牛丼屋などで一時休戦して英気を養い、戦士|達《たち》は再び宿題の待つ己の机へと立ち向かっていく訳だ。夏休み終了まで、もう六時間しかないのだから。 「とうま、とうま。何でも選んでいいの? これ何でも|頼《たの》んじゃっていいのかなぁ?」  と、そんな上条の向かいの席には|馬鹿《ばか》でかいメニューを|覗《のぞ》き込んでサンタを待つ子供みたいに目を輝かせているインデックスがいた。ちなみにこのファミレス、画期的な事にペット同伴オーケーなのでバカ猫はインデックスの|膝《ひざ》の上で丸くなっている。  上条はため息をついた。  ファミレスまで移動したのは気分転換のためであって(ついでに晩ご飯を作る時間も惜しかった)、つまりここから上条は本気になって夏。の宿題の残党狩りに取りかかるつもりだったのだが……どうにもこの少女には、その決意を察してもらえなかったらしい。  上条はコンビニで買った原稿用紙を見ながら首を横に振った。ここで読書感想文を一気に消化させようと思っていたのだが、雲行きは果てしなく怪しいようだ。 「ねえとうま。ねえねえとうま。これ好きなの選んでいい?」 「何だよもう何頼むんだよ」 「それじゃあ行きます。一番高いの!」 「……、」|上条《かみじよう》はニッコリ笑顔で、「じゃ、生卵を二〇〇〇円分な」  とうまーっ!! という少女の|魂《たましい》の叫びが聞こえた。  結局、上条はコーヒーを、インデックスは日替わりランチAを、バカ猫は『ランチ猫C』を|頼《たの》む事になった。このペット同伴のレストラン、恐るべき事にペット専用のメニューまで用意されているらしい。|他《ほか》にもランチ犬とかランチ|亀《かめ》とか書いてあった。  頼んだものがやって来るまで時問がかかる。上条は原稿用紙とシャーペンを取り出して、早速読書感想文を片付ける事にした。  ……のだが。 「とうま、とうま。 一体何の感想文を講くの?」 「今年のテーマは『桃太郎』」 「……、うぁー」 「ちょっと待てそこの外国人少女お前は本当に桃太郎の何たるかを理解してるのか桃太郎は日本が誇る世界の名作童話なんですよほら夏の読書感想文にもピッタリ」 「まったく、とうまは本を読むのが嫌いな人間なんだね」 「むしろ一〇万冊もの本を一字一句丸暗記してる方が普通じゃねーと思う」  ピクリ、とインデックスのこめかみが動いた。  にっこりと。少女はチーズが溶けるみたいな笑みを浮かべて、 「とうま、とうま」 「あんだよ?」 「……、本当は|恐《こわ》い日本昔話って知ってる?」 「やめろ! |俺《おれ》はごく普通の桃太郎の感想を書くんだから! 余計な情報をゴチャゴチャ混ぜると桃太郎の感想文にならなくなる! 大体イギリス|国籍《こくせき》のお前に|何故《なぜ》ダーク桃太郎トークができる!?」 「む。何を言っているのかなとうまは。桃太郎は立派なオカルト本だよ。その原書は一〇万三〇〇〇冊の中にきっちり収録されているんだから」 「は?」 「特に日本文化の場合、パッと見では普通の子守り歌や昔話に|呪説教義《オカルトマニユアル》をカムフラ!ジュしているパターンが多いからね。原題の桃太郎には『桃から生まれた桃太郎』なんて登場しないし」  えーっと、と上条の思考が止まりかけた。まずい、インデックスの説明好きスキルが展開され始めている。今は|膨《ぼう》。|大《だい》な宿題を処理するために一分一秒も惜しいというのに! 「古来より川は|此岸《このよ》と|彼岸《あのよ》を分ける境界線として描かれ、川に浮かぶ、川を渡るという言葉は文字通り生と死を制御する超越者という意味があるんだよ、とうま。|三途《さんず》の川で死者を運ぶ小舟を思い浮かべてもらえば分かりやすいかも」 「ごめんごめん。ストップストップ」 「川から流れてきた桃、というのも生と死を超越した禁断の果実、と受け取るのが正解なんだね。それで、東洋文化にむける不死の果実と言えば|聖王母《せいおうば》の守る|仙桃《せんとう》。原題の桃太郎が『桃から生まれた桃太郎』ではなく、『桃を食べたおじいさんと熔ばあさんが若返って……』という話である事から分かる通り、つまりこれは道教における|練丹術《れんたんじゆつ》の|秘儀《ひぎ》を————」 「ストーップストーップ! はい脱線オカルト話はここまで! インデックス先生の次回作にご期待ください! ってかいい加減に宿題やらせろこの野郎!!」  えー? と不満そうな声をあげるインデックスを無視して|上条《かみじよう》は原稿用紙にシャーペンを走らせる。自分で思っているより筆の進みが遅い。やってる事は反省文を書かされているのと大して変わらないのでは? と思いながらも上条はどうにか原稿用紙を三枚ほど埋めてみた。  ふいー、と上条は労働の後の|安堵《あんど》の息を吐く。  と、タイミングを見計らったようにウェイトレスさんがやってきた。 「大変勅待たせしましたー。コーヒーと日替わりランチAとランチ猫Cのお客様」  おっ、やっときた、と上条はテーブルの上に広げた原稿用紙を片付けようとして、  |瞬間《しゆんかん》。いきなり何の前触れもなくウェイトレスさんが盛大にぶっコケた。 「な!?」  |驚愕《きようカく》する上条の前で、どんがらがっしゃん、とトレイの上に載っていた料理がまとめてテーブルの上に落っこちた。何かご飯の山みたいなものが上条の眼前に|聾《そび》え立っている。  本日のオススメらしい、ハンバーグの皿に使われる小型で|熱々《アツアツ》の鉄板が上条の|太股《ふとももち》に|直撃《よくげき》した。上条は飛び跳ねて鉄板を振り落とし、半分以上本気の涙目で|下手人《げしゆにん》の方を見る。  そこには、あうー、という情けない声をあげて床に突っ伏しているウェイトレスさんが。  みなさん、ドジっ|娘《こ》巨乳ウェイトレスさんなら許せますか? 「許せる訳ねーだろ! ふざけんなこの牛女! |巴投《ともえな》げ地獄を見せてやる!!」 「ま、まあまあとうま。……あれ? とうま、原稿用紙は?」 「……、」 ない。  というか、この出来たてホカホカの、、〕飯の山の中から見つかって欲しくない。      6(Aug.31_PM06:32) 「|捜魔《そうま》の|弦《げん》」  繰り返し、繰り返し弓の弦を引く。  ソナーのように空を裂く弦の音が、標的へ近づいていると|闇咲逢魔《やみさかおうま》に伝えてくる、 「……、そこか」  |闇咲《やみさか》の閉じた視線の先には、一軒のファミリーレストランがあった。  歩道沿いに面したウィンドウの向こうに、一組の少年少女が座っている。 「いざ|戦場《いくさば》へ」  闇咲は複雑な|絡操《からく》りを操り、片手だけで弓を引き絞って、 「開戦の|狼煙《のろし》を上げん。|断魔《だんな》の|弦《げん》」  その弓を、何の罪もないガラス越しの少年へと突きつけた。      7(Aug.31_PM06:35)  |上条当麻《かみじようとうま》はぐったりしていた。  残飯の山の中から発掘された原稿用紙はグチャグチャのフニャフニャになっていて、文字が読めるかどうかも怪しい。こんなものを提出できるはずがない。  と、レース序盤でスタミナの切れたマラソン選手みたいになった上条に、|流石《さすが》のインデックスも唇を引きつらせながら|愛想笑《あいそわら》いを浮かべて、 「で、でもとうま。まだ文字は読めるんだし、新しい原稿用紙に丸写しすれば使い物になるんだよ。少なくても一から内容を考え直す手間が省けたと思えば何ともお得だね♪」  そっすね、と上条は|魂《たまし》の抜けたように答えた。  というか、再び原稿用紙を三枚も埋めうというのが、すでに肉体労働的に|辛《つら》いのだった。 「ちくしょー……せめてキーボード使って良いってんならなぁ」  上条は(一応は)|綺麗《きれい》にしてもらったテーブルに視線を落としながら|呟《つぶや》いた。文字をいっぱい書く、というのも苦手だが、シャーペンでガリガリ書いていくのが何より辛い。普通にメモを取る分なら問題ないが、原稿用紙を何枚も書いていくとなると手が疲れてくる。  あーあ、と上条は何気なく窓を見た。  きっと疲れている自分の顔でも反射してるんだろうな、と思ったが、違った。何か、黒いスーツを着た大男が窓に張り付くようにして、上条|達《たち》の事を|覗《のぞ》き込んでいる。  いや、正確には大男は目を閉じていた。  始め、上条は大男が窓を鏡代わりにして髪を整えているのかと思った。だが、目も開けずに鏡を使う方法などあるはずがない。 (何だコイツ?)  上条がギョッとした|瞬間《しゆんかん》、大男はガラス越しに何かを眩いた。  まるで一〇年ぶりに再会した古い友人に声をかけるような優しい動き。 だが。  大男は右手に装着された、弓矢のようなものを上条に突きつけた。 「!?」  |上条《かみじよう》が|椅子《いす》から立ち上がった瞬間、その|弦《げん》が解き放たれた。りには矢は|番《つが》えられていない。 しかし次の|瞬間《しゆんかん》、大男と上条を隔てる巨大なウィンドウが見えない何かに切り裂かれた。それも一本ではない、まるで見えないワイヤーで八つ裂きにするように。  音すらも切り裂く空気の刃。  テーブルを輪切りにし、インデックスの鼻先をかすめるように無数の空気の刃が暴れ狂う。切り裂かれたウィンドウの破片は内側へ飛んでは来ず、スルリと床へ落ちる。バカ猫が彼女の|膝《ひざ》の上で全身の毛を逆立てる前に、刃の|嵐《あらし》が上条へと|襲《おそ》いかかる。  近くの客席に座っていた人々が慌てて席を立ち、悲鳴をあげようとする。空気の刃、なんて正体不明なモノに対して即座に反応を示したのは、ここが能力者の街だからだろう。  だが、|誰《だれ》一人として、悲鳴をあげられた者はいなかった。  ドン!!と。  上条の省手が、向かい来る空気の刃の|全《すべ》てを吹き飛ばしたからだ。  |幻想殺し《イマジンブレイカー》。それが上条|当麻《とうま》の右手に宿る力。  それが『異能の力』であるならば、どんな能力や|魔術《まじゆつ》も右手で触れただけで打ち消す事ができる。その正体不明の力を|目《ま》の当たりにして、周囲の人々は悲鳴すら忘れて息を|呑《の》んでいた。  無数の刃に襲われたはずの|上条《かみじよう》は、しかし傷一つ存在しない。  風が吹き荒れた。空気の刃を|破壊《はかい》した弊害らしい。どうやらこれは真空刃ではなく、空気を固めて作った圧縮空気の刃らしかった。それも空気の刃を一発一発作って飛ばしているのではなく、小さな竜巻のようなものを生み出しているみたいだ。上条の右手が触れた|瞬間《しゆんかん》、小型の竜巻そのものが打ち消されたようだった。  上条は犬歯を|剥《む》き出しにして、切り裂かれた窓の向こうを|睨《にら》みつけ、 「|透魔《とうま》の|弦《げん》。————こちらだ」  しかし、窓の外にいたはずの大男は、いつの間にか上条の真後ろに立っていた。  上条は、凍りついたように動かない。  両目を閉じたままの大男は、その反応に対して満足そうに小さく息を吐いて、 「この結果は少々予想外だが、無益な|殺生《せつしよう》が減るなら喜ぼう。君は私に投降するんだ。そうすれば私は君に手を出さない。目的のものを手に人れたら速やかに離れる事を|誓《ちか》————」 「ああああ!! 何やってんだテメェ! |俺《おれ》の読書感想文が|紙吹雪《かみふぶさ》になってんじゃねーか!?」  上条の叫びに、大男の言葉が遮られた。  うむ? という表情を大男は浮かべていた。彼にとって、どうやら予想外の展開らしい。おそらく大男的には、これはシリアスなイベントとして受け取って欲しかったのだろう。  だが、そんな事は上条の知った事ではない。  上条は切り裂かれた……というか、もはや細かい紙クズと化した原稿用紙に涙を浮かべ、 「お前! そこのお前! お前がやったんだからお前が責任取れ! 俺の読書感想文を今すぐ書けよ!! テーマは桃太郎で規定枚数三枚以上で目指せ文部科学大臣賞!!」 「知った事か」 「……、オーケー。今日の上条さんはちょっとばっかりバイオレンスですよ?」  上条が|薄《うす》ら笑いと共に|捌《つか》みかかろうとした瞬間、大男の姿がいきなり|虚空《こくう》へ消えた。  な……? と上条は辺りを見回す。  大男は、あろう事かインデックスの真後ろに立っていた。 「手短に済ます。子供の遊びに付き合う気はない」  大男は背後からインデックスの体を抱き締める。  柔らかく触れているだけのはずなのに、インデックスの体が|電撃《でんげき》でも浴びたように硬直して、動かなくなった。バカ猫が慌てて床を走り、大男から距離を取る。  何だコイツは、と上条は思った。  この大男は、どうもインデックスに用があるらしい。確かにインデックスは特別な存在だ。 何せその頭の中に一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を抱えている生きる宝箱なのだから。  しかし、それは科学バンザイの学園都市の能力者には何の意味もないはずだ。  ならば、インデックスを手に人れようとしているこの男は。 「お前……|魔術師《まじゆつし》か」  超能力とは正反対の位置にある、もう一つの『異能の力』。  魔術師。 「いかにも」  名も知れぬその大男は、たった一言で肯定した。 「それで、|穏《おだ》やかじゃねーな。いきなり人様を見えない刃でスライスしようとした後は、女の子を背後から強制セクハラってか。ったく、何考えてんだテメェ。青少年生活保護条例ってのがあ。るって分かっててやってんのかこのロリコン」 「何を考えているのか、ね」  対して、大男は涼しそうに笑って、 「分かるだろう。|此《これ》が一〇万三〇〇〇冊を秘める|禁書目録《インデツクス》だと知りえるならば」  何の前触れもなく、いきなり大男はインデックスを抱えたまま|虚空《こくう》へ消えてしまった。  |透魔《とうま》の|弦《げん》、という言葉だけが|響《ひび》き渡る。  |空間移動《テレポート》……みたいなものだろうか? 「あっ! ちくしょうロリコンって事は否定しねえのかテメェ!! やっぱりテメェの|趣味《しゆみ》なんじゃねーのか!?」 |上条《かみじよう》はワラをも|掴《つか》むように、大男がさっきまで立っていた場所へと掴みかかった。  と、右手は空振りしたが、左手は『ふにゃり』とした柔らかい感触を、何もないはずの空間から掴み取った。 「うひゃあ!?」何もないはずの空間から、インデックスの悲鳴が聞こえる。「と、ととととととうま! 一体どこを触っているんだよ!?」 「あ?」  上条は何もない空間を左手でふにゅふにゅと揉んでみる。  どうも、この何もない空間に何かあるような気がする。何らかの技術を使って姿を隠しているのだ。光の屈折率でも操っているのかもしれない。  チッ、という男の舌打ちが虚空から聞こえた。  上条は確信する。インデックスとあの大男は、空間移動の|類《たぐい》でいなくなった訳ではない。やはり、姿が見えないだけでまだこの場にいるのだ。 と、なると。  この『何もない空聞』には、まだ大男とインデックスが立っているはずで。 で。  上条|当麻《とうぶ》が今掴んでいる、このやたら柔らかいモノは一休何なんだろう? 「……………………………………………………………………………………………、あれ?」  上条の思考が|一瞬《いつしゆん》、空白になった瞬間を|狙《ねら》うように。  彼の真横、すぐ近くの虚空から、不意に大男の手だけが現れた。まるで見えないカーテンから手だけを出した、という感じに。  大男の右腕には弓が装着されている。 「|断魔《だんま》の|弦《げん》」  大男の低い|咳《つぶや》きが聞こえた|瞬間《しゆんかん》、|上条《かみじよう》は反射的に何もない空間から手を離していた。ついさっきまで自分の腕があった場所を空気の刃が走り、重いギロチンのように床を切り刻む。 「くそ! やられた!!」  上条が慌てて腕を振ったが、もうそこには何の感触もない。  逃げられた。  ええい、と上条はバカ猫の首根っこを|掴《つか》む。  インデックスの身が心配だ。彼女は頭の中に一〇万三〇〇〇冊もの|魔道書《まどうしよ》を|記憶《きおく》している、歩く魔道書図書館なのだ。そして、その魔道書|全《すペ》てを使えば世界の|全《ルコル》てを|歪《ゆが》めて意のままに操る事さえ可能らしい。  あの大男がそれを求めているなら、情報を引き出すために何か危害を加えるかもしれない。 (くっだらねえ————)  上条は奥歯を|噛《か》み締めて、 (————たかが一〇万三〇〇〇冊を持ってるから、何だってんだ。そんなつまんねえモンのために|誘拐《ゆうかい》されて暴力を受けるなんざ割に合わなすぎんだろうが!!)  上条は舌打ちして、出口に向かって走ろうと勢い良く振り返り、  そこに、ニッコリ笑顔の(しかし目は笑っていない)ウェイトレスさんが立っていた。  しかもドジっ|娘《こ》巨乳ウェイトレスさんから|高機動型戦闘少女《こうきどうがたせんとうしようじょ》に転職した模様。 「少々お待ちいただけますか、お客様?」 「……、あ」  上条は改めて、己の周りに視線を走らせる。  大きなウィンドウはバターみたいに切り裂かれ、テーブルは輪切り状態。業務用の道具の詳しい値段は分からないが、どうも家庭向けの一般製品よりも高そうな気がする。 「…………、あー」  上条の口の端が引きつった。  お店の奥から、筋肉ムキムキの店長さんが満面の笑みを浮かべてやってくる。      8(Aug.31_PM07:30) 「くそっ! ちくしょう! 絶対ぶっ殺してやるあのロリコン誘拐魔!!」  上条はバカ猫を抱えて、暗い裏路地を爆走しながら叫んでいた。  もちろんファミレスからは逃げた。ムキムキ店長とにこにこウェイトレスさんと一部の勇気ある善意のお客様に追われる事一時聞弱———裏路地から裏路地へ|縫《ぬ》うように進んでいるが、|未《いま》だ完全に振り切ったという保証はない。  これはもう宿題どころの|騒《さわ》ぎではない。下手をすると停学とかになるかも。 「うふ、うふふ。うふうふうふうふふふふふふ!!」  口元に危険すぎる笑みを浮かべながら|上条《かみじよう》は暗い裏路地を走り抜ける。  ここにきて上条の怒りは頂点に達していた。ただでさえ時間が足りない中、それでも宿題を頑張ろうとしている最中、よりにもよって本物のロリコンに水を差され、妙な罪まで着せられて停学にされるかもしれないという|窮地《きゆうち》に立たされているのだ。これで怒らない方がおかしい。 (しっかし、ホントに|大丈夫《だいじようぶ》だろうなアイツ)  上条はため息をつく。  インデックスはイギリス清教の|魔女《まじよ》狩り専門の|戦闘《せんとう》部署『|必要悪の教会《ネセサリウス》』の人間である。……のだが、あの|小《ち》っこいのに戦闘能力があるかどうかは疑問である。  一刻も早くあの変態からインデックスを奪還したいが、かと言って手がかりがない。 (さて、本格的にどうするよ?)  上条が首をひねった時、バカ猫が腕の中からするりと抜けて、道路に下り立った。上条の方など見向きもしないで、そのまま前方へ走って行ってしまう。「お、おい! ちょっと待てって!」  上条はさらに頭を抱えそうになったが、ふと思った。猫は|嗅覚《きゆうかく》が鋭かった気がする。いや鋭いのは犬か?でも猫だって人よりは鋭い気がするし、けど警察犬っているけど警察猫って聞いた事ないな、どっちなんだろ? とか何とか考えながら上条は|三毛猫《みけねこ》を追いかけてみた。もしかしたら|聴覚《ちようかく》なり嗅覚なりを駆使してインデックスの屠場所を探索しているのかもしれない。  バカ猫の足は速い。  上条は見失わないように、全力で、走って、走って、走って、走った。  そして、その先にあったのは……。 「……、何だここ。ホテルの裏口か?」  ホテルというか、デパートやレストランや宿泊施設や屋内レジャーやスパリゾートなど、とにかく何でも詰め込んだような、多目的ビルといった感じだった。しかし、やっぱりそれらを取り仕切っているのは世界的なホテル企業だ。  上条は『ホテル』の壁を見上げながら、何かとてつもなく嫌な予感に|襲《おそ》われていた。まさかあのロリコン、本気でこんな所にインデックスを連れ込んだのか? だとしたら筋金入りというかもはや手に負えないそと上条はちょっと真剣に青ざめた。  と、上条の視界の隅でバカ猫が何かガサゴソと|漁《あさ》っているのが見えた。 「?」  |上条《かみじよう》が何気なく視線を向けると、バカ猫がポリバケツの|蓋《ふた》を器用に前足で開けて、その中に顔を突っ込んでいる。  上条はもう一度建物を上へ上へと見上げてみる。  ここは結構大きなホテルだ。基本的に閉鎖的な学園都市に宿泊施設は必要ないと思われがちだが、学会などが開かれた時のためにいくつか用意されている。しかも外からの人間へのイメージアップも兼ねているのか、ホテルは場違いなぐらい豪藁なものばかりなのだ(もちろん、学会が開かれなければ客足はゼロに等しい。そのための涙ぐましい打開策が同じ建物内のデパートや屋内レジャーという形で現れている)。  となると、建物内にあ。るレストランもまた評判が良い訳で、そこから出る生ゴミもまた、普通のエサ場に比べて高級品という事になるんだろうが…… 「ぼらああああああああああ! キサマは飼い主に対する恩義とかねーのか!? 仮にもテメェを拾ったのはインデックスだろうが!!」  上条は猫畜生相手に本気で怒鳴りつけたが、バカ猫はみにゃーと鳴くばかり。  結論。バカ猫はやっぱりバカ猫だった。      9(Aug.31_PM08:15)  実は、バカ猫が立ち止まったホテルの屋上で、|闇咲逢魔《やみさかおうま》は給水塔の壁に寄りかかるように座っていた。インデックスはロープで|縛《しば》ってそこらに転がしてあ。る。  闇咲は頭上、|遥《はる》か天高くを仰ぎながら舌打ちする。聞いた情報では、学園都市は人工衛星によって常に内外に監視の目を光らせているという事だったが、何の|音沙汰《おとさた》も妨害もない。かと言って、学園都布の面々が無能とも思えない。泳がされているのだろうか。 (……構わない。ならば欲する物を手に人れ、なおかつ相手の|罠《わな》をかいくぐるまで)  最初からそれだけの覚悟はしてきた。だからこそ、闇咲はこの状況でも|臆《おく》しない。  ゆっくりと息を吐き、そして今まで閉ざされていた両の|眼《まなこ》を静かに開けた。  それは、見る者がいれば|驚《おどろ》きに息を止めていただろう。  別にその眼光が恐ろしく鋭いのではない。義眼などの特殊な作りをしている訳でもない。  そこにあるのは、あまりに平凡な|瞳《ひとみ》。  |漆黒《しつこく》のダークスーツを着込み、自らを|魔術師《まじゆつし》と名乗る|戦闘《せんとう》のプロには到底不釣合いなほどに純粋な、まるで世界の闇を知る前の少年のような瞳。  闇咲はスーツの内ポケットから、一枚の写真を取り出した。  写っている女は、赤の他人だった。  |闇咲《やみさか》より二、三歳年上の———少女ではなく、女性と表現するべき女。線が細く、色白で、夏の日差しの下に置いておけば三〇分もしない内に倒れてしまいそうな印象がある。  実際、その印象に間違いはない。女の体は初めて見た時から病んでいた。それも普通の医学ではありえない———|呪《のろ》いによって。東洋風に言うなら鏡と剣を使った|呪禁道《じゆこんどう》の|厭魅術《えんみじゆつ》、西洋風に言うなら|類感魔術《るいかんまじゆつ》の一種『類似の呪い』とでも表現するだろうが、言葉遊びなどどうでも良い。ようは、手の|施《ほどこ》しようのない死にかけの女だったというだけだ。  別に、その死にかけの女が助けてくださいと言った訳ではない。  その女は、もう疲れたように|微笑《ほほえ》む事しかできない女だった。  闇咲はその女とは何の縁もない。家族でも友人でもない。ある病院の中庭で時たま会話を交わす程度のものだし、そもそも女は闇咲が魔術師である事にすら気づいていない。別にそんな女のために立ち上がる必要などなかった。そんな事のために命を|賭《か》けて戦うなど、そもそも理由として成立しない。  それでも、闇咲は魔術師になれば何でもできると思って生きてきた。  もう二度と、挫折したくないから魔術師になると誓いを立てていた。  闇咲は女の事などどうでも良い。どうでも良いが、こんな死にかけの女一人も助けられないで、何が『何でもできる』か。何が『もう二度と挫折したくない』か。こんな簡単な事でつまずく訳にはいかない。こんなつまらない事で己の夢を|諦《あきら》める訳にはいかなかった。  それだけだ。  それだけのはずだ。 「……、ふん」  闇咲は写真をスーツの内へ戻すと、人間としての心を封じるように両目を閉じた。そして顔を上げる。感覚器官|全《すべ》てを強化した闇咲は、五感の一つ二つ封じても問題はない。  顔を上げた先に、インデックスがいた。企身をロープで|雁字搦《がんじがら》めに|縛《しぱ》られて、固いコンクリートの上に転がしてある。……はずだったが、いつの間にか起き上がって、不満そうな顔であぐらをかいていた。。 「ほう、|驚《おどろ》いたな。この短期間で結び日を二つも解いたのか。|縄縛術《じようばくじゆつ》は私の専門ではないが、それでも下級妖物ぐらいは縛れるものだと自負していたのだがね」  インデックスの体を縦横無尽に縛り付けているのは電気コードのように細いが、立派な|注連縄《しめなわ》だ、、簡単な話、彼女はものすごく小さな結界に|囚《とら》われているのである。  そんな絶体絶命大ピンチ状態のインデックスだったが、表情に恐怖はない。 「縄は日本が産んだ独自の|拷問《ごうもん》文化だけど、こんな雑な方法じゃ私はしゃべらないんだよ」  少女はその言葉を、ごく普通に口に出した。  縛り。それは見た目に反して人を殺すほどの威力を持つ|凄惨《せいさん》な拷問だ。例えば手首を縛って三日ほど放置しておけば、体の血流が止まり自分の手首が腐っていく光景を、生きたまま見せられる事になる。その肉体的苦痛は元より、精神的苦痛は計り知れないものがある。  インデックスは|闇咲《やみさか》を|睨《にら》みつける。  実際、一〇万三〇〇〇冊を守り続ける少女にとって、その手の危機は常に付きまとうものだった。よって、ある梶度の耐性も身についている。彼女は呼吸を調節する事によって、意図的に貧血状態を作り出し、痛覚を鈍らせる事ができるのだ。  あくまで、ある程度だが。  血流を封じられ、生きたまま手足が腐っていく場面を見せつけられて、それでもなお正気を保っていられるかどうかなど、当然ながら自信はない。あるはずがない。  実はインデックス白身も気づいていないセキュリティがもう一つあったのだが、そちらはある少年の右手によって|破壊《はかい》されてしまっている。  と、闇咲はほんのわずかにため息をついて、 「なるほど。腐っても|魔女《まじよ》狩り・|拷問《ごうもん》裁判に特化したイギリス清教の人間という事か」 「……腐っても。|酒落《しやれ》だとするなら最悪かも」 「いやいや。そんなつもりはなかったんだが。ついでに言うと拷問するつもりもない」 「だったら、結びがキツすぎるんだよ。腕や足の動脈を止めたり肺を圧辿するのは良くないもん。生かすつもりの|縛《しば》りなら、親指を軽く縛るだけで動きを封じられるのに」 「なるほど。専門家は詳しいな」  闇咲は適当に言いながら、インデックスの言葉通りに縄の結び目をいくつか解いていった。 これには逆にインデックスの方が面食らってしまう。敵のくせに、あまりに素直すぎる。  対して、闇咲は涼しい顔で答えた。 「言ったはずだ。君を拷問する事が目的ではないと」続けて、「もっとも、君の中にある魔道書を手に人れたいというのも事実なのだがな」  インデックスは一の前にいる闇咲を睨みつける。  |記憶《きおく》の中に封じた一〇万三〇〇〇冊の魔道書。それを守るのが彼女の役目だ。 「さて」  闇咲は、そんな少女の眼光を涼しげに受け流すと、 「準備のために少々時聞がかかるな。まずは増幅のための結界を張らねばなるまい」      10(Aug.31_PM09:21)  バカ猫の奇妙な陽動作戦のおかげで余計な時間を食った。  |上条《かみじよう》は|件《くだん》のバカ猫の首根っこを|掴《つか》みながら夜の街を走り回る。ご飯時を過ぎた事もあって、一時的に外に出ていた生徒|達《たち》は波が引くように姿を消していた。お店から流れる有線放送や電気店の前に並べられたテレビの晋声だけが、ほとんど無人となった暗い街に鳴り|響《ひび》いている。客のいないコンビニの中で、フリーターらしき男が一人退屈そうにレジ番をしているのが見えた。 (まずったな。そろそろ時間的にヤバイかもしんねえ)  |上条《かみじよう》は|湧《わ》き上がる不安を少しでも軽減させるように息を吐く。  あの大男はおそらくインデックスを殺すためにさらった訳ではない……と思う。そうそう簡単に危害が加わる事はないとは思うが、安心して良い状況ではないのは|誰《だれ》でも分かるだろう。  何より一番厄介なのは、どこを探せば良いか見当がつかない、という所か。精一杯努力した結果、思いっきり目的地と正反対の方向に走っているような気がして、何をしてもとにかく|焦《あせ》りまくるのだ。 (かと言って、止まっても仕方ねえんだよな。ちくしょう、結局足りないアドバンテージは足で稼げって事かよ!)  まったくあの真っ白シスター余計な面倒かけさせやがって、と上条は毒づきながら勢い良く曲がり角へ突っ込もうとする、  と、ちょうど曲がり角から出てきた女の子とぶつかりそうになった。 「ぎゃあ!? っと、何やってんのよアンタ!」  その、とてつもなく女の子らしくない悲鳴をあげた人物は、肩まである茶色い髪をした勝気な顔をしていて、灰色のプリーツスカートに|半袖《はんそで》のブラウスにサマーセーターという格好をしていた。 「やっと見つけたわよ。あの後私を置いてニセ|海原《うなばら》とさっさと逃げ出しちゃってさ。アンタ、昼間は何があったの? なんかビルの|倒壊《とうかい》に巻き込まれてたみたいだけど、|怪我《けが》とかない訳?まったく、無事なら無事って連絡人れなさいよね!……ん? アンタ私の番号知らなかったっけ」  |御坂美琴《みさかみこと》。  能力開発の名門、|常盤台《ときわだい》中学のエースにして、学園都市でも七人しかいない|超能力者《レペル5》で|電撃《でんげき》使いの少女。その前髪から発せられる電撃の|槍《やり》は一〇億ボルトもの高圧電流に達するそれで上条と美琴の関係は友人と言うよりケンカ相手といった間柄であるけど今の上条にはそんなモン知った事ではないので無視して角を曲がってダッシュダッシュ、  と、置いてきぼりをくらった美琴は美琴で、 「って、え? あれ? ねえちょっと! 何でそんなあっさりスルーしちゃう訳!?」  何か叫んでいるようですが気にしません。  ダッシュダッシュ。 「おい! いくら何でもこの扱いはあんまりだとか思わないのーっ!?」  繰り返しお伝えしますが気にしません。  この事件に|美琴《アナダ》の|出番《イベント》なんてありませんのことよ。 「ふざ……っけんな————いつもいつもいい加減にしろアンタはあ。ああ!!」  バチン、と|上条《かみじよう》の背後で火花が散るような音が聞こえた。  上条はギョッとして振り返る。|美琴《みこと》の前髪から|蒼白《あおじろ》いスパークが散っていた。ついさっき述べたと思うが、美琴の|雷撃《らいげき》の|槍《やり》は一〇億ボルトに達する。『雷撃の槍』なんて名前でピンと来なければ、ようは天然モノのカミナリが水平に飛ぶと思えば良い。  上条は右手を構えた。  それが異能の力であるならば、触れただけでどんな超能力でも|魔術《まじゆつ》でも打ち消す事ができる右手。美琴の雷撃の槍も打ち消す事ができるのは分かっているが、やっぱり|恐《こわ》い。何せ、しっかり右手で雷撃の槍を打ち消さないととんでもない事になるからだ。  バヂッ! と美琴の前髪で蒼白いスパークが跳ね飛び、  ズドン! という|衝撃波《しようげきは》と共に、|一瞬《いつしゆん》で雷撃の槍が空を引き裂く。 「!?」  しかし、雷撃の槍は上条を|狙《ねら》ったモノではなかった。すぐ近くでガム取りをしていた清掃ロボットに突っ込んだのだ。  瞬間、清掃ロボットの内部スピーカーが爆発した。づばん!! というスピーカーをぶっ|壊《こわ》すほどの衝撃波じみた|大音響《だいおんきよう》が|炸裂《さくれつ》し、すぐ近くのデパートのガラスのドアがビリビリと|震《ふる》える。  当然、そんな大ボリュームを間近で聞いていた上条のダメージは深刻なものだ。。月から入った衝撃に体内からバランス感覚を狂わされ、足元はふらつき、くわんくわんになった頭を振ってその場に立ち止まってしまう。ちなみに上条の腕の中のバカ猫は|可愛《かわい》らしい悲鳴『みにゃー』から割と本気の絶叫『ふぎゃあ! しやーっ!!』に進化していた。  一方、美琴は上条の足を止められた事にそこそこ満足したのか、 「ふん、ようやく止まったわね。ったく人様にぶつかりそうになって一言もなしってのはどういう———って、あれ? アンタ、なに本気で泣きそうになってんのよ?」 「急いでんだよ、思いっきり! 宿題とか人さらいとかファミレスの|騒《さわ》ぎとかついでに無銭飲食とか!! お願いですからその辺りの事情を察してください!!」  半分以上ヤケクソな上条の叫びに、美琴は面食らったようだった。  だが、上条はそんな事など気にせず、 「それで何だよもう! 何の用なんだ! 御用がおありの方はピーという発信音の後に四〇秒以内でお容えください! はいピーッ!!」 「え、あ、なに? いや単に相手にされなかったのがムカついただけで、特にこれと言って用事がある訳じゃないんだけど。……ある訳じゃないんだけどさ」 「御免」  上条はくるりと美琴に背を向けて再びダッシュ。  彼女の言葉はなんか冷静に意味を|汲《く》み取ってみれば割と好感触なセリフに聞こえなくもないが、今の上条にはそんな事を分析するだけの余裕もない。 「なっ……ちょっと! アンタ本気で行っちゃう訳!? ねえってば!!」  後ろで何か叫んでいますが気にしません。  ダッシュダッシュ。      11(Aug.31_PM09:52)  インデックスは、今自分が置かれている状況を良く|呑《の》み込めていなかった。  敵と思われる|魔術師《まじゆつし》はインデックスの体を拘束するだけで、その|他《ほか》には何の危害も加えてこない。今は細い|注連縄《しめなわ》を使って辺りに結界を張ろうとしているようだが(どうも、|魔術師《まじゆつし》の言った|縄縛術《じようばくじゆつ》は専門でないという|台詞《せりふ》は|謙遜《けんそん》のようだ)、インデックスの事は常に意識の端に|留《とど》めておく程度にしか見ていないようだった。  縄で|縛《しば》ってそこら辺に転がしてある、というのは女の予の扱いとしてかなりどうかと思うが、|捕虜《ほりよ》の扱いとしては最上級と感謝すべきだろう。  魔女狩りにおける|拷問《ごうもん》とは、オレンジジュースみたいなものだ。とにかく|肉体《けレンジ》を|搾《しぼ》って|情報《ジユース》を取り出す。搾られたオレンジがどうなろうが知った事ではない。捨てられるオレンジの痛みを想像してしまうような人間には、最初から人を捕らえる事などできないのだ。もっとも、それ[#「それ」に傍点]ができる人間はイギリス清教の中でさえ、ごく少数だ。|戦闘《せんとう》に特化していないインデックスには人を傷つける事もできないし、実際『裁判』に出席する|異端審問官《インクジシヨナー》の多くも、暗示や|魔草《まそう》などの効能を使って一時的に罪悪感を打ち消していたりする。企く索の表情で人間をオレンジのように搾れる人間など、そうそうお目にかかれるものではない。  インデックスは、視界の先で結界作りをしている魔術師を見る。  どうも、彼はオレンジジュースを作る事ができない人間らしい。  それは弱さ|故《ゆえ》か。  それとも。      12(Aug.31_PM10:07) 「はぁ、はぁ!!」  |上条《かみじよう》はあれから|御坂美琴《みさかみこと》を|撒《ま》きつつ、|闇雲《やみくも》に街を走り回っていたが、一向にインデックスの姿は見つからない。、 「あーくそ! もう今日が終わるまで二時間もねえ! ホントに宿題どうすんだよ! これで終わんなかったらあのロリコン本格的にぶっ殺してやる!!」  ハタから見れば危険極まりない独り言(もとい、独り絶叫)を放ちながら、上条は鬼の形相で夜の通りを走り抜ける。  しかし、その声には何か大きな不安を無理矢理に押し隠そうとしているような|響《ひび》きがあった。インデックスが連れ去られてから、もう何時間も経過している。 (一人じゃ手に負えねえ。素直に通報した方がいいか?)  学園都市には、普通の警察とは違う対能力者用の治安維持機構に『|警備員《アンチスキル》』と『|風紀委員《ジヤツジメント》』というものがある。|警備員《アンチスキル》は|次世代《ハイテク》兵器に身を固めた教師陣、|風紀委員《ジヤツジメント》は生徒の中から選出した能力者部隊という事になる。  たとえ相手が|追撃《ついげき》を|避《さ》けるために姿を消して逃げたとしても、現場の遺留品から|読心能力者《サイコメトラー》は行き先を読む事もできる。インデックスを奪還する時も、数に物を言わせて相手を|叩《たた》き|潰《つみ》した方が安全だろう。 (しかし……)  |上条《かみじよう》は奥歯を|噛《か》む。オカルト側の人間であるインデックスは学園都市の人間ではない。いわば密人国しているような状態なのだ。下手に警察機関の協力を仰ぐと、今度は別の問題が浮上しかねないという危険を|孕《はら》んでいる。 (どうする?)  上条は立ち止まる。すぐそこに交番が見える。 (どうする!?)  上条が迷っていると、交番の前に立っている男がこちらへ近づいてきた。そんなに|焦《あせ》りが顔に出ていたんだろうか、と上条は思う。相談するか|否《いな》か判断がつかない内に、|警備員《アンチスキル》の男はずんずんと上条の元へと近づいてきてしまう。  上条が何かを言う前に、|警備員《アンチスキル》はこう言った。 「君、第七学区のファミリーレストランでガラスを割る|騒《さわ》ぎを起こさなかったかい?」 「え?」 「被害届を出してきた店長さんの心を|読心能力者《サイコメトラー》に読ませて似顔絵を描いたんだが。……、待ちたまえ。君、どうもどこかで見た顔だな。む、昼にも同じ第七学区ビル|倒壊《とうかい》の件で君の姿を|目撃《もくげき》しているという証言があるな。あれによって|第二級警報《コードオレンジ》が発令されたはずだが……まさか、今の|第一級警報《コードレッド》も|全《すべ》て一つの事件で|繋《つな》がっているという事ではあるまいな……」 「……………、えー?」  上条は引きつった笑みを浮かべたまま、回れ右した。  そして猛然とダッシュ開始。  居場所を失ったあの|魔術師《まじゅっし》は|土御門《つちみかど》に預けたんだけどちゃんと面倒見てやってんのかなー、と思いながらも恐るべき逃げ足で上条はその場から走り去る。 「こ、こら! 止まりなさい! 待たんか!!」  止まるはずがない。待つはずがない。上条はそのまま陸上部にスカウトされそうな勢いで大通りを走り抜ける。|撒《ま》けるか? 撒いたか? あっはっはドン|亀《がめ》ノロマがぁ! と上条が勝利の愉悦に浸っていると、突然後ろからパン!! という銃声が聞こえてきた。  見れば、|警備員《アンチスキル》の抜いた二二口径の銃口から白煙がゆらりと。  一発目から水平|射撃《しやげき》。見事です。 「っつか殺す気か不良警官! テメェ人を何だと思ってやがる!!」 「案ずるな。子供の人権を考えてしっかりゴム弾だ」 「空砲じゃないの!? ってかゴム弾でも|肋骨《ろつこつ》ぐらいは折れるんですけど!」  |上条《かみじよう》はほとんど絶叫しながら裏路地へと逃げ込んでいく。今が何時とか宿題がどうとか、もはやそんな事を言っている場合ではなかった。インデックスは無事だろうか?      13(Aug.31_PM10:52)  ビルの屋上には無数の縄が張られていた。  それは遠目に見れば、運動会の万国旗のように見えたかもしれない。給水塔を頂点にして、四方八方ヘロープが伸び、ビルの端のフェンスに|縛《しば》り付けられる。縄の途中には和紙に墨で印を描いた護符を一定の間隔で何十枚と|貼《は》り付けていた、。  縛られたまま座り込んでいるインデックスは|訝《いぶか》しげに、 「これは……|神楽《かぐら》舞台?」  神楽。その名の通り、神に奉納する舞の事だ。 「そんな大それた|代物《しろもの》ではない。薙し詰め、盆踊りの会場といった所だな」  神仏混合というヤツだ、と|闇咲《やみさか》は答える。  言われてみれば、給水塔が|櫓《やぐら》で、そこから伸びるロープは櫓から伸びる|提灯《ちようちん》の列のようにも見える(と言っても、インデックスの情報源は本の挿し絵しかないし、盆踊りに櫓や提灯の列を使うようになったのは近代に入ってからの事なのだが)。  もちろん舞と踊りは区別すべきだが、オカルト一点から見れば盆踊りも、起源を|辿《たど》れば死者へ捧げる|鎮魂《ちんこん》の踊り———つまり|霊的《れいてき》なモノに対するコンタクトという点においては、神楽と似た部分がある。  盆踊りのように、|儀武場《ぎしきじよう》を用意して一定のルールに合わせ、複数人が円を描くように回る……というのは、それだけで常的コンタクトの意味合いを持つ。西洋圏では『ローシュタインの回廊』という|悪魔《あくま》崇拝の儀式、また現代の都市伝説『山小屋のスクエア』など、それは文化や時代を越えて様々な形で表現されているほどだ。 (だけど、そんなものを用憲して……まさか私に何かを|愚《つ》かせる気———|痛《いた》っ!)  お|尻《しり》が何かを踏んづけた、もぞもぞと位置を移動すると、携帯電話だった。〇円ケータイとかいう|凄《すさ》まじくおざなりな物を上条にもらったのだが、インデックスには使い方が分からなかった。なんか画面がピカピカ光っているが、闇咲を刺激してはいけないとインデックスは後ろ手で|縛《しば》られたままの手をちょこちょこと動かし、携帯電話を隠す事にした。途中、いくつかのボタンを押してしまったが気にしない。  幸い、|闇咲《やみさか》は気づかなかったようだ。  彼は、右腕に装着された弓を誇示するように、 「なに。結界を張ったのは少しばかりコイツの威力を増強しようという|魂胆《こんたん》だ。この弓は、元々舞踊の席で使うべきものだから」  インデックスは結界をざっと見回し、それから頭の中にある知識を照らして、 「……、|梓弓《あずさゆみ》?」 「素晴らしい。|日本《こちら》の文化圏もカバーしているのか、その|魔道書《まどうしよ》図書館は」  梓弓。———矢を射る事ではなく、弓を引き|弦《げん》の音を鳴らす|衝撃《しようげき》で、魔を|撃《う》ち抜くと言われる日本神道の|呪具《じゆぐ》。本来は|紳楽《かぐら》の舞に使われる楽器で、弦の音を使い舞を踊る|巫女《みこ》をトランス状態に導いて神を降ろす手助けをするためのものだった。 「|此《これ》の。兀々の威力はせいぜい心の患部に衝撃を加え、|歪《ゆが》みを正す程度の力しかないのだが」  闇咲は頭上の縄を指差し、 「このように、一定の条件さえ|揃《そろ》えれば———相手の心の中を詳細に読む事ができる。そう、例えば胸の内に必死に隠している一〇万三〇〇〇冊を暴く事なども、な」  インデックスがギョッとした|瞬間《しゆんかん》、縦横に張り巡らせた縄を中心に、空間そのものが淡く輝き始めた。闇咲は|絡操《からく》りを川いて、右手の梓弓の弦を引き絞る。 「だ、ダメ!!」インデックスが、子供のような悲鳴を上げた。「これは、あなたの思っているようなものじゃないの! 普通の人間なら、一冊でも目を通せば発狂しちゃうんだから。いかに特別な魔術師と言ったって、三〇冊も耐えられない! 私以外の人間が、一〇万冊以上もの魔道書を読み取れば何が起こるか、あなただって分かっているでしょう!?」  まるで敵を心配するような声に、闇咲|逢魔《おうま》は静かに笑った。  静かに笑って、こう言った、 「無論、百も承知」      14(Aug.31_PM11:10)  |上条《かみじよう》は|警備員《アンチスキル》を振り切るために暗い路地を走りながら『それ』を聞いていた。  インデックスと変態の声は、携帯電話から聞こえてきた。突然、今まで電源が切れていたはずのインデックスの0円ケータイから着信があったのだ。声は何かマイク部分を布で押さえたようにくぐもっていて、しかも上条との会話を成立させようともしていない。まるで|盗聴器《とうちようき》で他人の会話を聞いているようだった。  ギィン、と。  異音を立てて、遠くのビルの屋上が淡く輝き始めた。まるで巨大な光の柱が天に昇るような感じだった。 (あれは……? ちくしょう、さっきのホテルじゃねーのか!? 今までの苦労は何だったんだ!)  もちろん、あそこにインデックスがいる確証などどこにもない。だが、アテがある訳ではないのだ。とにかく怪しい所は全部見て回る、と|上条《かみじよう》はそのビルへ向かって進路を変えた。      15(Aug.31_PM11:20)  始まってすぐに異変が起きた。  光に包まれた巨大な結界の中、弓を引く|闇咲《やみさか》の体が|風邪《かぜ》のように小刻みに|震《ふる》え出した。全身から気持ちの悪い汗がぶわっと噴き出し、その日の焦点がぐらぐらと揺らいでいく。  闇咲の行っている事は、簡単に言えばインデックスの心の中を|覗《のぞ》いているだけだ。術式にも手法にも手違いはない。本来、副作川に|襲《おそ》われるような危険な|魔術《まじゆつ》でもない。  にも|拘《かか》わらず、闇咲の寿命は確実に削られていた。  彼女の心の中身———そこに仕舞いこまれた一〇万三〇〇〇冊の魔道書は、それぐらいの毒素だった。 「——、———————!!」  闇咲|逢魔《おうま》は、|頭蓋骨《ずがいこつ》を内側から砕きかねない頭痛に襲われ、声も出なかった。  闇咲にしたって、一〇万三〇〇〇冊|金《すべ》ての魔道書を手に人れられるとは考えていない。そんな大量の魔道書を頭の中にコピーする事など、最初から不可能なのだ。  ようは一冊の魔道書があれば良い。その名は『|抱朴子《ほうぼくし》』。中国文化における不老不死、『仙人』となるための魔道警で、その中にはあ。らゆる病や|呪《のろ》いを解く薬を作る『|錬丹術《れんたんじゅつ》』というモノが載っているはずだった、  それさえ手に人れられれば問題ない、  余計な手の加わった|偽書《レプリカ》や解釈を間違えた|写本《コピー》ではなく、限りなく|原典《オリジン》に近い純度を誇る魔道書が一冊あれば、事足りるはずだった。 「———————、———!!」  だが、たった一冊でこの威力。  闇咲はここに来て、|何故《なぜ》『偽書』や『写本』が純度を|薄《うす》めるような、|無粋《ぶすい》で余計な手を加えられていたのか、その答えを知った。毒が強すぎるのだ。ある程度の毒抜きをして、純度を落とした状態でなければ常人には日を通す事も|適《かな》わないほどに。  闇咲は、自分を止めようと何かを叫んでいる少女を見た。  一ページめくるだけで脳をえぐる魔道許を、一〇刀三〇〇〇冊も|溜《た》め込んでいる少女を。  それは人間にできる所業ではない。  それを成し遂げた少女の方こそが、異常と呼んで間違いない。 「———————————!!」  弓の|弦《げん》を鳴らすたびに、猛毒の|魔道書《まどうしよ》が一ページまた一ページと|闇咲《やみさか》の脳へと引きずり込まれていく。手に人れた猛毒のページはコーヒーに溶けるミルクのように闇咲の心と混じり合い、|混濁《こんだく》させていく。  それでも、闇咲は歯を食いしばって弓を引く。  魔術師になれば何でもできると思って生きてきた。もう二度と挫折したくないと思ったから魔術師になる事を誓った。だから、こんな所でつまずく訳にはいかなかった。死にかけの女がいた。その女は助けてと叫ぶ気力も残っていなかった。日前に迫る死に対して|微笑《ほほえ》む事しかできない無力な女。こんなつまらない人間も助けられないで『何でもできる』も『挫折したくない』もない。こんなつまらない女のために、自分が今まで大事に育ててきた夢に傷をつけるなんて考えられない。  だからこそ、闇咲|逢魔《おうま》は弓を引く。  たとえ目や耳から血を噴き出してでも、目的の魔導書をこの手に収めてみせる。  この身が傷つき罪に|溺《おぱ》れるのは、己の欲望のためだ。  決して、あんなつまらない女のためではない。  絶対に、あんなつまらない女のせいではない!      16(Aug.31_PM11:37)  |上条《かみじよう》はビルの裏口の扉を|蹴破《けやぶ》り、中へ飛び込んで非常階段を駆け上がる。 『……、違うよ』  階段を駆け上がる最中、携帯電話からはインデックスの声が聞こえてきた。 『私は分かる。その|梓弓《あずさゆみ》———威力が増幅されすぎて、あなたの心が私の中に逆流している。だから分かるもの』  声は悲痛で、今にも泣き出しそうだった。  まるで、|壊《こわ》れていく心を理解していくように。 『あなたはただ、その女の人が好きだった。だからこそ、命を|賭《か》けても助けたかった。けど、助けるためには他人を傷つけて、罪を犯さなければならなかった。だから、その責任をその女の人に押し付けたくなかった。お前のせいで罪を|被《かぶ》ったんだぞって、お前がいなければ罪を犯さずに済んだのにって、そんな|台詞《せりふ》は絶対に言いたくなかったから!』  インデックスの叫び声は、|誰《だれ》かを引き止めるためのものだった。 『それだけだったはずだもん! だったら、だったらあなたは破滅しちゃいけないんだよ!その女の人にかけられた|呪《のろ》いを解くにしたって! あなたが壊れたら、その女の人は罪悪感を 背負って生きていく事になるから!』  |上条《かみじよう》は走りながら、奥歯を|噛《か》み締める。 『助けたいんでしょう、その女の人を! 手を差し伸べたかったんでしょう、世界でたった一人でも! 死に至る|呪《のろ》いをかけられた人を見て、見て見ぬふりはできなかっただけなんでしょう! だったらダメだよ、こんな|薄汚《うすよご》れた|魔道書《まどうしよ》に|頼《たよ》るなんて方法じゃ!!』  そういう事か、と上条は|金《すべ》てを理解した。  上条は最上階のさらに上へと駆け上がる。階段の終点、屋上へ|繋《つな》がるドアまで一直線に走り抜けると、ドアノブを|掴《つか》んで開けるのももどかしく、上条はそのままドアを|蹴破《けやぶ》った、      17(Aug.31_PM11:47)  屋上に入った|瞬間《しゆんかん》、上条の右手が『何か』に触れた。  それは結界を作るロープの一端だった。上条の指が触れた瞬間、まるで急激に風化するようにロープが崩れて消えていく。それでいて、その速度は導火線に火を放つように迅速だった。  あっという間にロープから別のロープへと|破壊《はかい》が広がっていき、やがて空間そのものを輝かせている淡い光が消えていく。気がつけば、そこはもうただのホテルの屋上に戻っていた。  上条の腕の中から、するりとバカ猫が地面に下りた。  状況を全く理解していないのだろう、バカ猫は|上条《かみじよう》の元を離れ、離れた場所に座らされている少女の方へと無防備に歩いていく。  その少女、インデックスは……何だか良く分からないが、休中を複雑にロープで|縛《しば》られている。ここから見る限り、特に|怪我《けが》とかをしている訳ではない。着衣に乱れもないようだ。  上条は視線を変えた。  インデックスの一歩横に立っている男を見る。  変態———もとい、|魔術師《ゑじゆつし》。  その大男は、全身の血管が|皮膚《ひふ》上に浮かび上がっていた。雨に打たれたようにびっしょりと汗に|濡《ぬ》れていて、閉じた両目の片方ーまぶたの中から、涙のように血の帯が|頬《エう》を伝っていた。  名も知れぬ魔術師は、静かに上条と向かい合った。 「……、悪いのか」  ジャキン、と。|絡操《からく》りを用いて、その弓の|弦《げん》を引きながら。 「たとえ、この命と引き換えにしてでも、|誰《だれ》かを守りたいと思うのは、悪い事なのか」  |闇《やみ》に、|沈黙《ちんもく》が降りる。  両者の間に吹く夜風は冷たく、凍えて、全く優しくなかった。 「悪いに……、決まってる」  そして、上条は答えた。 「アンタ、知ってんだろ。大切な誰かに死なれる事の痛みが。目の前で誰かが苦しんで、傷ついて、でも自分には何もできなくて、どうしようもないっていう苦しみを知ってんだろ」  上条は、それを知っている。  かつて白い病室で、それを押し付けてしまった事があるからこそ、答えられる。 「|焦《あせ》ったはずだ。|辛《つら》かったはずだ。苦しかったはずだ。痛かったはずだ。|恐《こわ》かったはずだ。|震《ふる》えたはずだ。叫んだはずだ。涙が出たはずだ。……だったら、それはダメだ。そんなに重たい衝撃《しようげき》は、誰かに押し付けちゃいけないものなんだ」  名も知れぬ魔術師は、返事の代わりに無言で弓を構えた。  きっと、彼はもう何が正しくて、何が間違っていたのか、それを理解している。  だけど、それでも名も知れぬ魔術師は|諦《あきら》められなかった。  |恐《こわ》かったから。  世界でたった一人。大切な人に目の前で死なれる事が、この世の何よりも恐かったから。 「|断魔《だんま》の|弦《げん》」  圧縮空気の刃を生み出す魔術の名。上条は、その声と同時に走り出した。その右手を握り締め、優しすぎて弱すぎた一人の魔術師を止めるために。  しかし、上条の|拳《こぶし》は届かなかった。  弦が解き放たれる前に、魔術師の体がぐらりと揺らいで、地面に倒れてしまったからだ。  名も知れぬ|魔術師《まじゆつし》は、もう起き上がらない。  じわり、と。倒れた体と床の間から|染《し》み出すように、赤い液体が|溢《あふ》れてきた。  |上条《かみじよう》の顔色が変わる。全力で倒れた魔術師の元へと駆け寄る。  近くに人の気配を感じたのか、その魔術師はゆっくりと口を開いた。  血の混じった吐息と共に、真っ赤になった唇が言葉を|紡《つむ》ぐ。 「まったく。たった、一冊読み取った程度で、……この有り様だ」どこか、ひどく眠たそうな声で、「土台、私のごとき小さな器では、|原典《オリジン》の一冊すら人手する事は不可能だった訳だ。はは、何だ。私の人生は挫折ばかりだ。人生でもう三度も|諦《あきら》めてしまった」 「……、」 「それでも、諦められないものが、あったのだ」  魔術師は、天上に浮かぶ月に向かって|微笑《ほほえ》むように言った。  閉じられたままのまぶたの奥から、優しすぎて弱すぎた涙がこぼれ落ちる。 「ただ一つ、それだけの事、だったのだが、なあ……」  唇の動きがゆっくりになっていき、やがて止まろうとしていた。  インデックスの息を|呑《の》む音が、上条の耳まで屈く。  上条は、一度だけ唇を|噛《か》み締めて、  やれ、と。  上条が命令すると、走り寄ったバカ猫が魔術師を本気で引っ|掻《か》いた。 「ぼごっ、げぶぁ!?」 「なーに一人でキレイに話を終わらせようとしてんだ、このクソ|馬鹿《ばか》」  上条は割と元気にのた打ち回る魔術師を見下ろしながらため息混じりに|眩《つばや》いた。 「今のは夏休みの宿題の分。ったく、お前のせいで宿題はもう絶望的だ。今から廊下に立たされんの覚悟でお前のために働いてやるってんだ、せめてネコパンチぐらい人れさせうっての」  口をぱくぱく動かして何かを言おうとしている魔術師だったが、上条は気にも留めない。そのまま続けて質問する。 「それで、お前の『大切な人』ってのはどこにいるんだよ?」 「がふっ、げふ……なに?」 「だから、禁書目録なんて使わなくても何とかなるんだっつの」上条は軽く頭を|掻《か》いて、「例えばこの右手。名前は|幻想殺し《イマジンブレイカー》ってんだけどな。魔術だろうが超能力だろうが、それが『異能の力』であるならばこの手で触れただけで打ち消す事ができる異能力だ。当然、それは呪いなんてわっけ分かんねーモンでも例外じゃねぇ[#「それは呪いなんてわっけ分かんねーモンでも例外じゃねぇ」に傍点]」  上条は、まるで握手でも求めるように自分の右手を差し出す。  |魔術師《まじゆつし》の表情が、止まる。 「あ……、?」 「|俺《おれ》は魔術師じゃねーから|呪《のろ》いってのがどんなもんかは知らねーけど、結局こいつを使えば呪いなんざ一発で消えちまうモンなんじゃねーのかこいつを使えば呪いなんざ一発で消えちまうモンなんじゃねーのか[#「こいつを使えば呪いなんざ一発で消えちまうモンなんじゃねーのか」に傍点]?」 「な、あ……、|馬鹿《ばか》な」 「馬鹿も何もねーんだよ。アンタだって一度見たろ、テメェの出した風の刃を俺が打ち消すトコ[#「テメェの出した風の刃を俺が打ち消すトコ」に傍点]。良いか、一つだけ言っておく。理屈なんざいらねえ。この右手は、そういうモノ[#「そういうモノ」に傍点]なんだ」  名も知れぬ魔術師は|呆然《ぼうぜん》と、ただ呆然と上条の雷葉を聞いていた。  突然降って湧いたこの展開に、どう反応して良いのかも分からないのだろう。  この魔術師は、もう二度とチャンスは訪れないと思うほどに、絶望していたのだから。  一方、上条は全く気軽にガリガリと頭を|掻《か》いて、 「さってと。そんじゃ|辛《つら》いだろうけど案内してもらうぜ。|悪《わ》りいが明日の七時には帰って来なくちゃ始業式に間に合わねーんでな。……ってか、この時間だと電車走ってんのか? あ、それと『呪い』っつってたっけか。それってやっぱ絵本みてーに悪い魔法使いとかがやってんのか? だとしたら、そっちも|潰《つぶ》さなくちゃなんねーのか。ったく」  一人でブツブツ言っている上条の声を、魔術師は|黙《だま》って聞いていた。  やがて、彼は問う。  恐る恐る、|掴《つか》んだその手が離されないか、不安に思っているように。 「あ、……まさか。本当に?」 「決まってんだろーが。こちとらアンタのせいで夏休みの宿題オシャカにしちまってんだ。ここまで来て結局何も実りませんでしたじゃ納得できねーんだよ」上条は|苛立《いらだ》った声で、「だからアンタには責任を取ってもらう。アンタを引きずってでも案内してもらうぜ。|第一級警報《コードレツド》だろうが何だろうが知った事か。そんで、アンタの大切な人は必ず助け出す。せめて宿題を忘れた理由ぐらいそっちで用意しろ」  時間が止まってしまった魔術師に、上条は|檸猛《どうもう》なほどの笑みを浮かべて、 「そのためには、アンタの協力が必要なんだ。|他《ほか》ならない、世界でたった一人のアンタの力が。だから意地でも手を貸してもらうぜ。アンタだって助けたいんだろう[#「アンタだって助けたいんだろう」に傍点]、自分自身の手で[#「自分自身の手で」に傍点]」  ぅ、ぁ……と。  その言葉に、魔術師の表情が、ぐしゃぐしゃと|歪《ゆが》んだ。  まるで氷が溶けるように、その顔が涙でいっぱいになる。  上条はため息をついた。ふと思う。 「ま、夏休みの宿題は|諦《あきら》めるけど……いや、諦め……ちょっと待て。なぁ、出発する前に宿題持ってきても良いか?」 [#地付き]Sep.01_AM00:00終了 [#改ページ]    終 章 終わりの夜 Welcome_to_Tomorrow.      0(Sep.01_AM00:00 timeover) 「手術完了。うん、みんなご苦労様といったところだね?」  その声で、|芳川桔梗《よしかわききよう》は目が覚めた。今が何時か分からない。ここがどこだか分からない。どこかに寝かされているようだ。ただ、青いタイル張りの床や壁が見える。|天井《てんじよう》だけは真っ白で、天井近くの壁にはガラスの窓がズラリと並んでいる。まるで回廊のようだった。  カチャカチャと視界の外で金属音が聞こえる。ギロチンのように首の辺りに合成|繊維《せんい》のカーテンのようなものがあるため、首から下がどうなっているのかが見えない。体の中で動かせるのは首だけで、残る下は動かない。感覚すらなかった。  と、|誰《だれ》かが芳川の顔を|覗《のぞ》き込んだ。  緑の帽子で髪を完全に包み、同色の大きなマスクで口と鼻を|塞《ふさ》いだ中年の男だった。カエルにも似たその顔が、まるで草むらで昼寝する少女の顔を覗き込む|幼馴染《おさななじ》みのような感じで見下ろしてくる。  ようやく芳川はここがどこだか知った。思わず舌打ちする。 「なんて|趣味《しゆみ》の悪い。部分麻酔で心臓手術をするだなんて」 「負掴は軽い方が良いだろうからね?」  部分麻酔は本来、盲腸などの簡単な手術で使うものだ。手術中にも患者に意識はあって、中には手鏡で手術中の患部を見せてもらう患者もいるらしい。  しかし、心臓のような大規模な手術で部分麻酔は使わない。メリットのあるなしの前に、まずやらないものなのだ。それは足の指を使ってメスを握るのと同じぐらいの大道芸である。  それをこの医者は実行して、しかも手術は成功している。  理巾なんて想像がつかない。もしかすると新しい手術法でも編み出したのかもしれない。  |冥土帰し《ヘヴンキヤンセラー》。  彼はいかなる|怪我《けが》や病気にも打ち勝つ。そのために手段は選ばない、『外』の医学界はおろか学園都市埋事会すら認可しない新技術や新埋論すら利用する。彼の信念は一つしかない。決して患者を見捨てない事、ただそれだけを胸に、彼は己の道を突き進む。  その腕は神の摂理すら曲げると言われ、かつては未知の理論を用いた特殊生命維持装麗を開発した事で、老衰・寿命すらも克服したと言われる。そこに至って彼が何を思ったのかは誰にも理解できないが、以後の彼が寿命の研究を続けているという話は聞かない。現存するただ一つの試作モデルは、とある窓のないビルの一室に安置されているという話だ。 「……しかし、そうすると。わたしは生き残ったのね」 「当たり前だね、|誰《だれ》が執刀したと思っているんだい?」医者は患者に決して苦労を見せず、あくまで|飄々《ひようひよう》と言う。「といっても、正直危なかったんだけどね。|流石《さすが》の僕も死人だけは治せないからね。礼ならあの少年にでも言っておくといいね?」 「あの少年……まさか、あの子が何か? けど待って、そもそもわたしは至近距離から軍用|拳銃《けんじゆう》で心臓を|撃《う》ち抜かれたはずなのよ」 「正確には心臓ではなく、心臓から伸びた冠動脈破裂といった所だけどね。まあ、どちらにしてもそのまま放っておけば君は即死だったろうね?」  冠動脈。心臓に直結している人体で最も太い動脈の一つだ。当然ながら破裂すれば確実に死ぬ。ニュアンスとしては頸動脈をナイフで裂かれるのと同じようなものだろう。 「けど、だったら……」 「うん? そりゃあ、あの少年に血流操作の能力でもあったからじゃないのかな。まるで見えないホースでもあるように、破れた動脈の日から日へ一滴も漏らさず血を通していたのさ。おかげで君は死なずにここまで搬送されてきて、僕が急造のバイパスで動脈を|繋《つな》いでから手術室へ向かったという事だね。ああ、本当に少年には感謝しておくといいよ。君が手術室に向かうまで、意識のない状態でそれでもチカラを使い続けたのだからね?」 「……、」  |芳川《よしかわ》は、|呆然《ぽうぜん》とその言葉を剛き入った。 「搬送されて三時間経過したし、あっちもあっちで難航しているようだね。前頭葉に刺さった|頭蓋骨《ずがいこつ》の破片を取り除くのに苦労しているようだよ。僕もこれから応援に向かうけど、何か伝えたい事はあるかい?」 「……、あちらも部分麻酔でやっているのではないでしょうね」できるわけないかと思いつつも、反射的に問い|質《ただ》してしまう。「彼はどうなるの?」 「うん? まあ、前頭葉に傷がついているらしいからね。言語機能と計算能力、この二つには|影響《えいきよう》が出るね?」 「計算能力……」  それは|一方通行《アクセラレータ》にとって致命的とも言える。『|向き《ベクトル》』の変換には『変換前のベクトル』と『変換後のベクトル』を計算しなければならないからだ。無意識の『反射』すら、一番簡単な演算式を無自覚に行っているに過ぎない。  彼はもう力を使えなくなるかもしれない。一番簡単な『反射』さえも。 「まあ、問題ないだろうさ?」医者は芳川の顔に何か勘付いたように、「どうにもならない事をどうにかするのが僕の信条でね? 彼の言語機能と計算能力は必ず取り戻す、必ずだ」  最後の一文だけが、ふざけた語尾上がりの言葉遣いとは違った。  |芳川《よしかわ》が息を|呑《の》む前に、医者は一転して|瓢々《ひようひよう》とした声で、 「もっとも、これは本人の了承が必要だろうけどね。君も厄介なものを作ったみたいだし、それを利用させてもらうよ。一万もの脳をリンクさせれば、一人分の言語や演算ぐらいは余裕で補う事もできるだろうからね?」  一万。|妹達《シスターズ》。|最終信号《ラストオーダー》。 「ッ! そう、そうよ。あの子は!?」 「ああ、ガラス容器に入った女の子の事かい? あの子なら心配しなくて良いよ。幸い、ウチでも似たような子を。預かっているからね。確か検体番号一〇〇三二号、|御坂《みさか》妹さんだったかな?」 「ちょっと、待ちなさい。ここにも……培養器が?」 「患者の身に必要なものならば、僕は何でも調達するよ? そして話も聞いた。何でも一万ものクローン体を使った並列演算ネットワークがあるらしいね。そいつを使ってあの少年の脳の欠損部分を補なわせてもらうよ。なに、失った|記憶《きおく》を戻すのではなく、あくまで欠損機能の代用だからね、それほど難しい事でもないよ?」  |瓢々《ひようひうよ》と告げる医者の顔に、|一瞬《いつしゆん》だけ|翳《かげ》りが生まれた。  失った記憶。  七月末に人院したある高校生の記憶は、この医者にも戻せないという。おそらくそれが、彼にとって初めての敗北という事になるだろう、 「けれど、あのネットワークは同じ脳波の波長を持つ者だけで作られるものなのよ。波長の違う|一方通行《アクセラレータ》が無理にログインすれば波長の合わない彼の脳が焼き切られてしまうわ」 「ならば双方の波長を合わせる変換器を用意すれば良いね。ま、デザインとしては内側に電極をつけたチョーカーという所かな?」  医者は簡単に言うが、それにどれだけの技術と予算が注ぎ込まれるのか しかし、それを知っても彼は|躊躇《ちゆうちよ》しないだろう。そして開発費は誰にも請求しない。そういう人間なのだ。 「さて、と、僕はもう本当に行くけど、君はどうするんだい?」 「どうする、とは?」 「心労を重ねるようで心苦しいけど、今回の件は『上』に知られたみたいだね? 研究所は解体、『実験』は凍結でなく完全なる中止、つまり君も解雇だよ。あそこは私設ではないから料が借金を負うような事はないし、|銃撃《じゆうげき》の件も正当防衛と|緊急回避《きんきゆうかいひ》で通るだろうが、しかし研究所を一つ|潰《つぶ》してしまうという失態はあまりに大きいね。。君はもう研究者としては生きていけないはずだよ?」 「……、他に、どんな道があるというのかしらね」 「あるね?」医者はいかにも簡単に、「道なんていくらでもある」  その言葉に、芳川は遠い日を思い出すような目をした。  いくらでもある道の一つ。例えばそれは学校の先生かもしれない。甘いのではなく優しい先生。|一方通行《アクセラレータ》や|最終信号《ラストオーダー》、常識の『じ』の字も分かっていない彼らに一つ一つ大切な事を教えていく、そんな道かもしれない。  それは、|魅力的《みりよくてき》だった。  小さく|微笑《ほほえ》んでしまうほどに、魅力的だった。 「ねえ」  背を向けて手術室を出て行こうとする医者に、|芳川桔梗《よしかわききよう》は声をかけた。 「なんだい?」 「あの子を助けてあげて。できなかったら、わたしはあなたを許さないわ」 「|誰《だれ》に向かって言っているんだか。あそこは僕の戦場だよ? そして僕は必ず戦場から帰還してみせるね。今まで一人でずっと戦ってきた患者を連れて、さ」  医者は手術室から出て行く。  芳川は両目を閉じた。自分の周りで手術衣を着た人|達《たち》が何かの後始末をしていたが、そんな事は気にならない。彼女はただ眠るように、己の内側へ意識を傾ける。  そうして、一人の少年の言葉を思い出した。  そして、少年の言葉を思い出す。 『誰にモノ言ってっか分かってンのかオマエ。|俺《おれ》ァアイツらを一万人ほどぶっ殺した張本人だぜ? そンな悪人に誰を救えって? 殺す事ァできても救う事なンかできねェよ』 「なんだ」  芳川は、ほんの小さな笑みを浮かべて、一言。 「やればできるじゃない、あの子」 [#改ページ]    あとがき  一巻からお付き合いいただいている|貴方《あなた》はお久しぶり。  五巻もまとめてご購人した勇気ある貴方は初めまして。  |鎌池和馬《かまちかずま》です。  さて、今回は短編集です。|電撃《でんげさ》hp掲載分(大加筆修正)+書き下ろし三編という構成になっています。元より時問の流れが低速気味の本シリーズでしたが、今回はズバ抜けて低速です。全体を通して見れば夏休みだけで五巻も引っ張っていますしね。  五巻は特定のオカルトキーワードやヒロインを軸にした構成ではなく、学園都市の八月三一日をテーマにしています。短編というからには本編ではできない事をやらねばという訳で、とあるキャラに主役級の華を持たせたり、全章にわたる共通の裏テーマをいくつか用意したり(例を一つ挙げるなら、|御坂《みさか》スルー伝説など)と、色々好き勝手にやらせていただきました。  |他《ほか》にもインデックスとステイルの過去話、|上条《かみじよう》と青髪ピアスと|小萌《こもえ》先生の過去話、|美琴《みこと》と|白井黒子《しらいくろこ》の過去話など、短編にできそうな小ネタは色々あるのですが、今回はそういった話は見送らせてもらいました。機会があればそういった小ネタも使ってみたいものです。  イラストの|灰村《はいむら》さんと担当の|三木《みき》さんにはいつもいつもお世話になっております。今回もありがとうございます&次回もよろしくお願いします。  そして本書を手に取っていただいた読者様。未熟な鎌池が五巻も本を刊行できたのは紛れもなく貴方|達《たち》のおかげです。本当にありがとうございました。  それでは、貴方の目に本書が留まった事に感謝しつつ、  それが貴方にとって何らかの足しになる事を期待して、  本日は、この辺りで筆を隅かせていただきます。  ちなみに現在、最年長ヒロインは小萌先生です。……どうでしょう? [#地付き]鎌池和馬 [#改ページ] とある魔術の禁書目録5 鎌池和馬 発 行 2005年4月25日 初版発行 著 者 鎌池和馬 発行者 佐藤辰男 発行所 株式会礼メディアワークス 平成十八年十月三十日 入力・校正 にゃ?